第四話 休職者復帰の手引き(2)

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 ――おまえの心は渡さない! ガイエスにも、ノイアーにも!

 ――でも、あなたには果たすべき使命が!

 ――そんなものに縛られるもんか! 俺にとって大事なのはアケミ、おまえだ!

 ――ルーフェス……。

 ――さあ、一緒に行こう。暁の向こう側へ。俺たちの約束の場所へ。


 差し伸べられた手が、画面一杯に広がる。固く肩を抱き合う二人。そして、いつしか二人の唇は重なり合って――。

「……尊い」

 思わず漏らした自分の声を、イヤホン越しに東子は聞くことになった。一心に視線を注ぐのは私物のスマートフォン。画面には今まさに、第十一話「二人の鼓動」のエンディングロールが流れ、半裸の登場人物たちが幻想的な舞いを披露している。

『暁の恒星・エンデュリオ』。テレビシリーズとして制作された、子供向けのアニメだ。ジャンルは、いわゆるロボットもの。「エンデュリオ」と呼ばれる人型兵器に乗り込んだ少年少女たちが、運命に翻弄されるファンタジー大作だが、主人公の女の子が現実世界から「転移」したという設定で、彼女の戸惑いと焦りが、話数を追う毎にびしばしと伝わってくる。そして何より、主人公を助ける少年と、その敵役を巻き込んだ三角関係がこじれにこじれ、東子の「胸きゅん」を刺激して止まないのだ。ああ、もう、素直になれない主人公の不器用さったら。

 次回予告が流れたところで、やっと忘我の自分に気づく。また、魅入ってしまった……仕事場のデスク。ちょうど昼休憩の時間帯で、何をするにも自由だったが、職場でアニメに没頭すること自体、生真面目を自認するに東子にとっては気恥ずかしい経験だ。昨晩遅くに見始めたのがいけなかった。アニメ鑑賞も仕事の一環。他業種からの転職で、もともとアニメの「あ」の字も知らない東子であるから、暇を見つけてアニメを見るのは必要な勉強と割り切っていた。

 が、ふと手を出した作品に、思いの外ドハマリ。朝まで十話分を一気見してから、こうして出社してからも、昼休憩の時間を費やしてスマートフォンの画面から目を離せなくなってしまったのだ。

 そういう今も、つい十二話「試される恋心」のバナーをタッチしそうになる自分がいる。

「あれ、エンデュリオじゃん。懐かしいー」

 肩越しの声を聞いて、東子もようやく、イヤホンを外す踏ん切りが付く。振り返ると、思った以上に近い距離で、見知った同僚の顔があった。さっと体を引いてみたが、相手がそのことに気づいた様子はない。

 制作デスクの須山すやま秀一しゅういち。制作デスクというのは、アニメを作るにあたって、スケジュールを管理する進行係だ。実際にアニメの絵を描く「作画」と違って、専門的なスキルはあまり要求されないが、その分納期に追われ、クリエイターたちの気まぐれに振り回され、徹夜と休日出勤を繰り返すのが、彼ら「制作」の宿命だった。

 須山はその中でも「デスク」と呼ばれる司令塔であり、職場でも重要なポストの一つだったが、その軽薄そうな表情に、責任者らしい貫禄はない。だらしのない茶髪。服装も目に痛いピンクのジャケットで、アクセサリーがまたどぎついシルバーの髑髏だったから、東子にはやはり違和感しかない。東子は前職で、大手と言われるお堅い職場を経験した分、須山の格好はほとんど異星人の印象だった。

 しかし、そうした「個性」が許されるのも、アニメ業界らしい大らかさの一面なのかもしれない。

「須山さん。勝手に人のプライベートを覗き見るのは失礼ですよ。ここは、職場なんですから」

「アニメの現場でアニメを見ておいて、今さら」

「べ、勉強の一環です! 有名な作品だと勧められたので」

「エンデュリオって、確か五年くらい前だっけ? 薄い本とか流行ったよなあ。特にヒロインのやつ」

「薄い本?」

「あ、いや、ゲフンゲフン。でも平河さん、良い趣味してるよ。エンデュリオって、もともと子供向けのアニメだけど、業界内の評価も高いんだよねー。未だに、DVDは再販されてるし。キャラのドラマの描き方が、めっちゃ丁寧で」

「そうなんですよ! 主人公のアケミの恋心とか!」

思わず立ち上がって、直後に、前のめり過ぎた自分に赤面する。こほん、と下手くそな咳払いで誤魔化してから、当たり障りのない表情を作り直す。

「登場人物の心情を掘り下げるのが上手ですよね。過去のトラウマを絡めたりして」

「あと、作り手側の立場から言うと、動きのセンスとダイナミックさが最高なんだよなー。予算もそんなになかったって言うし。その中で毎回、ロボット同士のど派手なアクション、幻想的な背景を多用した心理描写。一度も作画が崩れなかったのは、はっきり言って、奇跡だね」

「私、アニメの面白さを改めて教わりました。今までは、有名な映画くらいしか馴染みがなくて。限られた環境で、こんなにも素晴らしい作品を作り続けるアニメーターの皆さんを、心から尊敬します」

「ハハハ。本人が聞いたら、なんて言うかな。卒倒したりして」

「本人?」

思わせぶりな言い方に首を傾げるが、話が噛み合わなかったのは相手も同じようだった。目を丸くして質問を返してくる。

「あれ、本人に勧められたんじゃないの?」

「あの、ですから、本人というのは……」

「堂島さんだよ。エンデュリオは、堂島さんの初演出作品」

 ほら、とスマートフォンを指さして、画面端のスタッフ一覧を示す。監督、脚本と続いた後で、演出の項目に見知った名前。堂島蕎太郎――。

「確か、二話と七話、それから十話以降もメインで担当したんじゃなかったかな。他の演出家が匙を投げる中、堂島さんが過酷なスケジュールを巻き返したって」

「二話『哀愁の薬指』も! で、でも、あれ、女の子の恋物語ですよ? それを、堂島さんが担当するなんて」

「演出って、いわば各話の監督だからね。動きのタイミングだけじゃなくて、心情の見せ方とか表情の微妙なニュアンスとか、全部イメージできなくちゃ務まらないし」

「それをあの堂島さんが? 泣く子も黙るアニメの鬼が? 女の子の気持ちなんて、パンの耳ほども気にかけた様子もないのに」

「いや、そこまでは……」

「つい最近も、新人の子にきつく当たり過ぎて、谷底まで突き落としたり」

「誰がライオンの子殺しだ」

 おもむろに割って入ったのは、黒ずくめの「アニメの鬼」。本日もその仏頂面は相変わらずで、眉間に不機嫌そうな皺が寄っている。

「黙って聞いていれば、人をサイコパスか何かみたいに」

「堂島さん、今の話を?」

「職場の端にいても聞こえる。昼休みだろうと仕事の手を止めてるのは、お気楽な労務管理者くらいだからな。はしたない声に、原画のレイアウトが狂ったぞ」

「あの、本当に堂島さんが作ったんですか? エンデュリオの各話数。主人公と相手役との、キスシーンとかも……」

「アニメは、誰か一人の成果物じゃない。たとえ、監督でも原作者でも。演出は、無数のピースのほんの一かけらだ。名前を出されるのは、理屈に合わない」

「それでも、やっぱりすごいですよ! 私、堂島さんのこと見直しました。仕事が優秀なのは知ってましたけど、あんなに心がこもったドラマを作れるなんて」

 素直に感動を伝えるが、聞いた当人は卒倒しないまでも、苦虫を噛みつぶしたような表情だった。照れ隠しにしても、視線が剣呑だ。

「白々しいおべっかは、結構だ」

「どんなふうに考えるんですか? 主人公を巻き込んだ三角関係とか、恋の鞘当ての心情とか。私、『君さえいなければ、世界は暁に染まるのに』って敵役の台詞が、本当に大好きで!」

「俺は、脚本は書いちゃいない!」

「それからそれから」

「第一、エンデュリオが評価されたのは、俺の手柄でも何でもない。名指しされるだけ迷惑だ。本当の功労者は、別にいるのに」

「功労者?」

「誰か一人名前を挙げるとしたら、あの天才以外には……」

迷惑そうに言い放つのを、周囲の雑音がうやむやにする。

 職場の注意を引いたのは、出入り口の方向だった。東子も反射的に視線を向ける。ガラス戸を潜ってきたのは、8プランニングの社長、平河進だ。東子にとっては、転職を助けてくれた叔父に当たる。おーい、とフロア中に呼びかけて、社長の声に、さすがにスタッフ全員の手が止まる。その様子を確認してから、叔父の長身がぴたりとガラス戸の前で立ち止まる。

「みんな、ちょっと聞いてほしい。久しぶりに、めでたい話だ」

 にこにこ人好きのする笑みを浮かべながら、張りのある声で続ける。

「みんなも承知してると思うが、間宮まみや君が一年以上、休職中だった。本人も大変だったと思う。それがこのほど、復帰できると申し出があった。我が社にとって、貴重な戦力だ。特に、作画陣にとっては」

 間宮、と聞いて、東子がぴんと来るところはなかった。一年以上前、との話。東子が8プランニングに入社したのは、ほんの半年前だ。

「彼と面識がない社員も、少なくないと思う。この一年で会社の顔ぶれも多彩になった。けれど彼の名前を知らない人間は、この業界にはいないはずだ。間宮敬吾けいごという伝説。我が社でも、新たな歴史を紡いでほしい。どうぞ、間宮君」

 促されて、ガラス戸からもう一人、別の影が歩み出る。長身の社長と比べると、ぐっと小さな印象だ。細身の影。肩までの髪が、さらさらと揺れている。薄手のパーカーにジーパンという出で立ちで、引率された子供に見えなくもない。

 挨拶を、と話を向けられると、人懐っこい笑みを口元に浮かべる。間宮です、と告げる声が、まるで少年のように高く響いた。

「みんなと、仲良くやれたらいいな」

ざっくばらんに挨拶を済ませて、まばらな拍手がそれを引き取る。

 ばらばらと、スタッフたちは作業に戻ったが、ふと誰かが呟いたのを、東子は聞き逃さなかった。まるで禁忌に触れるかのように、低められた小さな呟き。誰の声かはわからなかったが、それが向けられた方向は、怖いほどはっきりしていた。

 それは間違いなく、退出する間宮の背中へと。

「吸血鬼」

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