第七冊 アラン『幸福論』

【読む前の状態】

 ああー、また哲学の本! うう、正直しんどい。

 初めまして、アランさん。フランスの方なんですね。わたし一応大学ではフランス文学に触れた身なんですが、本当に今回初めてお名前聞きました。お恥ずかしい。

 まあ、わたし、教授たちがわたしの顔を見て思わず苦笑いのような微妙な表情を浮かべてしまう、そんなダメ学生だったので、どうぞアランさんも苦笑いで許してやってくださいね。

 この『幸福論』、新聞に連載されていたということだけど、朝日新聞の天声人語みたいなものかな? 天声人語、懐かしいなあ。大学受験のとき現代文の試験のために読んだりしたなあ。でもだとしたら、あんまり面白くなさそうだなあ(個人の感想です)。


【それではいざ実読!】

 アレクサ、百分のタイマーして!


【百分後】

 アレクサ、ストップ!

 

 読めたのは全体の35%。


 新聞連載されていたということで、一回あたりの文章が3ページほどでその点は読みやすかったです。この『幸福論』には全部で93の文章が収められていて、わたしが読み終えることができたのは33の章。これらは年月順に並んでいません。それぞれの回の最後に日付が載っていて、だいたい1910年代から1920年代に書かれたもの。エピソードとしてはあの豪華客船タイタニック号の悲劇も取り上げられていました(タイタニック号沈没は1912年)。

 

 まず、想像していた幸福論と違いました。もっと幸せとは、人間の不幸とは~~である、みたいな堅苦しい文章なのかと思ってた。哲学といわれたから身構えてしまったけど、エッセイっぽかった。

 各回のテーマはずばり幸福について、というものはなく、いらだちについてだったり、恐怖についてだったりと、身近なマイナスの感情を取り上げていて、なんでひとは悪い方向にばっかり物事を考えちゃうんだろうね? どうしたら前向きになれるだろうね? っていうアプローチの仕方でした。

 書かれているエピソードもアランさんの友人のことなど、アランさん自身が見聞きした話が多かったから、ああ、そういう不機嫌なひと、憂鬱にとらわれてるひといるよねー、ていうか自分がそうだわーって共感しながら読めました。


 ではわたしが、お、なるほど! と思った点を二つ。

 

「体操」と「あくびの技術」

 緊張したとき、体が強張ってしまう。心配事があるとき、胸が締め付けられているように感じる。

 そんなときは腕を伸ばしたり、ぐるぐる回したりと、体操をして体を動かそう! 

 不安なときはなんで不安なんだろうと理屈を考えちゃダメ。その理屈でさらに自分自身を追い込んじゃう。

「われわれが情念から解放されるのは思考のはたらきによってではない。むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ」。


 なんだか昨今の筋トレブームを思い出しました。筋肉は裏切らない、とか、自信持てなきゃダンベルを持て、とか。あれもくよくよしないでまず体鍛えようよ、体が健やかに、そして思い通りに動かせるようになると考えも前向きになるよ! ってな感じですよね。


 あとはあくびをするのもいいよと。お腹に空気が送り込まれて、リラックスする。

 体操と違うのは、あくびをしている瞬間は解放っていう考えすらない。あくびは思考とか注意とかいう精神のはたらきをばっさりと遮断する。

「自然(肉体)は自分が生きていることだけで満足して、考えることにはき倦きしていることを知らせているのである」。


 ほかにもいいこと言ってるね! とメモした箇所はたくさんあるのですが、より哲学的なものはわたしの文章力では上手くまとめられないので、一番具体的で気に入ったこの二点をご紹介しました。

 

 さて、このあとは『百分de名著』視聴タイムです。


【視聴後】

 このアランさんの『幸福論』、三大幸福論のうちの一つなんだそうです。じゃああと二つは誰のだろうと調べたら、スイスの思想家ヒルティさんのとイギリスの哲学者ラッセルさんのものでした。もちろんわたしはこのお二人の名前を聞くのも初めてでした。


 アランさんはずっと高校で哲学の教師をしていました。とても人気のあった先生だそうで。

 そんなアランさん、教師をしながら地元の新聞にコラムを連載するようになりました。そのたくさんのコラムの中から幸福に関係するものについてまとめたのが『幸福論』。


 わたしが読んだ部分ではまだ出てきていませんでしたが、アランさんの幸福についての考えでは、「幸福は義務である」。

 自分が幸せであることは他のひとの幸せにも役立つ。不機嫌なひとがいると周りも不機嫌になる。まず自分が幸福でないとひとに幸福を与えることもできない。社会全体の幸福のためにひとりひとりが幸福であることが大事なのだ。幸福であろうとする強い意志を持つべきなのだ。

 

 「幸福は義務である」。

 この言葉を聞いてふと思い出したことがあります。


 わたしは幼いころからぼんやりとこんな信念がありました。

 わたしは幸せな大人になるはずだ、いや幸せな大人にならなくてはいけない。

 なぜならわたしが不幸になったならば、わたしが幸せになるよう心血注いでわたしを育てた両親の人生を否定することになるから。

 そんなことがこの世にあってはならない、許されてはならない。


 「幸福は義務である」ことを、幼いわたしは自分でも


 すみません、つい“隙あらば自分語り”をしてしまいました。

 

 アランさんは将来幸福であるようにと思うこと自体がもう幸福なのだと言います。

「期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ」。


 ……。

 そうだね。そうかも。

 それにね、貧しくて学校に行きたくても行けず、字の読めないひとはこの『幸福論』を読めない。

 朝から晩までつらい労働に従事しているひとは疲れ果てて本を読む時間が無い。

 

 そもそもこの『幸福論』を読める者は、幸福であるためのヒントを得ようと期待をもってページを開いた者は、もうある程度幸福なのかもしれない。

 

【続きどうする?】

a:読む。

b:読まずに次の作品に進む。


 今回はaを選択。

 一編一編が短いから、バスの中や歯医者の待合室でちょっとずつ読めそう。それこそ気負わずに、あくびをしたり腕を伸ばしたりしながら。そんな時間を持てるいまの自分の環境に感謝しながら。

 そしていつか「フランス散文の傑作」と評されるこの『幸福論』をフランス語の原書で読もう。

 

【今回読んだ本】

アラン『幸福論』神谷幹夫訳 岩波文庫 1998年

※本文中の「」内はすべてこちらの本からの引用です。

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