おやすみだけで終わりたい

久末 一純

第1話さよならのかわりに

今日を終りにする言葉は決まってる。

 人生を一日という単位に区切る最後の挨拶。

 横になって目を閉じて、同じ一言をくちにする。

 今日を何とか生きたことの確認作業。

 今日はここまでという終業報告。

 誰のためのものでもない、ただ自分へ報せるためだけのもの。

 それでも毎日欠かすことはない。

 それは昨日も一昨日も、今日に続く今までに、ずっと繰り返してきた儀式。

 どうかこの睡眠が、自分に安寧をもたらしくれることを願いながら。

 どうか心と身体に安息を与えてくれることを望みながら。

 今日をまた、いつも通りに過ごせたことに安心する。

 今日を悔いなく過ごせたことに満足する。

 だから自分は今日で終わってもいいと告げるように。

 たった一人の暗闇のなかで、「おやすみ」の言葉で今日の終わりを宣言する。

 例え明日がこなくても、構わないというように。

 


 

 それでも明日はやってくる。

 そして明日は目覚めた瞬間から今日になる。

 また今日を生きることを許可された実感と共に。

 今日を始める言葉は何もない。

 ただ昨日で終わりにならなかった幸せを感じながら、いつも通りに今日を生きていかないといけない。

 それが目覚めた者の、明日を今日に変えた者の義務なのだから。

 いつも通りに朝の支度を済ませ。

 いつも通りの時間に家を出る。

 そのときに、「いってきます」の言葉は忘れない。

「いってらっしゃい」と返ってこないのはわかっていても。

 誰もいない空間に、そうせずにはいられない。

 何故ならこれも自分自身の”いつも通り”のひとつなのだから。

 崩してはならない、積み重ねのひとつなのだから。

 



 日中もいつも通りに過ごしていく。

 やることは昨日と変わらない。

 昨日と同じことができることに心の底からほっとする。

 そうすることが、前に進むことにつながっているから。

 そうすることで、前に進んでいけるから。

 なのにそれがができなくなったとき。

 いつも通りでにできなくなったとき。

 心は底から悲鳴をあげる。

 いつも通りを維持すること。

 そのために生きているのに。

 そうするために生きているのに。

 そうしなければ、いけないのに。

 ”いつも通り”がなくなる喪失感。

 今まで積み重ねてきたものが崩れてしまう恐怖感。

 またやり直さなければならない絶望感。

 これまでこなしきた全てが無駄になったという強迫観念が、心をどこまでも蝕んでいく。

 今までできていたことができないことが苦しい。

 どうしてあんなことができていたのかわからない。

 その重圧が心を圧し潰していく。

 今までできていたことをやらなければいけないことが辛い。

 どうしてあんなことをしなけれければいけないのかわからない。

 その負荷が心をひしゃげさせていく。

”いつも通り”を取り戻すために、やらなければならないことができないのが痛い。

 その事実が、心を無茶苦茶に切り刻んでいく。

 それでもどうしてこんなことになったのかと思うことを止められない。

 そしてその原因をつきつめていけば、それはいつも自分自身に辿り着く。

 それだけは何度同じことを繰り返しても、”いつも通り”に変わらないことだった。

 どうしてあのときあんなことをしてしまったのか。

 なんであのときこうしておかなかったのか。

 そんな自責と後悔だけが延々と、あたまとこころの中で鳴り響く。

 いつも通りに戻るためにはいつも通りにしなければならない。

 それができない苦しみと辛さと痛みを抱えながら、何より貴重な時間を無為に浪費する。

 そこでひとつの輪になって、同じ後悔と変わらない自責はぐるぐると周り続ける。

 金も、時間も、何もかも無駄にしたという強迫観念が、心だけでなく身体も蝕んでいく。

 膨れ上がる強迫観念に頭痛と吐き気を催しながら指一本動かせないまま、目覚めている間はただ耐える以外の術がなかった。




 帰ってきてそのまま布団に倒れ込んだまま、ずっと起き上がることができなかった。

 それでも「ただいま」を言ったことは覚えている。

「おかえりなさい」と返事がなかったことも。

 そういうところだけはまた、”いつも通り”なのだった。

 誰でもいいから傍にいてほしい。

 誰でもいいから「大丈夫」と言って欲しい。

 あのときに戻りたい。

 あのときに戻して欲しい。

 そんな心の弱さを自覚したまま、ただ苦痛に耐えている。

 だけどそれももう終わりにしよう。

 今日をもう終わりにしよう。

 もう現実を生きるのを終わりにしよう。

 今の自分に唯一つ残された逃げ場所へと逃避しよう。

 どうかこの睡眠だけは、自分に安寧をもたらしくれることを心の底から願いながら。

 どうか眠っている間だけでも、心と身体に本当の安息を与えてくれることを心の底から望みながら。

 だけど、眠れないことはわかっている。

 それでも尚目を閉じる。

 もう何も見たくなかったから。

 もうそれしかできなかったから。

 最早生きる糧すらくちにせず。

 終わりの言葉をくちにする。

 今日を終わりにするだめに。

 明日には、”いつも通り”になってるのを祈るように。

 明日からは、また悔いのない日々をおくれるように。

 そうだったらどんなにいいかと、ありえない夢をみて。

 たった一人暗闇の中でもがきながら、「おやすみ」と今ある全てに別れを告げる。

 例え明日がこなくても、後悔しないと確信できる。

 生きてる間自分の失敗を観せられ続けるだけならば。

「おはよう」だけは言いたくないと、いつも通りに思いながら。

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