初夏色ブルーノート

鈴ノ木 鈴ノ子

初夏色ブルーノート

 降りしきる雪が辺り一面を白銀へ染めてゆく。

 古き思い出の駅を出て、一歩、また一歩と雪を踏みしめながら明子は懐かしの道を辿ってゆく。

 陽の落ちた駅前の商店街は昔ほどの活気はなく、緩慢に終焉を迎えていくかのようだ。

 

 風もなく、音もなく、深々と雪は降り続いている。


 からんからん。


 軽い金属音が静寂の中に弱く響く。

 先を見れば幼い頃に見慣れた喫茶店の入り口からお客が出てきて帰って行く。

 その後ろ姿を見送っているマスターが明子に気づいた。


 まだ、大丈夫ですか?


 ええ、どうぞ、どうぞ。


 中年の男性は手招きをして明子を招き入れた。

 暖かい店内に入ると掛けていた眼鏡が曇り、視界がすりガラスのように覆われる。


 お好きな席へどうぞ。


 マスターはそう言ってカウンターへと戻って行く。


 外がよく見える窓際の4人卓の座席へと明子は腰掛けると、薄曇りした眼鏡を外して卓上に置く、まるでそれがスイッチであったかのように、奥から音が流れてきた。


 あ、レコードなんだ。


 マスターのいるカウンターの右端に古めかしい蓄音機が置かれており、時折、ガサガサと言いながら、アサガオの花のようなホーンから柔らかな音を紡ぎ出していた。しばらく聞いていると、聴き慣れたメロディが流れ始めてきた、それはとても懐かしく、感情を激しく揺さぶった。そして、閉じ込めたはずの想いが込み上げてくると、自然とあの人の顔が思い浮かぶ。


 智昭。


 メニューに向けていた視線を窓へと向けると、深々とふる雪は消え、降り積もった雪は溶け、そして燦々と降り注ぐ陽の光と若葉に囲まれた公園が見えた。


 なにを聞いてるんだ?


 ベンチに腰掛けて本を読みながら、イヤホンで音楽を聞いていた明子の後ろから声が聞こえた。


 なにって、普通のだけど?


 普通ってなんだよ?


 明子の答えに学生服姿の智昭が呆れたように言って離れてゆく。

 引っ越しに伴いこの街に転校してきた明子は、なかなか周囲とも馴染めずにいた。学校帰りにこのベンチでゆっくり過ごす時間が彼女にとっての唯一の癒しの場であったのだが、少し前から、妙な奴に見つかり絡まれるようになった。


 それが智昭だ。


 高校の生徒会長を務める彼は、私の隣のベンチに寝転がりカバンを枕に文庫本を読み始めたが、暫くするとゆっくりと寝息をたて始めた。

 明子は読むふりをしてこっそりと彼を盗み見た。

 柔らかな顔立ちに短いながらも綺麗な黒髪、姿を見つめていると、なんとも言えない感情で心が満たされていく。


 なあ、明子。


 突然、話を振られて盗み見ていたことがバレたのではないかと心が浮き足立つ。外見は相変わらずの冷静さを崩してはいないようだ。


 なに慌ててんの?


 慌ててないし。


 嘘だ、声が裏返っていることは誰が聞いても明らかだった。


 ほら、慌ててる。


 からかい混じりの声に少し腹が立つ。


 うるさい。で、なんなの?


 声色を落として、不機嫌に、ぶっきらぼうに、問う。


 俺、お前が好きなんだと思う。


 は!?

 

 思わず私はベンチを立ち上がって智昭を見た。彼は文庫本を読みながら寝転がったままだ。


 と、言ったらどうする?


 ば、馬鹿じゃないの。


 声が裏返り、なにがなにやら考えがまとまらない。


 馬鹿じゃないよ。


 智昭はベンチから緩慢な動作で起き上がると、ゆっくりと私と視線を合わせた。

 彼の顔は真っ赤に染まっていた。私も視線があった途端に瞬間湯沸かし器のように顔が熱を持ったのが理解できた。


 俺、明子が好きだわ。


 姿勢を正して恥ずかしそうにしながらも、視線をずらさず、彼は再度、そうはっきりと言う。


 俺と付き合って欲しい。


 決してぶれない真剣な眼差しが、私を言葉と共に貫いた。


 は…、はい。


 俯いて小声で返事をする。

 なんで?とか、どうして?とか、聞くべきなのに。

 心の中のなんとも言えない感情であったものが、彼の言葉の針によって水風船の如く爆ぜ、中から甘露な幸せがなみなみと溢れ出して、私の心を満たして沈めてしまった。


 あ、ありがとう!


 満遍の笑みを浮かべた智昭を見て、更に私は溶けてしまってなにも言うことができず、ただ彼を見つめているだけだった。

 

 メロディが周りに響き始める。17時の時を知らせるメロディは今の2人の雰囲気には似合わなかったが、智昭になにかを思い出させるには十分だった。

 

 しまった…。今日は生徒職員会議があったんだ。明子、ごめん、この後きちんと話をしようと思ってたのに…。明日、きちんと話したいから放課後にここで待っていて!あと、夏休みは予定を入れないでね!

 こんな告白で本当にごめんなさい!


 真っ赤な顔から真っ青な顔に豹変した彼が、そう言い残して大慌てで学校へと戻って行ってしまった。

 今からの会議なら私も知っている。短い文化祭を数日延ばす為の最後の折衝だとクラス委員が署名を集めていた。


 私は惚けて呆けた状態で、暫くその場から全く動けなかった。



 翌朝、私は不機嫌を溜め込みながら通学路を歩いてゆく。一晩でこんなに考えたのは生まれて初めてだった。幸せから現実へ引き戻され、自己反省から自己憐憫への過程を経て今に至っている。

 気持ちは間違いない。だが話が軽すぎた。

 いや、もっと簡素に馬鹿にして言うならば、私がチョロすぎた。が一番合うだろう。

 

 きちんとしっかり聞いてやる。


 きちんと話したいから!の言葉が頭をよぎるたびに覚悟しておけよと考えながら歩いていると、校門前が騒がしかった。

 数台のカメラが置かれていて人だかりができていた。教師たちが校門前に立って生徒に足早に登校するよう呼びかけており、私もそれにしたがって校門を通り過ぎる。下駄箱で上履きへと履き替えている最中に、普段なら気にも留めないのに、他の生徒達の話声が耳に入った。


 聞いた?通り魔のこと?


 あ、下校中にうちの生徒が刺し殺されたって話でしょ?


 そう、そう、通り魔みたいでまだ捕まってないんだって、ヤバいよね。


 昨日はあのおかげで、ニュースすら見ていなかった。そんな怖いことがあるだなんて、今日の話をする時は喫茶店かファミレスにでも行った方が良いかも知れない。階段を登って教室に入ると、いつもならゆっくり入ってくる担任が既に室内にいて教卓の前で立っていた。


 いるやつだけ、聞いてくれ。今日、ホームルームで例の事件について説明がある。


 センセー刺し殺されたやつは誰なんですかー


 笑いながら軽口を叩いた不良を、いつになく厳し目で睨みつけた。


 いいか、きちんと聞いて、考えるように。今日は時間短縮で午前で下校となる。


 クラスの何人かが喜びの声を上げた。私もその1人だった。


 それなら早めに話ができる。亡くなった人には申し訳ないけど、今日はきちんと話をしないと…。


 程なくして教室に備え付けのスピーカーから校長の声が聞こえて来た。一応にクラスは静かになっていた。


 皆さんも、ご存知だと思いますが、当校の生徒が何者かに刺されて亡くなるという痛ましい事件が発生しました。彼は下校中に襲われていた小学生を助けるために、勇敢にも立ち向かい命を落としたとのことです。生徒会長は…。


 校長!


 話し声の後ろから女性教頭の声が響き、放送は中断された。

 私は頭の中が真っ白になった。怒りも悲しみも、なにもかもが、すとん、と心から落ちて、泣くことも、喚くことも、嘆くことも、なにもなく、空虚な人形のようになってしまった。


そのあと再開された話は全く覚えていなかった。


 こうして私の初恋は、告げられた約束の夏を迎えることなく、彩られることなく色褪せて、酷すぎる終焉で終わりを告げた。



 窓の外は深々と雪の積もる世界に戻り、明子はメニューからブレンドをマスター頼むとコートとマフラーを脱いで座席へと置いた。


 お待たせしました。ブレンドです。


 マスターがマイセンのカップに入ったコーヒーを卓上にへ差し出す。香ばしい香りが立ち上ってきて、明子の固まっていた体を解した。


 これ、よかったらどうぞ。外、寒いですからね。


 角形のチョコレートが数個とクッキーの入った籠が卓上に置かれた。


 あ、ありがとうございます。

 

 いえ、ごゆっくりどうぞ。


 軽く頭を下げてマスターは戻って行った。

 コーヒーに口をつけると、酸味より少し苦味の強い味で明子の好みであった。


 再び窓から外を眺めるが、相変わらず雪は止まない。

 あの後、校内で色々な噂を耳にした。

 智昭は、事件当日の日中は何かに気を取られているかのようで、普段からは想像できないほど、上の空で過ごしていたこと。

 智昭は、会議の時に普段よりテンションが高く、延長を渋った教師側を激しく説得し、ついには勝ち得たこと。

 智昭は、周囲が見て見ぬふりをしているのに、勇敢に犯人に立ち向かったこと。

 智昭の、最後の言葉は、ごめんなさい。であったこと。

 これは倒れた智昭を、見て見ぬふりをしていた連中の1人が死に際中継などとネットに配信して大問題になった際に分かったことだ。

 

 智昭の葬儀では、彼の大好きなメロディが流れたこと。家族の前でも、生徒会でも、どこでも良く口ずさんでいたらしい。

 その数日前にいつもの如く、なに聞いてるんだ? があって、そっちは?と聞き返してやったところ、この曲を教えてくれた。その際に彼が音楽にやたらと詳しくて驚いた。


 あれから、私は人が変わったと言われるくらい、話かけるようになり、沢山の友達を得た。そして音大へ進学し音楽業界に就職した。


 カバンのスマホが通知の音を鳴らす。

 

 開けば彼からで、今駅に着いた。と書いてあった。


 あんなことがあったのにと言う人は言うかもしれない。でも、この人は特別なのだ。


 緩くなったコーヒーを飲み終えて、コートとマフラーを着ると手鏡で化粧を確認して席を立つ。


 450円になります。


 レジで支払いを済ませると、駅で待つ彼の元へと急ぐ。

 その彼こそ、智昭が命をかけて守り抜いたあの時の小学生なのだ。偶然の出会いから、長い長い時間をかけて私にアプローチをし続けた稀有な存在だ。わがままな私を優しく支えてくれている。


あの懐かしいメロディを口ずさみ。


深々と降りしきる雪の中を歩いてゆく。


メロディは物悲しく彷徨って消えてゆく。


今だにできないことはただ一つ。


初夏色に満たされたこの街へと帰ることだけ。

 


 

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初夏色ブルーノート 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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