カメレオンライター ~ミステリー小説の書き方~
白川ちさと
前編
二十五歳、秋。勤めていた会社が倒産した。
青天の霹靂ではあったけれども、幸い貯金はある。親が地元に帰ってこないかと言うのを断って、このまま東京で一年だけ自由に生きてみることにした。
とはいえ、贅沢は出来ない。いま住んでいるマンションから、近くの安いアパートに引っ越すために荷物をまとめていた。
『いや、田舎に帰れよ。
『そう言わないでよ、真美姉ちゃん』
真美姉ちゃんは三つ年上のいとこ。引越し準備をしながら、東京に残ることを電話で報告したばかりだ。
『それで真美姉ちゃんにお願いがあるんだけど』
『駄目よ。何のために一年自由にーなんて、ぬるいことを言っているか分かっているんだからね』
うっと思わず声がもれる。さすがにお見通しのようだ。電話越しに『嵐と太陽』再重版決定しましたと男の人の声が聞こえてくる。平日の昼間だし、職場にいるようだ。
『小説を書くためでしょう』
真美姉ちゃんは出版社に勤めていた。しかも文芸部門の敏腕編集者だ。
そして僕、
だが、これまで一度も読んでもらったことはない。
『デビュー作は自分の力だけで書きなさい。そうじゃないとその先がない。それにプロの編集が指導したんじゃ、他の卵の人たちに示しも付かないでしょ。がんばって受賞しなさい』
新人賞受賞。
真美姉ちゃんはそれ以外受け付けないつもりのようだ。
『でもさ。せっかく、コネがあるんだし……』
『せっかくも何もないの! あんたの為に言っているだからね、羽矢士』
『アドバイスぐらいくれたっていいじゃん』
『アドバイスねぇ』
何やら考え込むような沈黙がする。
『私は駄目だけど、他の人なら紹介できるよ』
『え!』
これまで紹介されたことなど一度もない。この際、どんな編集の人でもいい。
なにせ僕には一年しか時間がない。
一年と言うと長いが、小説を書くには短い。
『でもいいアドバイスを引き出せるかは、あんた次第よ』
真美姉ちゃんの声はどこか面白がっていた。
外は雨だった。引っ越し荷物をそのままにして、ビニール傘をさして目的地へ向かう。
「ここか」
真美姉ちゃんからスマホに送られて来たのは地図だけだった。
ナビアプリで向かうと、そこは古めかしい喫茶店。レンガの壁になぜか錆びた
窓はないので覗き込むことは出来ないが、普通の喫茶店に違いなかった。思わずふぅと息を吐いて安堵する。住宅でなくて良かった。真美姉ちゃんにからかわれていたらと、チャイムも押せなかっただろう。
とりあえず、入ってみよう。
木製のドアを開けると、コロンコロンとドアベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃい」
喫茶店の中は照明を少し落としているのか、薄暗かった。左側にはカウンター席が並び、右側には長椅子のボックス席が三つほどある。音楽は緩やかなクラシックがかかり、コポコポと白ひげのマスターが注ぐコーヒーの音が聞こえた。
レトロでいい雰囲気の喫茶店だ。
客は奥のボックス席に老夫婦が二人。真ん中のボックス席にスマホをいじる小柄な女の子が一人。そして、奥のカウンター席に座る中年男性が一人。
その中年男性を見て、唾をごくりと飲み込んだ。
真美姉ちゃんにはこう言われたのだ。
『作家の
――と。
まさか、現役の作家を紹介してもらえるとは思わなかった。
琴吹先生は作家歴四年とそれほど長くないが、次々とヒット作を世に送り出している。新作の『嵐と太陽』を読んだけれど、感情の波が絶えず襲って来て、最後は嗚咽が止まらなかった。
その琴吹先生から直接アドバイス? 飛びつくに決まっている。
「あの、琴吹先生ですよね」
カウンター席に近づいて話しかけた。パソコンで作業していた中年男性がゆっくりと振り返る。黒髪を後ろに撫でつけていて、あごひげが少しだけ生えていた。こんな喫茶店で執筆していることといい、想像通りとてもカッコいい人だ。
「大内真美の紹介で来ました。蕨野……」
「違うよ」
「え?」
自己紹介を遮られて固まる。目の前の中年男性は微笑を浮かべて言う。
「琴吹先生じゃないよ」
「あ、失礼しました」
全くの別人に話しかけたことに顔に熱がたまる。
一歩二歩と下がって、もう一度店内を見回した。他に喫茶店にいるのは四人。マスターと老夫婦と女の子。マスターは執筆どころではないし、老夫婦は優雅にカップを傾けている。女の子は――。
するとバッチリ女の子と視線が合った。縁なし眼鏡の奥の瞳が興味深げにこちらを見つめている。そのまま、女の子は目の前の席を視線で示した。
え? まさか……。
いやいや、そんな訳がない。女の子はどう見ても高校生ぐらいだ。高校生であの表現力豊かな文章が書けるはずがない。そもそも、男の人のはずだ。
もしかしたら、琴吹先生はまだ来ていないのかもしれない。
ただ、ずっと立って待っているのも何だから、女の子の誘いに乗ることにした。
「ここ、座っていいの?」
尋ねると返事はなく、女の子はただ頷いた。
「君は琴吹先生を見たことある?」
「……コーヒー、頼まないの?」
女の子は立てかけてあるメニューを見つめる。
「ああ、そうだね。えっと、暁ブレンドをお願いします」
メニューの一番上にあったものを頼むと、マスターが笑みだけで返事をした。前を向き直ると女の子はスマホをいじっている。
「真美さん」
「え?」
そのまま無言になるかと思ったが、女の子は目線も上げずにつぶやいた。
「取材出来る人を向かわせるって言っていたけれど」
アドバイスじゃなくて取材。いや、それ以前に……。
「まさか、君が!」
驚きの余り立ち上がった。
「……声、大きいよ」
女の子はあきれ顔だが仕方がない。僕は座って声を潜めた。
「だって君、高校生だよね」
「一応、二十二歳」
三つ年下。高校生ではなかった。
それにしても若い。四年前デビューならまだ高校生だったはずだ。デビュー作も呼んだことがある。男性主人公だったのだが、男性の気持ちや動向をよく表していると思った。だから、男性だとも思い込んでいた。
「えっと、琴吹先生?」
「先生いらない」
「樹庵ちゃん?」
「いきなり近づき過ぎ。本名はこれ」
スマホの画面を見せて来た。そこには『寿珠杏』と書かれている。本名の読みのまま、漢字を当てただけなんだ。本当にこの子が作家なのだろうか。執筆しているといっても、スマホをいじってばかりいる。
「それじゃ、寿さん。本当に小説書いているの? スマホ触っているだけに見えるけど」
「うん。スマホでも書けるし」
「プロットは? 設計図ないと難しいよね」
「それもスマホの中。頭の中にもあるけど」
「……そっか」
自分はPCで書いているから馴染はないけれど、執筆アプリで小説を書く人も多いと聞く。まさか、あの複雑な筋の作品をスマホで書いているとは思えないけれど。
僕はまだ、彼女が琴吹先生だとは本当には信じていなかった。
「……それで」
「それで?」
「あなたは、刑事さん?」
寿さんはスマホから顔を上げて、僕の顔を見つめてくる。
「け、刑事さん?」
いきなり僕とは無縁な言葉が出てきて、目を白黒させる。
「違った? じゃあ、探偵さん? それとも、人殺しとか言わないよね」
「ま! まさか!」
真美姉ちゃんは何と言って僕を紹介したんだ。
「じゃあ、何? 真美さんにはミステリーの取材が出来る人と話したいって言っていたけど」
「ミステリー……」
どうやら真美姉ちゃんに担がれたらしい。僕は元小さな会社の会社員で、いまは作家志望のニートだ。どう考えても、ミステリーの取材に見合う人物ではない。
「えっと、寿さん。僕は刑事でも何でもなくて、ただの小説家志望の男なんだ。ここに来たのも、アドバイスが貰えるって聞いて」
「……そう。そういえば、真美さんは話が出来るちょうどいい人がいるとしか言っていなかったな」
寿さんはまたスマホに視線を落とす。そのまま黙ってしまった。
困った。いますぐに喫茶店のドアが開いて、待たせてすまないねと本物の琴吹先生が現れないかな。
「……アドバイス。出来るよ」
「え?」
「ただし、復習の意味も兼ねて、ミステリーの書き方だけど」
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