就業規則に書いてあります!

桑野一弘/メディアワークス文庫

『就業規則に書いてあります!』特別エピソード

第四話 休職者復帰の手引き(1)


          1


「就業規則に書いてあります!」

 何度、同じ台詞を繰り返しただろう。酸っぱくなる口の辺りを、東子とうこは無意識の内に拭う。平河ひらかわ東子、二十四歳。まだまだ新米の自覚はあるし、あか抜けてないのは童顔のせいばかりでもないだろう。野暮ったい黒縁眼鏡に、一向に身の丈に馴染まない紺のスーツ。胸元に抱えた「就業規則」だけは一人前だが、未だに大学生と間違われるほど、社会人のスマートさからは遠い。

 それでも、必死に職務に取り組んできたという自負だけは、空に届くと東子は信じている。労務管理という仕事。会社の環境を改善し、誰もが働きやすい職場を作り上げること。よそから見れば、口うるさい学級委員と紙一重だが、たとえ憎まれ役であっても、自分の天職を全うしようと、東子は職務に邁進する決意だった。

 だというのに、相変わらずこの人は……。

「出退勤は、きちんと記録してください。労務管理の要になるんですから」

 職場の出入り口、ガラス戸の脇に設置されたタイムカード機を指さして、東子はきつめの口調を変えない。ICカード式で、ワンタッチで出退勤が記録される、今時の優れものだ。東子から社長に打診して、つい先日納入されたばかりだったが、見慣れない機械の出現に、アナログな現場は混乱している。

 ICカードを忘れてしまった、というならまだわかる話だが、それを端から目の敵にしている人物が、東子の前に立ち塞がるのだった。

「俺たちは、時間の奴隷じゃない」

 ガラス戸の前に仁王立ちして、堂島どうじま蕎太郎きょうたろうは文字通り、東子を見下ろしている。癖のある黒髪に、上下とも黒の服装。本人は「残業続きでも洗濯の手間が減るから」ともっともらしいことを言っているが、その仏頂面と相まって「死神」とも呼ばれる、彼の異名を確かなものとしている。

 しかし、堂島の本来の呼び名は他にある。会社を牛耳り、職場のエースの地位に君臨し、その圧倒的な存在感で他者の助言も弁解も、泣き言さえも許さない、制作現場の絶対的支配者――すなわち「アニメの鬼」。

「俺たちアニメーターは職人だ。会社に使役される労働者でも、使いっ走りの小姓でもない。俺たちは、俺たち自身の意志で働き、作品を創造し、クライアントの依頼に応えている。その果てしない制作過程の中で、勤務時間の記録なんて空言そらごと。俺たちは常時、戦場にいる」

「それでも契約上は、堂島さんはこの会社の社員です。勤務時間内に働き、会社のルールに従って行動する義務があります。出退勤の記録を付けるのも、その一つです。そのために、新しい機械を導入したんですから」

「そんなルール、どこに書いてある?」

「ですから、就業規則に!」

 さすがに声も大きくなって、前のめりで手元の冊子を突きつける。身長差から、ちょっと気後れしそうになったが、怯まず当該のページを開いて見せる。 


第二節 勤務

(出退勤)

第十条 社員は出退勤にあたって、次のことを守らなければならない。

①出退勤時に所定の方法により出退勤時刻を記録すること

②始業時刻前に出勤し、準備を済ませた上、始業時刻には業務を開始すること

③業務の終了次第、速やかに退勤すること


「ふん。会社の歯車が言いそうなことだな」

「社会通念上の常識です! そうやって堂島さんが勤務時間をうやむやにするから、この会社でも、サービス残業とか休日出勤がなくならないんですよ。みんな、堂島さんの働き方に引っ張られて」

「納期のためなら、寝る間を惜しんで働くのは当然だ」

「時間外労働は、基本的に違法です! 他の人を無理矢理、職場に引っ張ってくるのは止めるって、この前、約束してくれたじゃないですか!?」

「本人たちの自主性を尊重している。まあ、納期を落としたら半殺しと言っておいたが」

!」

 噛みつくように言い放って、しかし、アニメの鬼はどこ吹く風だった。ふん、と鼻を鳴らした様子に、東子はどっと疲れを感じる。何度となく繰り返したやりとり。正論をぶつけるたび、堂島から返ってくるのは、現場を盾にした根性論だ。

「とにかく、自分の出退勤くらい把握しておいてください。月末の処理をするの、人事部の私なんですから……」

「ああ、人事といえば」

 もののついで、といった感じで、堂島がふと声を上げる。

「作画の新人が、また会社を辞めたいと言ってたぞ。一身上の都合、だとかで」

「一身上の都合? まさか、ご家族に不幸でも?」

「いや、任せた原画を全没にしたら、床に突っ伏して泣いた」

「いけしゃあしやあと!」

「使命感が足りない。あと、覚悟も。一度、アニメ制作に携わると決めた以上、親が死のうが子が死のうが、最後までやり遂げるのが男の生き様だ。まあ、その新人は女子だったが」

「セクハラ!」

 今度は本気で噛みつこうとした東子を振り払って、「じゃあ、任せた」と、無責任に堂島は立ち去る。やり場のない苛立ちを、手元の「就業規則」にぶつけるしかない東子だった。




 東子が、アニメ制作会社「エイトプランニング」に入社して半年。

 他業種からの転職組で、アニメの知識など全く持ち合わせていなかった東子が目の当たりにしたのは、アニメ業界の常軌を逸した現実だった。横行する違法労働。サービス残業が常態化する職場。十分な賃金が保証されることもなく、アニメーターたちは「やりがい搾取」の名の下に、日々、過酷な労働に従事している。

 前職で労務管理のノウハウを学んだ東子にとって、それは非情な現実というだけでなく、見過ごしてはいられない問題だった。私がきっと、この業界を変えてみせる――! 8プランニングの社長であり、東子の叔父でもある平河ひらかわすすむに乞われ、アニメの世界に飛び込んだ東子だったが、そこに立ち塞がったのは、自分たちの扱いが「不当」であることも感じ取れない従業員たちと、非常識がまかり通る職場環境。そして、納期完遂を至上命題とする「アニメの鬼」、堂島蕎太郎の横暴だった。

 半年間の攻防を経て、多少は歩み寄りを見せた東子たちだが、まだまだ根っこの部分では、相容れないものが渦巻いている。労働時間、従業員としての自覚、それから働くことの意義。堂島の言い分に、時に反発し、時に共感しながら、東子もまた自分の未熟さを痛感する日々。

 それでも決して変えてはいけないのは、当たり前を当たり前と言い続ける努力だ。従業員に当たり前の労働環境を! やりがいが、決して無駄にならない健全な職場を! たとえアニメ業界が歪んでいようと、業界の非常識に囚われず、改革の声を発信し続けること。そのたゆまぬ歩みだけが、いつか非常識の壁をぶち破ると、東子は固く信じるのだった。

 胸に抱くのは、指針となる「就業規則」。その文言が色褪せない限り、自分は決して諦めたりしない。必ず職場を変えてみせる、と日々、前を向く東子だった。


 そう、自分だけは業界に染まるまいと誓ったのだけれど……。

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