第四話 休職者復帰の手引き(6)

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 気の重くなる話だった。8プランニングに転職して以降、トラブル、いざこざの連続だったが、これまで経験した苦労とは、今回の一件は種類が違う。息を吐くのももどかしくて、東子は一人、デスクで背中を丸める。明かりの落ちたオフィス。午前零時を回って、さすがに社内に人影はない。時間外労働は、東子のポリシーに反するものだったが、今回ばかりは大人しく自宅で寛ぐ気分にはなれなかった。問題の打開策を見つけること――。

 社長である叔父からは、何とか穏便に済ませてほしい、と言い含められている。それが、会社の浮沈に関わるから、と。言っていることはわかる。会社が潰れてしまえば、東子はもちろん、現場の全員が路頭に迷うことは間違いなかった。

 それだけじゃなくて、8プランニングという会社には、かけがえのない歴史と伝統があるのだ。先代の社長を始め、たくさんのアニメーターたちが残してきた技術、経験、想い。アニメの鬼、堂島蕎太郎もその一人で、彼が今回の話を聞いたらどんな言葉を口にするのか、全部話してしまいたい誘惑に駆られる。

 ともかく、東子が担った責任は重い。だとしても、やろうとしていることは、自分の流儀に真っ向から反する行為だ。従業員の労災をうやむやにする。もちろん、まだ間宮の一件が労災と決まったわけじゃない。本人が主張しても、実際に判断するのは労働基準監督署だ。正式に労災保険の申請を出して、入念な調査を経て、ようやく労災認定が判断される。特に、鬱病を含めた精神障害に関する労災判定はデリケートなものだから、申請して即補償の決定となることは、可能性としては低いだろう。

 それでも、労災の申請を行うこと自体が、会社を難しい局面に追い立てることになる。自業自得といえば、その通り。これまで、きちんと社会保険の手続きをしてこなかった、8プランニングの失態そのもの。だからと言って、叔父を責められるか。先代の社長やスタッフたちを断罪して良いものか。アニメ業界の苦しい現実。それをまざまさと見せつけられてきた東子には、どうしても簡単には割り切れなかった。美しいものほど、尊いものほど、その裏には脆く儚い欠点が隠されている。それを告発することが、労務管理者として、自分に出来る唯一のことなのか。

 がた、と物音を遠くに聞いて、物思いからやっと醒める。東子のデスクは、事務所の奥。出入り口のガラス戸が開いて、誰か入室してきたらしかった。薄闇に、ぼんやりとした長身が浮かんでいる。足取りは戸惑いもなく、まっすぐ東子の方へと近づいてくる。用があるというよりも、こんな時間に居残りしている人間を、見物しに来た様子だった。デスクの手前で立ち止まって、胡乱な視線を向けてくる。目つきに張り付いた、鋭い剣幕――堂島蕎太郎が、資料の茶封筒を片手に立ちつくしている。

「自縛霊かと思ったぞ」

 遠慮なく、率直な口ぶりで、アニメの鬼は切り出してくる。

「電気くらいつけろ。無茶な節電じゃあるまいし」

「現場のスタッフは、どなたも残ってらっしゃらなかったので」

「早く帰れ、と号令を敷いたのはおまえだろ。納期は常にぎりぎりなのに。そのおまえが、午前様でどうする」

「堂島さんは、こんな時間に?」

「期限を待てない仕事だ。資料を取ったら、すぐに帰る」

 勤務時間のルールを彼なりに気にしている、ということだろう。言葉通り、近くの机から荷物を持ち上げると、そのままくるりと踵を返す。

「待ってください、堂島さん。相談に乗っていただけませんか?」

「相談?」

「折り入ってお話が。間宮さんのことで」

 間宮の名前を出した途端、振り向きかけた横顔が、再びそっぽを向く。あいつのことには干渉しない――言った台詞通り、今日の今日まで、堂島は「吸血鬼」の蛮行に一言も口を挟んでいない。

「俺には関係ない」

「今は関係ないかもしれません。でも、堂島さんにとって、間宮さんは決して無縁な存在じゃなかった」

「何を」

 苛立つように振り返ってきたところ、東子はデスクのノートパソコンを開く。画面に映し出されたのは、アニメの戦闘シーン。洗練されたアクションが売りの『暁の恒星・エンデュリオ』――その第十七話「取り残された貴方は?」の一場面だ。

「おまえ、それを」

「十七話は、堂島さんの演出回。と同時に、作画監督に間宮さんの名前がクレジットされていました。他にも、多くの回で二人はタッグを組んでいます」

 エンデュリオのスタッフロールを見直して、発見したものだった。

 演出と作画監督は、車の両輪のようなもの。一方が作品全体に気を配りながら、一方がアニメの命である「絵」そのものに心血を注ぐ。一蓮托生だよね、とは両者の関係を須山に聞いた時に返ってきた答えだ。一つの作品を、両者の責任において作り上げる。戦友とも呼べる関係の中で、堂島と間宮が全く没交渉だったとは考えにくい。

 それに、本人が言っていたじゃないか。エンデュリオを支えている人間がいるとすれば、それは自分ではなく、天才一人きりだと。

「何が聞きたい」

 鬱陶しそうに鼻を鳴らしながら、どすんと手近な椅子に腰を下ろす。胡乱な目つきは変わらなかったが、そのまま立ち去ることだけは、思い止まってくれたらしい。

 思い切って、東子も切り出した。

「間宮さんの人格についてです。堂島さんは、どう思われますか? 復帰してから、職場を引っかき回すようなことばかり」

「人の人格について、とやかく言う趣味は持ち合わせていない。その上で言えることがあるとすれば、人それぞれ、力の発揮の仕方は違うということだ。少なくとも、それであいつは結果を出している」

「他のスタッフを蔑ろにしてもですか? 吸血鬼――間宮さんが、スタッフの力を必要としていない、という話は聞きました。それによって、たくさんのアニメーターが筆を折ったとも。全部が真実だとは私も思いません。ですけど、ここで間宮さんと接して感じるのは、噂通りの無茶苦茶ぶりです。個室を要求したり、人を召使いみたいに利用したり、あげく休職中の扱いまで……」

「何を言おうとしているか知らないが、さっき言った通り、俺に興味はないし、口を挟もうとも思わない。相変わらず、厄介事に巻き込まれたか? 労務管理のいつものごたごた。それなら、いつも通り汲々としていろ。顰めっ面が、おまえにはお似合いだ」

「会社が引っかき回されてもですか!? 詳しいことはお話しできません。でも、このまま間宮さんを放っておいたら、私個人だけじゃなくて、会社全体がダメージを負いかねないんです。だから、堂島さんに何かヒントをもらえたら、と」

 言いながら、自分が何を聞こうとしているのか、その正体が曖昧になる。叔父の依頼通り、労災の一件をうやむやにしたいのか。それとも労務管理者として、正論を押し通したいのか。どちらにせよ、目の前の人物に聞いたところで、はっきりとした答えが見つかるとも思えない。それでも、誰かに聞かずにはいられなかった。それが、良しにつけ悪しきにつけ、現場を守ることにかけては決して手を抜かない「アニメの鬼」であればこそ。

 けれど、返った声は、なおも超然としている。

「悪いが、俺は口出ししない。間宮敬吾に関しては、絶対に」

「堂島さん!」

「ただし、一つだけアドバイスしてやる。。天才を扱うとしたら、やれる手だてはその一つくらいだ」

「そんな、無責任なこと」

「良いから早く帰れ。考えるだけ、時間の無駄だ」

 猶予の時間は、それで終わりだった。乱暴に椅子から立ち上がると、今度は挨拶もなく背を向ける。ガラス戸の向こうに消えるまで、あっという間だった。取り残された薄闇に、東子は肩を落とす。ノートパソコンの画面には、エンディングテーマの映像が流れ始めたところだった。

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