第四話 休職者復帰の手引き(5)

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 週が明けてからも、労務管理者である東子の苦悩は尽きない。

「間宮さんが勝手に、部署の備品を持って行っちゃうんですけど!」

「三階の音うるさいよ! どうなってんの!?」

「冷蔵庫のプリン、食べられたああああああ……!」

代わる代わる、鬼の形相のスタッフたちが東子の机まで飛んでくる。噂に違わず、吸血鬼こと、間宮敬吾の奔放ぶりは凄まじかったが、なぜかその苦情のことごとくが東子の元へと届けられる。やれルールを守らせろ、特別扱いは不公平だ、あげく挨拶の仕方をしつけ直せ……とお門違いの要求まで持ち出されて、どうやらすっかり、間宮の世話係を押しつけられてしまったらしい。

 もちろん、職場復帰に当たって、東子も出来る限りのサポートを心懸けるつもりだったが、やってることが今のところ動物の世話じみている。それも、特別厄介な珍獣の。再三、間宮本人にはスタッフの苦情を申し入れてはいるが、「それって凡人の事情だよね?」「僕の半分でも稼ぐようになってから言えばいいのに」と、上から目線のオンパレードで、当人たちが聞いたら火に油を注ぐこと請け合いだった。当然、東子が取りなすしかなかったが。

「私って、人事の人間だよね?」

 デスクで一人、大量の苦情に悩まされながら、東子は呟く。現場を支える、裏方の仕事。逆に言えば、現場のいざこざからは最も遠い場所にいるはずが、なぜか現状は板挟みの地獄。こういう時、すぱっと大鉈を振るうのは、決まって「アニメの鬼」の裁きであるはずなのだが、例の宣言通り、なぜか間宮のこととなると堂島は一切口を挟もうとしない。そうなると、全てのトラブルが東子の元に回ってくるわけで。

 はあ、と重たい息を吐き出しながら、手元の書類を乱暴に捲る。復帰の手助けになれば、と徹夜でまとめた復帰支援プラン。サポートの内容や「試し出勤制度」にまで言及した中身だったが、本人とまともに話し合えない内は、絵に描いた餅でしかない。最初の対面以降、三階の仕事部屋に閉じこもるばかりの間宮だった。

「ちょっとちょっと、東子ちゃん。彼、どういうことなの?」

 焦った表情で飛び込んできたのは、東子の叔父でもある、8プランニングの社長、平河進。またか、と思わず力が抜けてしまったのは、叔父の口から「間宮君」と相変わらずの名前を聞いてしまったせいだ。本日、五件目のクレーム。

「騒音ですか? 人間関係のトラブルですか? それとも今度は、経費でお寿司の出前でも注文したとか?」

 脊髄反射の要領で、東子は叔父の剣幕に応じる。ところが、当人の焦りは一通りではなかったらしい。

「労務のトラブルはこりごりだよ。今朝方、彼がこんなものを」

 言って、差し出したのは一枚の用紙。先頭に「要求書」とある。

「えっと、『下記の要求が決定されましたので、実情を理解の上、誠実に応対するよう要求いたします。一、休職期間中の賃金の相当額を補償すること……』って、なんですか、これ?」

「労災保険の申請要求。鬱病は、業務上のものだからって」

「労災保険?」

 声を上げてから、改めて「要求書」に目を通す。それっぽい文面ながら、おそらくテンプレートはどこかネットからでも引っ張ってきたものだろう。趣旨は叔父の言った通り、労災保険の申請の指示。休職の期間と具体的な金額を挙げて、公費による補償を要求している。

「社長。間宮さんの休職が始まったのは」

「一年半前。だから、東子ちゃんも俺も、この会社にいなかった時だよ。先代の社長がやっていた頃」

「前の社長から会社を引き継いだのは、一年ちょっと前でしたよね。そうすると、間宮さんの休職の手続きは……」

「先代がやっていたってことになる。だけど、どうかな。あの頃は、就業規則なんて紙切れ同然の扱いだったから」

 アニメ業界の歪み。労働法なんて犬も食わない、と蔑ろにされているのが、制作現場の実情だ。8プランニングでも東子が来るまでは、就業規則の置き場所さえ不明確だったくらい。

 本来、社員の休職の扱いは、会社毎に取り決めて良いことになっている。それを明記したものが就業規則。そこに「有給」と書かれているなら、休職期間中も社員は給与を受け取ることが出来る。8プランニングでどう取り決めているかについては、東子が記憶するところ、原則として「無給」の扱いだったはずだ。会社は規定に則って休職の期間を定め、復帰の日まで賃金が発生することはない。

 ただし、業務上の疾病となると話は別だった。無給の休職はあくまで、本人の「私傷病」による欠勤が続いた状態。一方で、業務上の疾病、いわゆる「労災」が原因となって欠勤する場合は、労働者には相当額の補償が認められるのだ。

 補償の支払いは、原則的に公費。会社が国に保険料を納めることで、いざという時の事態に備えている。

「もし、間宮さんの鬱病が業務上のものであるなら、扱いは休職ではなく、労災によるやむを得ない欠勤と見なされます。お休みになった当時、労災の申請は?」

「やっちゃいなかったろう。実際、彼の休職自体、まともに記録されていなかったんだ。事務手続きの杜撰さは、この業界の悪癖だよ」

「労働者名簿でさえ曖昧な状態でしたからね。ただ、間宮さんが労災の申請を望んでらっしゃるなら、今からでも申請を行ってみては? 事由が鬱病の場合、会社が把握するまでに、時間がかかるのは珍しくありませんし」

 確か、労災を申請する場合、時効は二年と決まっていたはずだ。間宮の休職が開始されたのは、一年半前。その当時の補償を求めるとしても、まだ十分に間に合う期間ではある。

「いや、そればっかりは」

順当と思った提案だったが、いつになく歯切れ悪く、叔父は言葉を濁す。表情も苦虫を噛み潰したようで、視線がきょろきょろと周囲を窺う。

「社長?」

「実は、そんな簡単な話でもないんだ。会社の危機というか……とにかく、ちょっとこっちに」

 服の裾を掴まれて、暗にオフィスの外へ向かうよう指示される。ガラス戸を出て、一階の踊り場へ。三階に上がらなかったのは、間宮の存在を気にしたからだろう。正午前の、アニメーターにとってはまだ始業さえ曖昧な時間帯。静まりかえる階段の隅で、叔父はなお声を潜める。

「これは、相手が東子ちゃんだから、思い切って話すことなんだ。出来る限り、オフレコにしてほしい」

「当然、社外秘は守りますが……」

「労災の申請の件、できれば大事おおごとにしないでほしい。可能なら申請自体、うやむやになった方が良い。無茶を言っているのは、承知だけど」

「うやむやにしたいなんて。どうしちゃったんですか。アニメ業界を変えたい。だから、私をこの会社に誘ってくれたんですよね?」

「だから、無茶は承知だよ。それでも、今回は開き直るしか」

 言って、さらに苦渋の顔を作る叔父。清濁併せ呑みながら、本来は潔癖であるはずの人が、こうまで追いつめられるなんて。

 苦しそうに顔を上げて、続いた声は危ういほどに張りつめていた。

「間宮君が休職した当時、会社は『労災保険』に未加入だったんだ」




 従業員が仕事中に怪我や病気を負った場合、誰がそれを補償するのか。

 原則として、会社が補償しなければならない、というのが、この国の法律の立て付けだ。治療が必要なら治療を、働けない期間が発生した場合も、その間の賃金は一定額、従業員に受け取る権利がある。

 それを具体的に形にしたものが、労働者災害補償保険法。通称「労災保険法」である。業務による過失は会社の責任――その前提に立って、労働者が不利益を被ることなく、迅速に必要な補償を行うことが、労災保険法の要旨だ。

 そのため、会社は一人でも従業員を雇い入れた場合、労災保険に加入することが義務づけられている。管轄は労働基準監督署。事業者は速やかに「保険関係成立届」を提出し、必要な保険料を年度ごとに支払う規則だった。

万が一、その義務を怠るようなことがあれば。

「恥ずかしい話、この業界では決して珍しいことでもないんだ。大手のスタジオはともかく、うちみたいな中小の制作会社になると、社会保険料は死活問題。毎年の負担額だけでも、馬鹿にならない。もちろん、それを放っておくのは違法だから、先代から経営を引き継いだ時点で、俺も真っ先に手をつけたよ。たとえ、会社の貯金が底を突くことになっても」

 ――それじゃあ、労災保険の手続きを済ませたのは、間宮さんが休職して以降のこと?

「間宮君の休職が一年半前。先代の社長が退いたのがその直後だ。その時点で、会社の保険関係は、全くでたらめな状態だった。すぐに労基署に飛んで行ったよ。会社の事情を説明して、改めて保険に加入できないか、確認してみた。労災保険の建前は、東子ちゃんの方が詳しいだろう?」

 加入、未加入という話ではなかった。本来、労災保険に「未加入」という状態はあり得ない。会社が事業を開始した時点で――一人でも従業員を雇い入れた場合――自動的に、保険関係は成立していると見なされるのだ。会社は事後的に「保険関係成立届」を提出し、国との間で手続きを完了させる。

「そう。つまり、8プランニングは創設から二十年以上、保険料を滞納していたってことになる。労基署が把握してなかっただけで。事務手続きは一方的に、会社側の責任だ。書類を提出してなかった時点で、全面的にこちらの過失になる」

 ――では、労基署で滞納分の支払いを?

「その覚悟だったよ。ただ、労基署から指導を受ける前だったのが幸いしたね。『遅滞はあるが、自主的に加入を申し出た』と判断されて、その時点からの加入を認めてもらえたんだ。ひとまずは一件落着。過去の負債も、精算できたと安心したんだ。まだその時は、労災の発生なんて全く疑っていなかったから……」

 ――だとしたら、間宮さんの一件は。

「問題は、労基署での聞き取りの際、『今まで労災はなかった』と、明言してしまったことなんだ。だからこそ、労基署もこちらの事情を汲んでくれた。これがもし、本当は労災が発生していた、ということになれば、こちらの言い分が全部ひっくり返ることになる。少なくとも、滞納分の免責はご破算だろう。間宮君の労災にしたって、公費で補償してもらえるものか」

 会社が保険料を滞納している間、あるいは保険関係成立届を提出していないタイミングで労災が発生した場合、本来、公費から支払われるはずの補償は、その全額ないし一部を、会社側が負担しなければならない。

 今回の場合、一年半前の時点で保険の手続きを怠っていたのだから、間宮の労災に関して、公費で満額支払われることはあり得ない。最大二年前まで遡って、改めて保険料を納付。さらに間宮に支払われるはずの補償は、その少なくない部分を、会社側が負担することになるだろう。

「会社が休職中の賃金を補償しなければならない、というなら、それは構わない。本当に間宮君の鬱病が労災なら、会社として、出来る限りの対応をするのは当然だ。自分の給料を削ってでも、それは実現してみせる。問題なのは、労基署の受け止め方だよ。社内のコンプライアンスについて、厳しく追及されるかもしれない。なぜ、今になって従業員の労災が発覚したのか。何か、社内の安全衛生に不備があるんじゃないか。最悪の場合、故意に間宮君の一件を隠していたんじゃないかと、疑われる可能性だってある。そうなったら、お金がどうのって話じゃ済まない。会社ぐるみで『労災隠し』を企てた、なんてことにも」

 ――労災隠し。

「これはそもそも、今までいい加減にやってきてしまった、会社の経営の問題だ。いくら自分が引き継ぐ前の話でも、責任は社長である俺にある。だけど、こうした弱い部分を抱えているのが、この業界のジレンマなんだ。悪習は悪習として、それに寄りかからなければ、生き残ってこれなかった――もちろん、それを変えたいと思って、8プランニングの社長を引き受けた。でも、一朝一夕には行かないんだ。東子ちゃんにお願いしたいのは、なんとか打開の手を探ってもらうこと。このまま、間宮君の労災が認められてしまえば、本当に会社が潰れかねない。労務管理者として、会社の一員として、どうか力を貸してほしい。この窮地を、切り抜ける一手を」

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