第八冊 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
【読む前の状態】
待ってました、宮沢賢治! そして久しぶり、『銀河鉄道の夜』。
わたし宮沢賢治作詞作曲の『星めぐりの歌』が大好きで。最近では東京オリンピックの閉会式で歌われていましたね。この歌を聴けばやっぱり『銀河鉄道の夜』のことを思い出す。主人公ジョバンニとその友達カムパネルラが銀河鉄道の列車の車窓から星々を眺めている様子を想起する。なのでちょうど読み返したいなあと思っていたところ。
それにこの物語、秋のはじめのお話だったんじゃなかったっけ? だとしたらちょうど今の季節。少し日が落ちるのが早くなって夜空が身近になってきた今、どこからともなく漂う金木犀の香りを感じながら銀河鉄道の旅にさあ出発だ!
【それではいざ実読!】
アレクサ、百分のタイマーして!
【百分後】
アレクサ、ストップ!
読めたのは全体の100%。
不思議な世界にどっぷりはまってきました。まだ読後の余韻に浸っています。
そして最後まで読んで、なぜ『百分de名著』がアランの『幸福論』のあとにこの『銀河鉄道の夜』をもってきたのか分かったような気がします。
この物語は宮沢賢治の“幸福論”なのですね。
物語の中で主人公ジョバンニとその友人カムパネルラは、“
簡単なあらすじは以下の通りです。すでにご存じの方はどうぞ読み飛ばしてくださいね。
貧しい少年ジョバンニ。年齢ははっきりと書かれていない。小学校高学年くらいか。父親は漁師で、どうも遠洋漁業に出ているらしく長く家を空けている。母親は病気でずっと寝ている。たまに姉が母親の世話に来るらしいので姉は嫁いだものと思われる。ジョバンニは学校帰りに活版印刷所で働いている。どうやら朝も新聞配達をして働いているようだ。
クラスメイトにカムパネルラという少年がいる。授業で指名されたときなどはきはきと答え、優等生っぽい。以前はジョバンニが彼の家に遊びに行くくらい仲が良かったが、最近はジョバンニは仕事が忙しくて学校でも元気がなく、カムパネルラとあまり話すこともない。カムパネルラは思慮深い性格らしく、ジョバンニの今の大変な生活が分っているのであえて距離を置いている様子とのこと。カムパネルラの父親は博士だそうだが何の博士かは分からない。母親については冒頭では記述がない。
二人が暮らす街は近代的で、街灯がともり、ネオン燈のついた時計店などがある。
物語は星祭りの日に始まる。夕方、街路樹には豆電燈がともる。その下を子どもたちが新しい着物を着て口笛を吹いたり花火を燃やして遊んでいる。が、ジョバンニはそれに加われない。病気の母親のために牛乳屋に牛乳を取りに行かなくてはならない。
そんなジョバンニが会いたくない同級生たちに会ってしまった。彼らはジョバンニをからかう。ジョバンニはその中にカムパネルラがいてこちらを静かに見ているのに気づき目をそらす。
ジョバンニは彼らが行ってしまったあと駆け出す。町はずれの丘までやってくる。草の上に身を投げ出す。遠くかすかに街の灯りが見えて子供たちの声が聞こえてくる。ジョバンニは空に目を向ける。すると暗く冷たく広がるはずの夜空にはけむるように星がまたたき、「銀河ステーション」と呼ばわる不思議な声とともに目の前がぱっと明るくなった。
気がつくと、ジョバンニは列車の中にいて窓から外を眺めていた。そして向かいの席にはカムパネルラがいた。
このあとまさに走る銀河鉄道によって物語は動き出す。しかしわたしが理解できない、あるいはうまく説明できない場面ばかりです。
水晶や
遠くから聞こえるセロのような声。
動いている列車に自由自在に乗り降りする鳥捕りの男。
いつの間にかジョバンニのポケットに入っていたどこにでも行けるという緑の切符。
タイタニック号沈没の犠牲者である姉弟との出会い。
列車を追うように走って狩りをするインデアン。
電気
(あらすじここまで)
もしかしたらあまりにも不思議で幻想的な場面の連続は、宮沢賢治が実際に見た夢がもとになっているのでは? と思いました。
結末はシンプルです。物悲しくて、だけどんじんわりと心が温かくなってくるような終わり方。これが読後のなんとも言えない余韻になっているわけです。
さて、物語の中ではジョバンニもカムパネルラも幸せってなんだろう? と考えます。
ジョバンニが銀河鉄道に乗車後、カムパネルラは自分の母親の幸せってなんだろう? と切り出します。自分は自分の母親が幸せになるならどんなことでもするが、いったいどんなことをすれば母親の幸せになるのだろうと。
しかしそのあと彼は決心したようにこう言います。
「誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん
カムパネルラはなにかとてもいいことをしたらしいのですが、それが何かはこの段階では分かりません。物語の最後に分かります。
ジョバンニは乗客からタイタニック号沈没の話を聞いて、その遠い冷たい海で懸命にはたらいているひとのことを思い、自分はそのひとの幸せのために何ができるだろうとふさぎこみます。
そばにいた乗客のひとり、
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
自分の幸せと母親の幸せ。
列車の中でたまたま隣に座ったひとの幸せ。
会ったこともない、遠いところにいるひとの幸せ。
みんなの幸せ。
ほんとうの幸せ。
ほんとうの幸せって何だろう?
何だかわからないけど、探すのはやめない。みんなの幸せをどこまでも探しに行く。みんなのためになると思ったことをする。そしてそんな自分の強い気持ち、信念にしたがって進むこと自体が、幸せへと近づく方法なんだ。
こんなふうな幸福論を、わたしはこの作品から感じ取りました。
そしてなんといってもこの物語で大きいのはカムパネルラの存在です。
ほかの乗客たちがみな降りたあと、カムパネルラとふたりきりになったジョバンニは、彼に向かって、ほんとうの幸せを探しにどこまでも一緒に行こうね、と呼びかけます。
もしジョバンニがこの鉄道にひとりで乗っておたなら、どんなに乗客たちの話が感動的で教訓めいたものだったとしても、こんな前向きな気持ちになれただろうか? なれなかっただろうとわたしは思います。
信念を貫き通すのは大変なこと。だけどその大変さを分かってくれるひとがいるなら。ともに歩んでくれるひとがいるなら。いたなら。
それがもう、ある種の幸せな状態なのではないか。
わたしがこの物語を読んだときに感じるちょっとした嫉妬は、果たしてわたしが銀河鉄道に乗ったとき、わたしの向かいには誰が座っているだろう? 誰もいないのではという恐れからきていたのだと、今回読んで気づいてしまいました。
さて、このあとは『百分de名著』視聴タイムです。
【視聴後】
見てよかったです。わたしの知らない宮沢賢治の著作の中の言葉と出会うことができました。
それは『農民芸術概論綱要』という文章の中のもの。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
ここでわたしは前回読んだアランの『幸福論』を思い出します。
アランはまず自分が幸福でないとひとに幸福を与えることもできない。だから社会全体の幸福のためにひとりひとりが幸福であることが大事なのだ、幸福であろうとする強い意志を持つべきなのだと言っていました。
あれ、宮沢賢治とアランは反対方向から幸福にアプローチしてるのかな。
でも。
ジョバンニの、みんなのほんとうの幸せをどこまでも探しに行こうという決意。これは幸福であろうとする強い意志に当てはまるだろう。
うん、どちらも幸福への出発点は自分の意志なんだな。
【今回読んだ本】
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』『農民芸術概論綱要』青空文庫
※本文中の「」内はすべてこれらの本からの引用です。
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