第35話インテルメッツォ-35 変容/辺葉

「素晴らしいですっ・・・・・・・・・!」

 心の裡に膨らみ続ける高揚を抑えきることが出来ないままに、湧き上がる衝動に任せて言葉を零す。

 興奮と欲情の微熱に濡れた吐息と共に歓喜に黒曜の瞳を煌めかせ、少女はそう呟いた。

 その声は、溶け崩れるような甘い艶に満ちていた。

「そうです、そうなのです。あなたはそれでこそ善いのです。それこそがあなたの正しい在り方なのです。あなたのそのお姿をこの瞳に宿す瞬間を、わたしは一日千秋の思いで待ち焦がれていたのです。自分で口にしておきながらお恥ずかしい話ですが、溜まりに溜まって我慢が出来なかったのはどうやらわたしのようでした。あなたのお姿を一目拝見しただけで、天の国を垣間見てしまったのですから。本当に、お待ちしておりました。今のあなたに何と仰るのが適切なのか、わたしには解りかねます。どのような言葉でお迎えすべきなのか、正直なところ悩んでしまいます。ですのでわたしの心に浮かんだままの素直な気持ちで、ご挨拶させて頂きますね。お帰りなさいませ、わたしの魔王様」

 少女は紅葉色に頬を染め、初めて身体を開いた乙女の如く恥じらいながら穏やかに男に語りかけた。

 少女はそのまま自らの左足を斜め後ろの内側へと引き、爪先立ちの形をとった。

 両手は優雅に広げられ、衣服の裾を摘むような仕種を見せる。

 そして背筋を綺麗に伸ばしたまま、右膝を沈めるように折り曲げることで男に対して礼を執る。

 それはまさしく、一人振りのつるぎが現す敬意。

 それを正面から受けた男は、しかし後れを取ることなく不敵な素振りで鷹揚に頷いてみせた。

「そんなに畏まってくれるな、こちらの方が面映ゆくなってしまうぞ。無論、可憐で美しいのは事実だが、お前にそのような未通女おぼこさなど似合わんぞ。確かに稀有な姿を目にすることができ、眼福ではあったがな。だが、ひとつ間違えているぞ、お前は」

 男の声色はこれまでとはまるで異なり、まさに違う存在に成り変わったよう。

 それは男が、自らの心に引いた一線を踏み越えた証。

 大切な者達を失い続けたことで疲弊した精神と、絶えず刻み付けられてゆく肉体の損傷。

 それがまるで今わの際の老人のように、男の声を薄く掠れ枯れさせていた。

 だが今は、一変している。

 男の声には常以上の活力が漲りみなぎり漲り、張りと深みを併せ持つ落ち着いた低音を響かせている。

 同時に、その姿勢もまた変化している。

 両足に力を込めても倒れまいとするのがせいぜいな、立っているだけが関の山のようだった前のめりの構え。

 それが今や精神か肉体に一本の芯が通ったように正面を向いて立ち上がり、二本の足が力強く地を踏みしめている。

 その姿に更なる昂りを覚えながら、少女は男に問い掛けた。

「それでは僭越ながら、お言葉に甘えると致しましょうかぁ。つきましてはぁ、わたしの間違いとは如何なるものなのでしょうかぁ。不躾ながら教えて頂けましたら、大急ぎで訂正いたしますがぁ?」

 それを聞いた男は口の端を吊り上げ、少女に向かって笑って見せた。

「そうか、それは有り難いことだ。では早急にそうしてもらうとしようか。お前の間違いは単純だ。俺は、お前のものではない。ただそれだけだ。俺は、誰のものにもなれなどせんのだからな。故に、俺のものになるのはお前の方だ」

 男は少女に掌を向けると、その心臓を掴み取るように拳を握りしめた。

「ああ、それは受け容れられませんねぇ。そこは先程お断りした通りです。それだけはわたしには出来かねますねぇ。舌の根も乾かぬうちに申し訳ありません。とは言ってもぉ、何時でも大抵は濡れっぱなしなのでがぁ」

「ああ、そうだろうな」

 

 言葉にする前から解りきっていたその答え。

 それと同じものが返ってきたことに、男は満足した。

 そうして少女の言葉に一言で応え、男は地に転がる鈍色の輝きを一瞥する。

 そこにあるは少女が引いた絶対の死線。

 生者と死者を選り分け押し流してゆく死の河だ。

「だが、今の俺はそんな程度では退き下がらんぞ」

 数多の修羅場を潜り抜け、幾多の地獄を生き延びてきた。

 その自分が、魔王たる己自身が、今更どのような死線であろうと踏み越えることを恐れはしない。

 少女のもとへと、辿り着く為ならば。

 そして前へと一歩、男は足を踏み出した。

 男の歩むべき先は、常に男の見ている彼方。

 故に男の進むべき道は、常に男の前にしか存在はしないのだから。

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