第3話

 随分と前に夜の帳が下りており、辺りは深い闇に包まれている。

 嵐介は寝ている椿に気づかれないように家を出た。

 それは無論、彼女の下を去る為に。


 彼女の願いに応じて残ることを了承したが、あれは偽りだった。

 あの時には既に立ち去ることを心に決めていた。

 これ以上一緒にいれば、いつまた力が暴走してしまうか分からない。

 距離を空けていれば大丈夫などという保証はどこにもなく、次に同様の状態となってしまえば何らかの被害が生じてもおかしくないだろう。


 嵐介自身は人間に対する憎悪こそあれど好意は持っていない。人間がどうなろうと知ったことじゃない。

 しかし、椿はもし村が取り返しの付かないことになった場合、深く傷つくだろう。そのような思いをさせたくはなかった。


 自分がひっそりと姿を消すだけで問題は解決される。何かが起きることはない。

 椿はこれからもこの場所で穏やかに過ごし続けることが出来る。

 それ以上に良い未来があるはずもない。

 嵐介は念の為、人目に付かないように山道を避けて下っていく。

 この一月で山中の地理はある程度理解していた。


「…………」


 椿の家から離れていくにつれ、一緒に過ごした日々が脳裏を駆け巡っていく。

 鬼は森人の境遇と似ていた。

 人間に住処を追われ、その特異な外見から彼らに紛れ込むことも出来ず、人目に付かないように生きるしかなかった。


 恐らく自分達のような妖怪の現状はどれも似たようなものなのだろう。

 それだけ人間の数は多く、異質な存在を排除する力に卓越している。

 彼らの魔の手から逃れることは出来ない。

 もはや妖怪は滅びゆく存在なのだ。その運命さだめを受け入れる他ない。

 ならば、後はどう滅ぶかだ。


 流浪していた頃にはすっかり忘れてしまっていたこと。

 誰かと共に生きて、慈しむ感覚。

 椿はそのことを思い出させてくれた。それだけで十分だ。

 彼女との思い出があれば、これからも生きていける。

 穏やかな気持ちで死へと向かっていくことが出来るだろう。

 嵐介は椿と今生の別れになる痛みを抱えながら、山を下りていく。

 その足取りに躊躇いはない。


「ッ……!?」


 しかし、突然の異変を感じ取って身を硬直させた。

 焼け焦げる臭いが風上から流れてきている。それは自分がやって来た方角。

 慌てて振り返ると、夜空が赤みがかっている部分があった。

 最も濃くなっている部分の真下にあるのは、椿の家だ。


「まさか……」


 嵐介は全速力で来た道を引き返していく。

 一切の加減なく山中を駆け抜けるその姿は颶風ぐふうのようだった。

 それゆえ、瞬く間に目的の場所まで辿り着く。


 だが、そこで見たのは、見るも無惨な光景。

 激しく燃え盛る家と、それをぐるりと取り囲む人々だった。

 彼らの手には火のついた松明たいまつが握られている。


 その目的が何かは明らかだった。

 このような光景はこれまでにも何度も見てきたのだから。

 今まさに人間達の異質な存在を排除する力が眼前で牙を剥いていた。





 椿が目を覚ました時には、異常事態は随分と進行してしまっていた。

 部屋の中を黒煙くろけぶり朦々もうもうと立ち込めており、更には汗が噴き出る程の熱が波濤はとうのように押し寄せて来ている。


 何か大変なことが起きている。

 急いで外に出なきゃ、と身体を起こすが、途端に激しい眩暈めまいに襲われた。

 口の中はカラカラになっていて痛いくらいだ。

 既に身体が酷く蝕まれてしまっていることが良く分かる。


「嵐介っ……」


 椿は助けを乞うように彼の布団を見たが、そこはもぬけの空だった。愕然とする。

 一体いつからいないのか。この事態に関係しているのか。分からない。

 今はとにかくここから逃げなければならない。

 そう思った椿は身を引きずるようにして外を目指した。

 何とか玄関まで辿り着き、戸を開いて外に飛び出す。

 身を投げ出すような形だったので地面に転がった。


「けほっ、けほっ……!」


 椿は蹲りながら激しく咳き込んだ。全身に力が入らない。

 未だかつてない衰弱具合だった。

 やっとの思いで顔を上げると、家の周囲には村の人達が立ち並んでいた。

 その手に握られた松明と視界の端で壁や屋根を燃やす炎を見て、ようやく現状が理解できた。

 彼らの手で家を焼かれたのだ。しかし、その理由が分からなかった。


「こんな……どうして……?」


 椿のか細い声は炎の音に掻き消されてしまう。

 村人達の中には親しんだ老婆もおり、何か恐ろしいものを見るような目で睨んでいた。他の人々も同様だ。

 彼らを率いてやって来たらしい村長は一歩前に出て、周囲に命じる。


「大人しく焼かれておれば良いものを……この怪物を処刑せよッ! いつその姿を変じて襲ってくるか分からんぞ!」


 途端、いくつもの手が伸びてきた。地面に強く押さえつけられる。

 身動き一つ取れない。全身を軋むような痛みが襲う。

 村人の一人が腰元から抜いた白銀に閃く何かを振りかぶった。


 それが振り下ろされると、自らの命脈が断たれることが直感的に理解できた。

 椿は初めて感じる死の恐怖に、もはや纏まらない思考が唯一形作ったのは、嵐介のことだった。

 瞬間、何もかも切り裂くように鋭い声が響き渡る。


「――椿ッ!!」


 続けて、椿の身を取り押さえていた村人達が驚愕と苦悶の声を上げる。


「な、何だお前は、ぐあっ!?」

「うぐっ!?」

「がはぁっ!?」


 フッと身体を覆っていた圧が消え失せ、すぐさま誰かに抱き起こされた。

 椿はその大きく温かい手の主を知っている。


「嵐介……」


 既に身体を動かす力は残されておらず、そう呟くのが精一杯だった。





 嵐介は椿を抱き起こした。

 衰弱し切っており、目の焦点も合っていない。

 煙を吸ってしまったのだろう。一刻も早く医者に診せなければならない。


 しかし、と嵐介は周囲を見回した。

 傍にはこの手で殴り飛ばした数人の村人が倒れ伏し呻いている。

 隙だらけだったので、一撃で撃破することが出来た。

 その所業に恐れおののいた様子の他の者達は、各々が武器を取り出してこちらを取り囲んでいる。逃げ場はない。


「や、やれ! 女諸共やってしまえ! こやつも怪物の仲間だぞ! 見よ、あの禍々しい姿をッ!」


 村長らしき男の言葉を合図とし、一斉に襲い掛かってきた。

 嵐介は村人達に地獄の底から湧き上がるような赫怒かくどの念を抱く。


 ふざけるな。怪物だと。

 お前らが死に至らしめようとしている彼女が、この村にどれだけの恩恵を与えているかも知らないで。

 いいだろう。お望み通り怪物とやらを見せてやる。

 嵐介は激情に身を任せ、己が身を流れる鬼の血を暴走させる。


「グオオォォォォォッ――!!」


 天地を震わせるような雄叫び。

 身体が膨張したことで、村人達を等しく見下ろす状態となった。


「なっ……!?」

「そ、村長! これが私の見た怪物ですッ!」


 嵐介はみなぎってくる力を衝動のままに振るう。

 握り潰す。叩き潰す。踏み潰す。

 汚らしい血潮が幾重にも飛び散っていたが、気にも留めず蹂躙し続ける。

 しかし、鬼の力は決して無敵じゃない。


「こ、この化け物めッ!」


 村人の一人が振るった刀によって膝裏を切り裂かれてしまう。


「グアァッ!?」


 嵐介は否応なしに片膝をつかされた。

 それによって調子づいた村人達は叫ぶ。


「いける、殺せるぞッ!」

「畳みかけろッ!」

「村を守るんだッ!」


 次々と剣閃が迫り来る。

 嵐介は必死に薙ぎ払うが、それを潜り抜けた刃によって切り刻まれていく。

 そうして、遂に元の姿へと戻ってしまった。

 全身は血塗れで、もはや何もせずとも絶命するのは明らかだった。

 村長が止めを刺す為に近づいてきた。刀を振りかぶる。


「さらばだ、怪物」

「く、くく……」

「何が可笑おかしいっ!?」


 嵐介が眼前の者共の滑稽さをわらうと、それは村長の癪に障ったらしかった。

 せっかくなので最後に呪詛を吐いてやることにする。


「滅びろ、人間」

「貴様ッ……!」


 村長は表情を怒りに染め、一気に刀を振り下ろした。

 嵐介は絶命までの一刹那に願う。

 もし次の生があるなら、今度こそは椿と穏やかな日々を過ごしたいな、と。





 村長の一振りは嵐介の首を断ち切り、頭と胴体を切り離した。

 村人達の凶刃は続けて椿へと向かう。

 彼女は既に意識を失っており、嵐介の末路を見ずに済んだのは幸いだと言えた。


 椿も容赦なく止めが刺された。

 目撃した鬼が彼女でなかったと分かっても、老婆が止めることはなかった。

 それだけ村人達は異質な存在への恐慌に支配されていた。


 しかし、その直後、異変が生じる。

 椿の家の畑で実っていた農作物が急激な速度で枯れ落ちたのだ。

 火災が原因だとはとても思えなかった。

 日頃から農業に親しんでいる彼らだからこそ、その現象の異常さを理解することが出来た。

 そこで村人達はようやく、自分達はとんでもないことをしてしまったのではないか、と疑いを抱き始める。


 火を消し止めた後、亡くなった者達の弔いは明日にしよう、という村長の言葉を受けて彼らは帰宅した。

 闇夜ゆえに自分達の畑にも異変が生じていることに気づかない。

 村中を朝日が照らし、起床した人々がいつものように農作業をしに外に出たところで、ようやく知る。


 あらゆる農作物が枯れ落ちていた。

 そればかりか、村全体の自然から活力が失われているようだった。

 無論、すぐ傍に屹立する雄大な山からも。

 村長を始めとした村人達は遂に悟る。

 昨夜、自分達が殺したものが何だったのかを。

 その理屈や詳細までは分からずとも、取り返しのつかないことをしてしまったことは分かった。


 その後、村はこれまでの豊穣が嘘のように収穫が困難となり、未だかつてない大飢饉に襲われることになった。

 初めの冬で多くの村人が命を落とした。


 心身共に衰弱した村長は身を起こすことも出来なくなり、死の間際に一つの号令を出した。

 それは、椿の家があった場所にやしろが建てることだった。

 そして、自分達が奪った二人の男女をたてまつり、彼らへのあがないとして人々に祈るように言い残してこの世を去った。


 それから数年が過ぎ、相変わらず村は飢饉に苦しんでいたが、社の清掃や奉られた椿達への祈念は欠かさず行われていた。

 ある日、彼らは遂に赦しを得る。

 早朝に目覚めた村人達が見たのは、以前のように豊かな活力に満ちた大自然の姿だった。

 燦々さんさんと降り注ぐ陽光を反射し、草花の一つ一つがきらめいていた。


 その光景に歓喜した彼らは涙を流しながら感謝の声を上げた。

 以来、その村では椿達は男女一対の豊穣を司る神としてあがめられ続けた。

 元より嵐介の名を知る者はおらず、椿の名も老婆の死去によって失われていたが、村に生命の息吹を与えてくれる存在として、自然とこう呼ばれるようになった。

 春神はるがみ様、と。





「俺はまだ奴らを赦しちゃいないが」

「そんなこと言っちゃ駄目よ、嵐介」


 椿と嵐介の魂は人々の信仰によって神へと生まれ変わった。

 彼らには村一帯の自然に干渉する権能を与えられている。

 村に再び豊穣がもたらされたのは、椿の意思によるものだった。


「もういいじゃない。村の人達がたくさん祈ってくれたお陰で、わたし達はこうしてまた一緒にいられるんだから」

「……まあ、それは喜ばしいことだが」

「でしょ? だから、これからは嵐介も人間を愛するの。皆が幸せに生きていけるように頑張らなきゃ」


 神としての役目に意気込む椿に対し、嵐介は微笑を浮かべる。


「椿には敵わないな」


 二人はその手を重ね合わせ、共に村の行く末を見守っていく。

 それは慈愛の想いによって輝かしい光に満ち溢れていた。

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豊穣の村 吉野玄冬 @TALISKER7

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