第五冊 『真理のことば』
【読む前の状態】
ブッダの語録集? そういうものがあったんだ。孔子サマのエピソードを集めた『論語』みたいな感じかなあ。こっちにもお弟子さんたちとのわちゃわちゃな日常描写とかあるかな? でも真理って言ってるしなあ。やっぱり難しそうだなあ。
【それではいざ実読!】
アレクサ、百分のタイマーして!
【百分後】
アレクサ、ストップ!
読めたのは全体の100%。
この“『百分de名著』を百分で読む”の挑戦を始めてから五冊目。やっと百分で読みきれる本に出会えた。 嬉しい!
内容としてはね、あれですよ、あれ。田舎の親戚の家の玄関や仏壇の横やトイレの壁なんかに飾ってある日めくりカレンダーに書かれているような言葉を集めたもの。もう何日もめくるの忘れられてるからめくっといてあげようと思ったらそもそも今年のじゃなかった、去年のカレンダーだった、みたいなあれです。
あるいはちょっとお金持ってそうなお寺の門の横にある、ガラス戸つきの掲示板に貼られた、毛筆で書かれた“今月のことば”、みたいな。
伝わらなかったですかね。
要するに日々忘れるべきでない人として大事なこと、人生の教訓を短い言葉で何度も繰り返し述べている、そんな書物です。
構成としては全部で四二三の短い文から成り立っており、それらの文は二十六の章に分類されています。
では具体的にどんな言葉があるのかというと。
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ」(五〇、第四章)。
「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ」(一七八、第六章)。
「荒々しい言葉を言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう」(一三三、第一〇章)。
これらの言葉などは、最近よく耳にするいわゆるネットリテラシーにも通じると思い取り上げてみました。
たいして好きでもない芸能人のスキャンダルを聞いて匿名であるのをいいことに誹謗中傷の書き込みをしたり。
あるいは新型コロナウィルスやそのワクチンについて真偽定かでない情報を鵜吞みにして拡散したり。
自分の意見と違う人と口論になって終いには互いに暴言を吐くだけになったり。
SNS上でよく見かけますよね。正直目にしていい気分はしませんね。
「他人の過失を見るなかれ」「悪い友と交わるな」「荒々しい言葉を言うな」。
自戒の言葉としたいと思います。
さて、このあとは『百分de名著』視聴タイムです。
【視聴後】
ところで、そもそもの疑問。
この書物はいつごろ書かれたものなのか?
に、結局誰も答えてくれていない。番組も。この本のあとがきブッダの死後にまとめられたとにかくとても古い書物、というだけ。
どこかに答えはないかしら? と探したら、ありました。番組のホームページに。
読者からの質問コーナーに、わたしと同じ疑問を持った方がいらっしゃって質問していました。
そこにあった答えによると、ブッダが亡くなったのがおそらく紀元前四~五世紀。
そのあと数百年のあいだに『真理のことば』は出来上がっていった。
つまり紀元前二~三世紀ころにまとめられたのではないかとのことでした。
じゃあ誰がまとめたのか?
それも分かっていないんだそうです。まあ仏教僧であったはず、というくらいで。
なるほど、これじゃ“とにかく古い書物”というしかないわけですね。
釈迦族の王子として生まれ、妻子も持ち、王宮で何不自由なく暮らしていたブッダ。
人の人生に老いや死などの苦しみがあることを知って悩み、どうしたらその苦しみを克服できるか知るために二十九歳で妻子を捨てて苦行の道へ。そして三十五歳、菩提樹の下でついに悟りを開く。
うーん、なんというか……。
これはもう本当にわたし個人の感想ですけど……。
要するに超裕福な世間知らずのお坊ちゃんがちょっと遅い思春期をこじらせまくって家出して、自分なりに苦労だと思うことをいろいろとやってみた結果、ようやくごくごく当たり前の人として大事なことに気づいた、ってわけですかい。
こういう子がいると家族は心労が絶えないですね。まあ、もちろん我が子可愛い、応援したいという思いもあるでしょうけど、憂鬱なのは、ため息つきたくなるのはこっちだよ、と言ってやりたくなるのでは。奥さんも子ども抱えて辛かったでしょうね。
かくいうわたしも中学生、思春期ど真ん中のころ同じように世の不条理みたいなものに悩み、母に将来何になりたいかと聞かれたときに尼さんになりたいと答えたことがあります。
すると母はわざとらしいくらいに大きなため息をついて、自分は子育てを間違ったと言いました。
それを聞いて娘のわたしはむっとしました。こんなに真剣に世の中にある悪、戦争や差別や偏見について考えて悲しんでいるのに、自分の栄達よりも世の平安のために祈る人生を選ぼうとしているのに、なぜそれが間違いなのか。
まあ、でも今では母の気持ちも分かります。周りの女の子たちがおしゃれや誰々くんが好き! みたいな話題で盛り上がる中でそういうことに一切興味を示さないわたしのことをずいぶんと変わった娘だと驚いたでしょうし、そして本当に将来を心配したことでしょう。
その後わたしはそれなりに思春期を消化しつつ進学し、就職もしました。そして社会人生活を経験する中で日々の仕事の大変さ、家事の大変さ、両親をはじめとする周りのひとへの感謝等を改めて学びました。
ブッダさんは山に籠ったり断食したり、ずいぶん回りくどいことをしたもんだ。
そんなことをしなくたって、真理はあるんですよ。山の中に探しにいかなくたって、常にあるんですよ。日々の生活に。自分の仕事の中に。王宮の中にだってあったはず。見えてないだけだったんですよ。あるいは見ようとしていなかったのかもしれませんが。見たいものだけを見ていたからなのかもしれませんが。
わたしにはどうもブッダの苦行は結局捨てる側の苦行、自分で選んだきれいな苦行だと思えてしまうのです。
自分が捨てられる側になったなら、残されて日々過ごすその歳月がまさに大変な苦行だと思いますが、その場合でも悟りを開けましたかね?
だいたい人里離れた山に籠って断食して悟りを得られるんだったら、親からネグレクトされ、あるいは監禁状態にあって周囲の人びとと繋がることができず満足に食事を与えられていない子どもはみな悟りを開くのでしょうか?
世の中の人がみな悟りを開くために畑を耕すことをやめて出家したら、やがてみんなして飢えて死ぬだけでは。
托鉢の鉢に乳粥を与えてくれる誰かがいることをあてにしている時点で、苦行なんて言葉はどうにもわたしには働きたくない者の言い訳のように聞こえてくるのです。
長々とすみませんでした。
とにかくわたしは尊いのは真理を求めて彷徨い腹が減ったら鉢を差し出す者ではなく、日々の仕事をこなし、差し出された鉢に自分たちの乳粥を分け注いでやる寛容さを持っている人たちの方だと思っています。
つまり名もなき市井の人びとこそ、もっとも立派な人たちだと考えている。人として大事なことはちゃんと分かっている、分かっているからこそいちいち口にしない。この世はそういった有名でない、無名なたくさんの人びとの日々の仕事で、誠実さで成り立っている。
わたしもそんな彼らの一員でありたい。ずっと彼らの中で暮らしていきたい。
そのためにこそわたしは「ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ」「善い友と交われ。尊い人と交われ」という言葉を大事にするんだ。何者かになるためではなく。
【続きどうする?】
今回は読破したので続きはもうありませんが、『百分de名著』ではこのあと『般若心経』『ブッダ 最期のことば』『維摩経』などの仏教関連の書物が取り扱われているので、いずれまたブッダの教えに触れることになります。楽しみ!
……という気持ちになっている自分にびっくりです。読む前の状態を思い出すと。
【今回読んだ本】
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村 元訳 岩波文庫
※本文中の「」内はすべてこちらの本からの引用です。
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