第2話剣士:断八七志流可の記録/1

 社長から直々にこの仕事を言い渡されたその瞬間、僕の心はたった一言の思いに塗りつぶされた。

 それは”ゆっくりお風呂を堪能してからじっくりとお酒を楽しみたい”という正真正銘間違いなく、己の未熟な心が我欲に塗れた願望を生み出した。

 まだ何一つ始まってすらいないのに、一足どころか二足も三足も飛ばしてそこまで至るあらゆる過程の全てを無視し、何もかもが何の問題もなく片付いて全てを綺麗サッパリ済ませたあとの、に訪れる特別な時間。

 一切の憂慮や懸念から解放され、寛ぎと安寧に満ちた至福のひとときプレシャス・タイムという結果にまで僕の意識は超高速で早送りされた。

 しかしそれは十全にが手にすることができる当然の権利であり、為さねばならない義務でもあった。

 己の持てる全速力で現実から顔をそむけたら、逸した視線の先では余裕で回り込んでいた現実がにっこり笑って待っていた。

 そんな絶望の幻視と共に一瞬未満で自失から我に返る。

 そんな自分の内面に気付いた様子は、同じく横一列に並んだ大切な仲間のフェルやニーネ、その正面に座して柔らかな笑みを向ける社長にも見られない。

 もとより昔からほとんど表情に変化がないと言われ続けてきた。それに倣ってつまらない人間だとも。

 これがフェルなら何も喋らなくても思っていることや、感じていること、考えていることがありのまま表情となって顔に表れるので内心がすぐ分かる。なのにその上よく喋る。そして喋っている内容と表情がそのまま繋がっているのが何だか妙に心地よかった。

 ニーネは一見無口で無愛想に見えるが、言いたいことや思ったことは躊躇わずにはっきりと言葉にする。表情も嬉しければ向日葵のように笑い、悲しければ真冬の海のように重く沈む。そしてまた楽しいことがあれば弾ける花火のように表情どころか全身で喜びを表す様はとても愛おしく可愛らしかった。  

 口下手で上手く気持ちを伝えられず、枯れ木のように面白身のない表情しか浮かばない上、人の気持を察するのも苦手という割とどうしようもない僕からしたら二人共眩しくて正直ちょっとだけ羨ましかった。

 同じ表情が変わらないにしても、これがきりっと引き締まった鉄面皮や、凪のように静かな無表情ならまだ良かったのかもしれない。でもどうやら僕の場合、ぼんやりとした曖昧な顔つきと常に眠たげな眼差しをしているようで、他人からは何にも興味がなさそうな、何をしてもつまらなそうな、見ようによっては馬鹿にされていると思われることもままあった。

 勿論そんなことは全く思っていない。よくある話でただ単にや感じたことや、思ったことや、考えたことを表す表情筋やそれを伝えるための神経が鈍いだけなのだ。

 そんな不出来な僕の顔を通して内心を思い遣ってくれるフェルやニーネは本当にかけがえのないのない大切な仲間だと心から思う。

 これは僕自身でも以外だが好奇心も喜怒哀楽の感情も人並み以上に強くあると今迄の経験から自覚している。

 勘違いだったなら甚だ恥ずかしいことこの上ない。今すぐ腹も首も刃を走らせたい衝動を抑えられない。

 

 それは剣の極みは未だ遥かな境地にあり、そこに至る修行も修練もまだまだ足りない

 しかし少なくとも僕は自分が未だ至らぬ未熟の身であることを知っている。この既知と無知の差は技量や経験の差と同じ、いや、もしかしたらそれ以上に大きな差なのかもしれしないし、もしかしたら全く異質な違いなのかもしれない。

 そういえば以前フェルが言ってたっけ。もとは誰の言葉だっかは忘れたけど無知の知がどうとか、我思う故に我ありだとかなんとか。

 その哲学みたいな考えは錬金術に必要なのかと突っ込んだを憶えている。

 きっと世界のどんなところでもそこに人がいる限りに同じような教えや考えがあるんだろう。そして生れた場所も、育った環境もまるで違うのに似たようなことを知っていたり、思ったりするのが何だか可笑しかった。

 師匠も以前、剣であろと他の何かであろうとと仰っていたっけ。

 そうして現実からは逃げられないなら、せめてできるだけ遠ざかりたいのが人情とばかりに、そんなあだしごとをぼんやりとした曖昧な表情の裏で考えている間に仕事の細かい説明は終わったようだ。

 まあその辺りの話は後でフェルに聞けばいいだろう。彼女は誰の話でも熱心に聞くし、一度聞いたことは忘れないという、僕からすれば魔法のような特技を持っている。前にそんな話をフェルに伝えたら、こんなことは錬金術師として当然の基本であり特技でもなんでもないと、本当に何でもないことのように言っていた。そしてその後通った鼻筋に皺を寄せた険しい顔で、なんて言葉を軽々しく口にしちゃいけないと言い方は悪いが何だか吐き捨てるように教えてくれた。

 あのときのフェルにしては非情に珍しい表情と口調に宿っていたのは、僕でも分かるほど強い嫌悪感と不快感だった。

 ニーネもああ見えて意外とと言ったら失礼だけど人の話は素直に聞くほうだ。さっきも眼だけでちらりと見るとこくこく頷きながら聞いていた。それに話がちゃんと頭に入っている証拠に、瞳にはしっかりと理解の光があった。

 結局一見人の話を聞いてるようで一番聞いてないのは僕だけかと自嘲することで、社長御自らのご説明をほとんど拝聴していなかったという事実は棚上げする。

 それにどんな説明をされても最初に抱いた思いを変えることはないだろう。

 僕がまだそれなりに聞いていた話とその後の聞くとなしに耳に入ってきた話を繋ぎ合わせて要約すると、大体こんな感じだ。

 僕たちが生まれるずっと前に人類と人外の間で結ばれたたくさんの約束。そのなかの一つにお互い無駄な争いは避けるために定められた生存圏の棲み分け。今では領土権や領有権なんて言ったりもするらしいけど。とにかくそのと契約した同業他社の部隊が向かっているのを大事になる前に水際で止めなさいというのが僕の把握した仕事の内容だ。

 こういう人類と人外、お互いの境界付近でのいざこざは大して珍しいものじゃない。寧ろ日常茶飯事に近い。

 人類側が欲とお金のために人外の領域に土足で踏み入ることもあるし、うっかり迷い込むこともある。

 逆に人外側が大昔の約束なんて気にもせず人間を殺したり食べたり、町や村を襲ったりする。

 こういった事件だか事故だか災害だかの仲裁や調停は僕たちみたいなのが所属する会社の基本的な仕事と言ってもいい。

 大抵はまず最初にお互いの落とし所を話し合いで見付けだす。その後どういった折衝や手続きがあるのかは知らないが、それども何とかお互い納得して解決すれば万々歳。最上級の成果だ。

 だけどこういった事例は稀だ。ほとんどの場合相手が人類種だろうと人外種だろうと対象の排除による事態の解決。つまりは殺し合いになる。 

 人類同士ならそれは大概会社や事務所といった組織間での争いとなり、お互い異なる依頼人の意向を反映した契約を結んだ上で生じる、業務上避けられない現場での戦い殺し合いになる。

 この場合はまだマシで現場レベルでもある程度話はできるし、会社や事務所でも徒に社員や所員市場価値を失うのは避けたい。

 なので契約さえ完了すれば組織的には何も問題はないので、何だかんだで実際に死人がでることは多くはない。なかには次元の違う埒外の化物や怪物がいるが実際に遭遇する確率はツチノコよりも低いかもしれない。

 これが人外相手だと話はごく単純なもになる。殺るか殺られるかキルド オア キルド、対象を全て殺し尽くすか、降伏の意を示すまで戦い続けることになる。ただ数が多いだけなら戦略と戦術と連携を駆使して戦えば大した損害も出さずに勝利することができる。

 しかし高位の竜族などの特に強力な個体が相手の場合はそんなものは通用しない。

 彼らはたった一体で神話時代の戦を顕現し、人類などどれだけ集まろうと全く意に介さなず箒で払うようにまさに文字通り一掃する。

 会社や事務所単位で丸ごと壊滅した例が幾つもある。大昔にこんな連中と戦争してよく生き残ったな人類と思わずにはいられない。

 その証拠なのか証明なのか、彼らに対抗できるのは人類のなかでも、を超えた一部の同格の者たちくらいであり、さっき話にでてきたツチノコたちがこれにあたる。

 今回はそんな化物たちや真正の人外を相手にするのはなさそうなことだけが唯一の救いだ。

 だけどそれ以外は厄介そうなことだらけな仕事だという印象は変わらない。

 この時点で僕たち三人が対応するということは話し合いはとっくにおじゃん。

 何が目的か知らないし、正確な数も分からないけど部隊というからそれなりの人数が相手だろうし、何時戦えばいいのかそもそも何処を行軍していて何処に展開するのかも不確定だし、一体どんな作戦なのかまるで心当たりがない。

 それもこれも全部僕が説明を聞いていなっかたせいだけど、たとえ聞いていたとしても厄介そうという印象が、厄介という明確な事実に変わるだけという気がしてならない。フェルから話を訊くのはやめようかなと、かなり本気で思った。

 つまるところ僕、断八七志流可たちばなしるかの心は最初から何も変わることはなく、今後も何一つ変わることはないだろう。

 それだけが僕がこの仕事に対して抱く思いの全てだった。


                           ◇◇◇◇◇


「やっぱり超面倒くさい……」

 その思いはこうして実際にを目の当たりにしても変わることはなかった。

 その思いは、あの後フェルからの説明を受け疑問点は解消し、相手の正確な人数の把握に始まり武装や兵種に陣形と取りうる戦術を考慮して、行軍している道程と予想される展開地点の地形を調べ上げ、それらを元にして立案されたこちらの作戦も決定し、必要な装備を揃え、その後の細々とした準備も全て終え、こうしていざ仕事開始の直前に至るまで心から消えることなくずっとあり続けた。

 確かに僕はものぐさなところがないとは言えないが、仕事に対してここまで後ろ向きな気持ちを抱いたのは初めてかもしれない。

 すわもしかしたらこれも何かの虫の知らせかと不吉な考えが浮かんだ瞬間、耳に装着した通信機から夜の静けさを駆逐するフェルの声が響いてきた。

「ハーイ二人共聞こえるかしら。しー、ニーネ、準備はいい?」

「大丈夫、何時でもいいよ」

「いつも通り、問題ない」

 僕もニーネも短い返事のなかではっきりと、肯定の意志を伝える。

「オッケー、それじゃあガーっといってザーっとやってちゃっちゃっと終わらせてかえりましょうか」

 どこかの野球監督か漫画家みたいにやたらと感覚的なことを言い出す。

 フェルが新しい言い回しを使うたび、一体どこで憶えてくるのか不思議に思う。

「賛成。ここ虫が多いから」

 それは後で考えるとして、僕は正直な感想を返す。

「わたしも早く帰りたい。お腹空いたから」

 間違いなく本音だと分かる理由でに感覚的も同意する。

「僕の回りの虫たちも腹ペコみたいだ。さっきからいろんなところを刺されてる」

「愛されてるね―、でもしょうがないか。しーは美味しいもんね」

 こら、ニーネの前で何を言ってるんだ。またいつかみたいになったらどうすんだ。

「わたしも美味しいもの食べたいな」

 ニーネが素直な子で本当によかった。

「帰ったらお腹いっぱい食べられるよ。それにしても嫌いなものに好かれるのは邪魔なだけだね」

 僕は虫がそれほど好きじゃない。もう少し正確に言うと苦手だ。寧ろ端的にはっきり言って嫌いだった。

「ノープロブレムよ、しーのこと一番愛してるのは私だから」

「わたしだってしるかのこと大好きだよ」

「ありがとうフェル、ニーネ。僕も二人を愛しているよ」

 本当の気持ちを真っ直ぐに向けてくる二人に、僕も飾らない心を返した。

「ふっふっふー。それじゃお互いラブラブなことが確認できたし、跡が残るといけないから帰ったらちゃんとケアをしなとね。当然身体の隅々まで」

 嬉しいけど、その提案には一瞬躊躇する。

「わたしはー?」

「もちろんニーネのもちゃんと診るわよ」

「よし、それなら全力出しても大丈夫だね」

「そうよー。だからあとはこのフェルメルス・ジェルルド・ローゼンクロイツに任せなさい」

「確かにのフェルなら何でも任せて大丈夫だと思うけど」

「どういう意味よしー」

「いや、虫刺されのケアは全部任せるって意味だよ」

 僕は腹をくくって覚悟を決めた。

「え、そうなの!?これはもうやる気が今にも爆発しそうだわ!じゃあ二人共いつも通りにやって三人揃って帰りましょう」

「当然。皆で帰ろう」

「分かった。わたしもみんなで帰りたい」

「素晴らしいです。それでは時間になったら作戦決行よ。皆に世界の全ての幸運を。では通信終了」

 その一言と共に二人の声は途切れた。通信自体は繋がっているから呼びかけさえすれば応えてくれるだろう。

 しかし何が起こるか分からない。盗聴や通信乗っ取りの対策はされているとはいえ不要な通信は避けたほうが無難だろう。

 それにあれだけのやり取りで十分だった。

 心を塗りつぶそうとしていた不吉な予感が、今は綺麗に拭い去られている。

 まさか狙ったわけではないだろうけど、出会ったときからからそうだった。

 僕の心が不安や不吉に沈み込もうとする、必ず僕の手を浮かんで引き上げてくれた。

 。 

 仲間が何かがあったとき、手を伸ばさずにはいられないのだ。

 いつもと何も変わることのないニーネも声も心を支えてくれた。いつも通りなんだと。

 三人でいるのだから何も変わることはないんだと。

 ずっと心にわだかまっていた曇天が消え失せ、澄み切った青天を取り戻す。

 フェルやニーネのことは勿論大切だし愛している気持ちは本物だ。

 ただ僕には二人に対すものとは異なる、信頼と愛情を持っている共に戦場を駆けるものが二つある。

 その戦友にして相棒でもある愛刀と愛剣はいつも通り僕の腰と背中の定位置にあり、その心強さを心地よい二振りの重さで実感する。

 確かに同年代の標準的な女性よりも身体が全体的に色々と小さいことは僕自身理解している。

 最初は抜くのも四苦八苦して転げ回っていたけど、それでも長年繰り返したおかげで今では何の苦もなく自然にできるようになっていた。継続は力なりという言葉は至言だと思う。

 それは何千何万何億回もの鍛錬の果てに辿り着き得る

 まるで解放された月光に濡れ光る刃。

 実際の断八七志瑠歌たちばなしるかがかなり小柄な体躯であることを差し引いても、抜かれた二振りは規格外の長さと大きさを持つ長刀と大剣だった。

 その長大で巨大な二振りの刃を完全に己の身体の一部となして振るい、曇りなき青天の心にいつも通り気合いを入れるために自分の名を高らかに口にする。

 その白刃煌めく名乗りによって、揺るぎない決意と覚悟を心に刻む。

「我が氏は断八七!。名は志流可!。無限と極限の境界を刃によって劃かつ者!僕の前に立つもの全て、五体断たれて地に沈め!」

 そう言葉を発し、生き抜く決意と討ち殺る覚悟が瞳を剣士のものへと研ぎ澄ます。

 その頬に若干朱が混じっているのはご愛嬌。

 そこに言い終わると同時に三人お揃い色違いの時計が作戦決行の時刻をを告げる。

 その瞬間、小さな体躯が幽谷に聳える深山の如く静かに大きく見えるほど、身体中に力が満ちる。

 そして眼下には雲霞の如く倒すべき敵が広がっている。

 恐れなど微塵もあるはずなく戦意と闘志だけを漲らる。

 己自身を一つの刃と化して一番槍の誉れに恥じぬ務めを見せるべく、力強い一歩で死線へと踏み込んでいった。

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