第2話

 椿が嵐介と一緒に住むようになってから一月が過ぎた。

 囲炉裏の傍からふと外を眺めると、畑やその向こうの木々を夕日が紅に染めていた。

 正面の火にかけた鍋へと視線を戻し、具材がすっかり煮えているのを確認してから味噌を投入する。

 今日は具沢山の味噌汁だ。別に稗を炊いているので、それと一緒に食べる。


「嵐介、もうすぐご飯できるよー」

「ああ」


 椿が外に向けて声掛けすると、すぐに返事が来た。

 嵐介は薪割りをしてくれていた。大きいと火持ちは良いが、流石に限度がある。

 斧は家にあった物だ。重くて椿にはとても持てなかったので死蔵していたが、嵐介は易々と振るっていた。

 何かを運ぶ際も一度に持てる量が桁違いで、自分と比べれば驚くしかない。


 男性は誰もがそんなに力持ちなのだろうかと思ったことがある。

 実際に聞いてみたところ、その体躯と同じく嵐介が特別らしい。

 彼は苦虫を潰したような顔をしていたが、こちらとしては助けられていたので、感謝の気持ちしかなかった。

 それを素直に伝えると、表情が和らいだのを覚えている。

 初めは厳めしい顔をしていることが多かったが、最近はぎこちなくも笑顔を見せてくれることが少なくなかった。それが椿には嬉しかった。


「いただきます」


 囲炉裏の脇に並んで座った椿と嵐介は、両手を合わせてから食べ始めた。


「美味しい」


 嵐介はいつもそう言ってくれた。それは胸の内側をポカポカさせてくれて、もっと美味しいものを食べさせてあげたいと思うようになった。

 それでも、母から教わった程度しか分からないので、出来ることは限られているが。


 食事を終える頃には夕日がとっぷりと暮れており、就寝までゆっくりとした時間を過ごすことになる。

 なので、その時間は大抵、嵐介とのお話に費やしていた。

 彼がこれまでに体験した話を聞くこともあれば、椿が自身のことを話すこともあった。

 それは主に母との日々について。もう話せることは大抵話し尽くしていたように思う。


 他に話せることがあるとすれば、それはこの身に抱えた秘密だけ。

 母には、この人しかいない、と思わせてくれる自分にとって何より特別な相手には話しても良い、と言われていた。

 正直言えば、今の椿にとって嵐介は疾うにそういう存在になっている。

 しかし、それでもまだ話すことは出来ていなかった。


 怖いから。きっと彼を驚かせてしまう。

 そのせいで出て行ってしまうようなことがあれば、あまりに辛くて耐えられないかも知れない。

 また独りになるのは今じゃ考えられなかった。


 だから、もう少しだけ待って欲しい、と椿は密かに思う。

 今はまだ勇気が出なくても、この想いが高まった時には、全てを打ち明けるから。

 受け入れてくれるだろうか。受け入れてくれるといいな。

 そんな願いと共に、椿は嵐介との閑談かんだんに興じた。





 嵐介は畑の一角を大きなくわで耕していた。掘り返すことで土を柔らかくしていく。

 そこは椿が母と一緒にいた頃は使用していたらしいが、亡くなった後は収穫を減らす為に使わなくなったようだ。

 嵐介が住むようになったことで収穫を増やす必要があるので、再びそこも使用することになった。

 それなりの範囲があることに加えてしばらく手つかずとなっていた為、手入れは大変だったが、自分が食べる為の分なのだからと一身に引き受けていた。


 と言っても、嵐介は農業に関する知識はさっぱりだった。

 それに対し、椿は非常に詳しかった。

 農作物だけでなく、周辺の叢に生えている野草や木の実といったもの、それらの薬としての利用法のようなことまで知っていた。

 その為、嵐介が行ったのは雑草を取り去ったり、畑を耕したりといった地道な力仕事だ。

 既に終えた区画から椿が種を順次植えていっていたが、今日でようやく完了しそうだった。


 日頃から農作業をしている人と違って手際が悪いので、自然と時間が掛かってしまうのもあるが、それでも手間暇の掛かる作業だと思えた。

 人並外れた力を持つ嵐介でさえもそう思うのだから、只人の農民では一層身に染みるだろう。

 にもかかわらず、毎年毎年行っているのだから、感服する他ない。


 椿の方を見ると、彼女は農作物に水やりを行っていた。

 近くに大きな川はないので、岩場から漏れ出ている水を使っている。

 今でこそ嵐介が大きなたらいに貯めた水をまとめて運んでこれば良いが、以前は椿は何度も何度も往復していたというのだから恐れ入る。

 自分がいることで彼女の負担が大きく減っていることは喜ばしい。

 無理はして欲しくない。ただでさえ料理や裁縫といったことは任せっ切りなのだから。


 今着ている小袖も椿が母の物を使って仕立て直してくれたものだった。

 それはいずれ彼女が着るべき物だと思い、初めは固辞したが、結局は押し負けてしまった。

 いくつかあるとは言っても、貴重な物であるはずなのに。

 出来上がった小袖は少しいびつな形をしていたが、彼女が自分の為に作ってくれた物を悪く思うはずもなく、とても気に入っていた。


 嵐介は椿の役に立てるように、彼女が少しでも楽できるように、精一杯の力で働く。

 以前はこの身に宿った怪力を好ましく思ってはいなかった。

 それは自分が異端の存在であることの証だから。

 しかし、椿の為に役立てることの出来る今は少しばかり前向きな気持ちで受け入れられていた。


「……ん」


 嵐介はその優れた聴覚で人の気配が近づいてくるのを察知した。

 麓に住んでいる老婆だろう。


「椿、客だ」


 それだけ告げると、サッと裏手に身を隠した。


「あ、うん、分かった」


 椿もその意味をすぐに察し、わざわざ確認はしない。

 程なくして予想通りの老婆が姿を見せた。


「こんにちは、椿ちゃん」

「おばあちゃん、こんにちは」


 家の壁にもたれていると、二人の声だけが聞こえてくる。

 この一月で同様のことは何度かあった。

 やはり椿以外には姿を見られるわけにはいかない。

 もしそれが村に伝わってしまえば、どうなるかは目に見えている。


 自身だけでなく椿も危険に晒してしまうかも知れない。

 その為、老婆がいる間は身を隠すことにしていた。

 岩場の方に行ってるか、と思い移動しようとしたところで、老婆の発した言葉に気を引かれる。


「最近は何だか前よりも楽しそうだねぇ。何か良いことでもあったのかい」

「ふふ、そうかも。でも、これはおばあちゃんにも内緒なの」

「そいつは残念。でも、椿ちゃんが幸せならそれが一番だよ。お母さんもきっと喜んでいるさ」


 そんな会話を聞いた嵐介はフッと頬を緩めると、その場を離れた。

 自分でいいのだろうか、という不安は付き纏い続けていた。

 けれど、それは杞憂だったのだろう。ちゃんと椿を幸福に出来ている。

 なら、これからもそんな穏やかで幸いな日々を続けていこう。嵐介はそう決意した。





 それは唐突だった。

 椿はいつものように嵐介と一緒に畑の世話をしたり、食事の準備をしたり、洗濯をしたりと変わり映えのない、けれど心が安らぐ日々を過ごしていた。

 そんな中でのこと。


「っ……!?」

「ぐぁッ……!?」


 椿は全身を駆け巡った不快な感覚に視界が揺らぎ、畑の土に膝をついた。

 傍にいた嵐介も同様で、自身の身を抱くようにして苦しみ喘いでいた。

 一体何が起きてるの、と思考が纏まらないながらも考えるが、身体の内から溢れ出していくような不可視の力の奔流を感じ取り、ようやく理解する。


 椿がその身に宿した妖怪の・・・・が暴走していた。

 見た目に変化はないが、畑の農作物が活性化し、通常ではあり得ない速度で繁茂し始めていた。


「ぐ、ガアァァァァァッ――!!」


 耳朶をつんざくような雄叫び。

 驚いた鳥達が周辺の木々から一斉に飛び立っていく。

 それは嵐介が発したもので、彼は何と外見を変化させていた。

 身体が一回り以上大きくなっており、隆々たる筋肉が露わとなっている。

 更にその額からは鋭利な角が生えていて、口元には獰猛な牙を覗かせていた。


「嵐、介……?」


 椿は悶え苦しみながらも、眼前の光景に困惑する。

 その巨体を仰ぎ見ると、彼もまたこちらを見つめており、琥珀色の瞳は紛れもなく彼のものだった。

 そこからは哀しみの色が感じ取れた。


 彼は振り返ると、重い足取りで何処かへと歩いていこうとする。

 このまま去ってしまえば、きっともう会うことはない、二度と。

 そう思った椿はうずくまりながらも必死に手を伸ばして叫んだ。


「ま、待ってっ、行かないでっ……!」


 その瞬間、血が激しく脈打つような感覚が途端に静まっていくのを感じた。

 苛んでいた不快感が霧散する。

 嵐介も身体が縮み、元の姿へと戻っていた。

 その身には裂けた小袖が纏わり付いている。


「…………」


 椿は何を言えば良いのか分からなかった。

 脳裏をよぎる言葉が泡沫のように浮かんでは消えて浮かんでは消えてと繰り返される。

 先に沈黙を破ったのは、嵐介だった。彼は背を向けたまま告げる。


「……俺は鬼の血を引いている妖怪だ」


 驚きはなかった。今の現象が起きるのは、そういうことだと知っていたから。

 椿は否応なしに隠していた秘密を打ち明ける。


「わたしは……森人もりびとの血を引いている妖怪」


 森人。それは豊かな自然と共に生きる妖怪なのだと母に聞いた。

 以前はこの山の麓には鬱蒼とした森林が広がっており、そこを住処としていたらしい。

 けれど、人間の繁栄が原因で失われていき、その結果として数を減らしていった。

 今じゃ一息で消えてしまう灯火のような状態だ。何せ自分一人しかいないのだから。


「聞いているだろう? 俺達のような存在が一緒にいればどうなるか」

「禁忌……異なる妖怪の血は共鳴してしまうから……」


 その結果が先程の現象だ。

 特別な力同士が影響し合い、抑えられなくなってしまう。

 森人には植物や大地を活性化させる力が宿っている。

 しかし、暴走すれば何が起きるか分からない。

 少なくとも、辺りで暮らす人々には良くないことが起きるだろう。


 そして、その力からこそ、この土地の豊穣の正体だった。

 数十年前。この辺りは大変な不作に見舞われたらしい。

 人々は大飢饉に苦しみ、酸鼻を極める状況だったそうだ。

 それを見かねた母の母親、つまり椿にとって祖母は自分の力で彼らを救うことを決意した。

 滅びゆく森人よりも人間が繁栄していくことを望んだ。


 以来、この辺りは毎年の豊作が約束された土地となった。

 しかし、それを継続するには祖母や母の手による力の行使が不可欠で、その役目は椿にも引き継がれていた。


「俺達はこれ以上、一緒にいてはいけない。今は落ち着いているが、またいつ同じことが起きるか分からないのだから。そして、ここは椿の居場所だ。なら、俺が出ていくのが筋だろう」


 実際、自分達が一緒にいればお互いに悪い影響を与えてしまうのなら、嵐介の言うことは何も間違っていない。

 ただ、椿にはとても受け入れられなかった。

 もう彼のいない暮らしは考えられない。

 その為、無理なことだと分かっていても、切実な想いを口にする。


「それが許されないことでも……わたしは嵐介に一緒にいて欲しいよっ」


 気づけば両目からは涙が溢れ出ていた。必死に訴えかける。


「何か暴走を抑える方法だってあるかも知れないじゃない……お願いだから出て行かないで……」

「椿……」


 嵐介はこちらを向くと、辛そうな顔で呟いた。

 やがて、彼は考え込んだ後に頷いて見せる。


「……分かった」

「嵐介っ」


 椿は歓喜の思いから駆け寄ろうとするが、彼は即座に片手を上げて静止した。


「駄目だ。今は可能な限り近づかない方がいい」

「うっ……うん、分かった」


 確かに、少し離れたことで暴走が収まったのかも知れない。

 椿は立ち止まって、再び距離を取ることにする。


「俺は替えの服に着替える」


 嵐介はそう言うと、家の中に入って行った。

 彼の着ていた小袖は、先程起きた身体の膨張の影響で、既に衣服としての機能を失っていた為だ。


 これからどうしていくかは考えなくてはならないが、嵐介が残ってくれることに安堵する。

 何とかこれからも一緒に過ごしていける方法を見つけたい。

 もしその願いが叶うなら、どんなことでもしてみせる。

 例えそれが母に与えられた自分の役目を損なうことになっても。





 山の麓に住む老婆はいつものように椿のもとを訪れる為、なだらかな山道を一歩ずつ歩いていた。

 椿のことを心配しているというのは紛れもない本心だ。

 生まれた頃から知っているので、どうしても愛着が湧いてしまう。


 しかし、それ以外にも定期的に訪れる理由があった。

 椿やその母親の監視。それこそ、老婆が村長に与えられた役割だった。

 村長からすれば、椿達は危険分子だ。

 決して村に属そうとせず、山中でひっそりと暮らし続けているのだから。

 たった数人で何かが出来るとも思わない。もしそれがただの人間であれば。

 村長は不気味に感じていた。椿達は何か恐ろしい怪物なのではないか、と。

 その危惧が老婆に監視させるようになった原因だった。


 老婆は椿がそのような恐ろしい存在だとは思っていなかった。昔から良い子だ。

 出来れば、村の一員に迎え入れたいと思っている。

 そうすれば、山中に独りで住んでいることを心配する必要もなくなるのだから。

 また今日も聞いてみよう。理由は教えてくれなかったが、最近の椿は上機嫌だ。もしかすれば、了承してくれるかも知れない。


「ぐ、ガアァァァァァッ――!!」


 そんな風に考えながら歩を進めていた老婆は、突然聞こえてきた山中を震わすような雄叫びに腰を抜かしそうになる。

 ちょうど視界に入った椿の家の前、そこに屹立する巨体を見て唇を戦慄わななかせた。

 怪物だった。額に角が生えている。鬼だ。

 それが先程の雄叫びの発生源であることは疑いようもなかった。


「ひ、ひええええっ!?」


 老婆は思わず素っ頓狂な声を上げ、死に物狂いで来た道を引き返していく。

 その胸中を埋めるのは、椿が鬼となってしまった、ということだった。

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