狐と蛇の話

花房

狐と蛇の話

 たん、と前肢を蹴り上げる。飛び上がる肢体はしなやかに風に乗り、ごうと呻く音が耳を、気持ちの良い温度が全身の毛を撫でて流れていった。

 にやりと口端を上げ、晴天に飛ぶ雲の如く軽やかな気分に浸る。

 ひゅうと一つ口笛を吹く合間、背後から己を呼び止める怒声が飛んでくる。

 ああ、やるべき事を投げ出し、着の身着のまま自然に身を任す事の何と開放的な事か。最高だ。

 「おい、修行はどうした」

 視界の端にちらと背後を入れて見ると、己より一回り図体の大きな薄い赤毛の狐が声を荒げている。

 気分の良くなっている今の自分にはそんな怖い顔を向けられたところで屁でもない。身軽な身体を翻し、は、と得意気に笑んで見せる。

 「そんなんじゃいつまで経っても地狐のままだぞ」

「うるせえ。境内を掃除して経典読んでって、あんな退屈なこと来る日も来る日も毎日やってられねえや」

 べ、と舌を出して、その身をがさがさと草木に紛れさせ、さっさとその場を後にする。おい!とさらに呼び止める声が鋭く木々に木霊すが、それに振り返ることは無論なかった。



 *



 「全く、あの跳ねっ返りをどうしてくれよう」

 深く鬱憤を溜めながら、ぱら、と書物を捲る音を溢す。憂いの種であるあの狐、その処遇について、彼は延々と考えあぐねていた。

 大きくも小さくもない人里近くの山に座してから早云百年、人々から神として崇められ、社を頂き、供物を与えられ、それなりに力も蓄え、使いの狐も何十匹かと面倒を見てきたが、あんな問題児は初めてだった。

 一体全体どうすれば、あんなじゃじゃ馬に育ってしまうのか。生まれは野狐でもあるまいに、奴は神の眷属としての自覚が足りない。

 深々と溜め息をついていると、ふと、木戸越しにちちと囀ずる声が聞こえた。小鳥だ、いつものあれだろう。

 「いつもすまないな」

 ちちち、と小鳥はまた囀ずり、彼の主の伝言を言い終えると、とと、と板敷きを細い足で二歩三歩と跳ねる。

 するりと衣擦れの音を落としつつ、がらりと木戸を開いて、用意しておいた豆菓子を砕いて与えてやる。小鳥は円らな瞳で、流麗な線を描く眼前の人の顔を見上げて捉え、次いで足元に散らばった粒を嘴で丁寧に拾っていく。人の身に化けた白銀の狐は、その小さきものを微笑ましく暫く眺めていた。

 月に一度くらいか、隣山に座する白蛇は、こうやって小鳥を使ってうちの社に伝言を寄越してくる。というのも、彼は土地神であるが故にその場から動くことが出来ないのだ。大した事は交わさないのだが、麓の村が不作で困っていそうだとか、今年の夏は雨が多いだとか、境内の柿の実が見事に実ったから次に来たときに貰ってくれだとか、つまりはご近所付き合いのそれだ。思い付いた先から空を渡る小鳥を捕まえては、道中の社についでに立ち寄って欲しいと頼んでいるらしい。

 暇な奴だと思う傍ら、便りがある内は健在なのだろうと思い、ご近所のよしみか少し安心する自分も居た。

 さて、此方も近況報告をしてやろうかと思ったところで、はて、と少し考える。

 今回の話の種はあの狐の天の邪鬼ぶりにしようと思うついでに、さらにその次の考えが浮かんだ。少々難のある頼みをしようと思うが、懇意にしている相手の頼みだ、少しくらいは聞いてくれるだろう。

 豆菓子を拾い終えた小鳥がちちと白狐を見上げて小首を傾げた。



 *



 「は、」

 困惑し、思わず語尾も上がらぬ疑問の声を漏らした。

 目の前には背筋を伸ばしてきちんと座り、厳かに此方を見詰める男が一匹。社の御祭神の眷属である狐達を束ねる我らが頭である。

 まあ尤も、おれ自身はこの男の言うことを聞いたことなど殆ど無いのだが。

 「だから、隣山の蛇神だ。知っているだろう?見知りの仲だ、話を通してやろうと言っている」

「ちょっと待ってくれよ、厄介払いしようってのか」

 きゃんきゃんと吠えるように抗議の声を荒げると、喧しいとばかりに男は眉根を寄せて不快感を露にした。

 「ええい少しは大人しく出来ぬのか。その腐りきった性根、他所様のもとで少しはマシなものにしてこい」

 尚も抗議を続けるものの、とりつく島も無く男は立ち上がり、その場を後にしようとする。

 嫌だ嫌だと駄々を捏ね続けるおれを一匹部屋に置き、部屋を出る間際「今夜文を出す、返事が来ればすぐに発て」と言い残しその身を廊下に向けて行ってしまった。

 冗談じゃない、他所様のもとに打っちゃられたら、好きに怠惰を貪ることなんて出来なくなるじゃないか。近所とはいえ隣山にも行ったことなどない。地理を把握し、誰を欺けば逃げ出せるのか、馴染みきったこの社を追い出されるのはかなり面倒臭い。おれは面倒臭い事が大嫌いだ。修行だって何のためにするのかわからない。先達の方々は頭ごなしに怒鳴ってくるだけだし、やる気がとにかく起こらない。

 ああ、面倒だ、実に、面倒だ。



 *



 文の返事は三日後に来た。行きは狐の子を隣山まで使いにやり、返事は小鳥の足に括られて返ってきた。とりとめの無い簡単な話題の時には小鳥の伝言に頼るようだが、長い話になる時はちゃんと文に認めて寄越すらしい。

 「良かったな、迎えてやると言っているぞ」と不安と安堵をない交ぜにした微妙な面持ちで男は文を片手におれに声を掛け、対しておれはぎゃんぎゃんと懲りもせず鳴き喚いた。

 出立の朝まで文句を垂れ続け、往生際が悪いぞと社の狐どもからからかわれる始末。

 鳥居の前まで歩いたところで「くれぐれも迷惑のないように」と男が一応見送りに出てくれた。おれはとうとう観念して不貞腐れた顔で「行ってきます」と口を尖らせてぼそりと呟いた。

 どれくらい歩いたか。基本的には起伏の多い道だ、人の足で踏み固められていない道を通ったりもした。道中に湧き水が流れていたので、ぴちゃぴちゃと舌を付けて頂き、渇いた喉を潤す。木々はさわさわと手招きするように音を立て、途方もない自然の中にその身を置いているのだと気付かされる。

 ただ一匹で見もせぬ社に今から行くのだと思うと、急に心細い気持ちになった。同じ狐ならまだしも、相手は蛇神である。勝手が全く判らない。

 とぼとぼと歩き続けていると、木々が開けた場所に出た。苔むした景色の中央に石階段が伸びている。

 ここか?

 とと、と階段に足を掛け、するすると上っていく。

 やがて鳥居が見え、それをくぐると、そこは神域という言葉に相応しい場所だった。

 木々が丸く開いて空を切り取り、その下に決して大きくは無いが手入れの行き届いた立派な社がある。季節柄、山桜が花弁を散らしており、満開のその顔を下に向け、辺りを雅に照らしている。

 ふと、その桜の下に、人影があることに気が付いた。

 腰まで伸びた真っ白の髪に、真っ白の着物を纏った、背の高い、肩幅があるから恐らく男だ。桜の木を背景に立つその姿は消え入りそうな程に透明で、しかしその芯は固く、太いものだと思わせる何かがあった。

 「あ」

 たじろぎ、後退ると、ぱき、と足元の小枝を踏んでしまい、静かなその場所に水を差すような音が響く。しまった、と思う。

 その音に気が付いたのか、男はふいと此方に振り向いた。

 その顔は白く、唇は薄く、目は切れ長で、瞳孔は縦に長く、虹彩は見たこともないような綺麗な赤みがかった色をしていた。

 線の細い輪郭を柔らかに動かし、「ああ」と真白の男は思い出したように呟く。思ったよりも低いが、見た目通りの大人しい声質をしていた。

 「来たのか、いらっしゃい」

 男は柔和に笑んで、手招きをする。花衣を纏い、桜の花から出でたような儚さを醸して、おれの目を、心を、釘付けにした。

 これは畏怖に近い。まるで石になったかのように歩き出そうにも足が動かない。恐れを抱く、其れほどまでに、彼は、うつくしかった。

 風を繰るようにその白く細い身が動き、柔らかに髪が晴明の陽気に溶ける。

 固まったまま反応の無いおれをいぶかしんでか、一瞬きょとんとした表情を見せた彼が、しかしまた羽のようにほとりと笑み、土を踏み、おれの代わりに歩き出す。彼が鳴らす土の音すらも、何故だか無性に耳に心地好く、まるで夢でも見ているかのように現実味が無い。

 程無くして彼は鳥居の下で動けないでいるおれの前まで辿り着き、そのうつくしい様をありありと間近に晒す。遠巻きでも美しかったが、目と鼻の先に見る彼もまた色を増して、しかし透明で、儚い花のようだ。

 「君が噂のチビ助くんか」

 低い、琴の音色のような声が花弁に乗り、鼓膜を擽る。

 噂の、と聞いて真っ先に浮かんだのは、今朝見送りをしてくれた、己にとっては憎らしい白狐の顔だ。この美しいひとの中に白狐が漏らしていたであろう己の奔放ぶりが届いているであろうと思うと、今更ながら恥ずかしさがこみ上げ、かっと顔が熱くなるのを感じた。

 蛇に睨まれた蛙のように「あ」とか「だ」とか、要領を得ない返事を口をぱくぱくさせながらただただ溢し、みっともなくその場から動けず、しかし視線だけは反らせないでいた。

 吸い込まれそうな程に不思議な魅力を放つその瞳。この世のものとは思えず、ぞっとする。これほどまでに美しい色があったのかと、思考することも忘れて魅了されていた。

 彼は、狐の姿であるおれに気を使ってか、その場にゆるりとしゃがみこみ、目線の高さを合わせようとしてくれる。不意に彼のにおいが鼻先を掠め、痺れるような心地が広がった。

 「こんにちは、初めまして」

「初め、まして」

 やっとの思いで絞り出した己の声は、緊張で上擦り、それはそれは酷いものだった。

 彼はそんなおれの滑稽さを気にも留めず、穏やかに微笑んでくれる。果ての無い優しさが悠かに滲む、ひどく優しい神様だった。

 「来てくれて有難う。隣山とはいえ疲れただろう、おいで」

 日頃修行を抜け出して野山を駆け回っている身として、其れほど疲れている訳でもなかったが、今は言われるがままに身を委ねてしまいたかった。ゆるりと細い腕が伸び、白い指先がくいと空を掻く。手招きだ。

 今度はぎくしゃくとした動きだがちゃんと四肢が動いた。歩きだした狐の様子に彼はくすりと笑みを溢し、滑るようにして此方に背を向ける。

 向かう先は本殿だ。

 連れられるままにその後ろを追い、綺麗に掃かれた石畳の道を進んで、社の入り口の階段に足を掛ける。一足先に本殿の中に入った彼は、「うーん」と一人漏らしながら、宮殿の横に並んでいるものの中から一つを手に取り、階段を登りきったところで未だ賽銭箱の横に居たおれのもとへと帰ってきた。

 その手にあったのは、おにぎりだ。美しい見目の中で急に庶民的なものが一緒の視界に飛び込んできて、思わず「へ」と変な声を出してしまった。

 「麓の里の人から貰った供え物なんだ、一緒に食べよう」

 人好きのする笑みで以て、彼は人懐っこく微笑んだ。

 「え、いや、でも」

「私宛の供え物だ、私が良いと言えば良いんだよ」

 何て自由な神様だ、と思った。彼は困惑するおれの事など気にも留めず、「君は人の姿になれるかい?なれそうなら、お茶を淹れてあげるよ」とさらに続けてくる。心なしか世話を焼くことを楽しそうにしているようにも見えるその表情や仕草に、おれはその場に棒立ちになってぱちぱちと目を白黒させるしかなかった。

 「いや、未だ成れない、です」

「ふむ、そうか、ならお水かな。」

 彼は屋内に戻り湯飲みを二つ手に持ってくると、手際よく水を用意して敷物の敷いてある縁側に二つ綺麗に並べてくれる。

 湯飲みの傍に音もなく腰を落とし、縁側から素足を垂らす。思っていたよりも大きなその足は骨張っており、華奢な印象を受けた。

 呆けたように白い神様の動きを眺めていると、此方を見やり自身の傍らをぽんぽんと叩いている。ここに座りなさい、と暗に言っているのだ。

 言われた通り、恐る恐るながらも彼の隣へ歩み寄る。素直に寄ってきてくれたことが嬉しかったのか、子を見る親のように彼は柔らかに微笑んだ。反しておれの方はおっかなびっくり、畏れ多いと身を縮めながら彼の隣に静かに座る。

 それと同時に彼の腕が流麗な動作でまた空を滑り、おれの頭をくしゃりと撫でた。

 ひ、と頭の中が一瞬にして真っ白になる。

 「そう固くならずとも良い。ここには私と、お前しか居ない」

 それが問題なんだと言いたい気持ちを喉元でぐっと押し止め、彼の冷たい手のひらの感触を味わう。鼻腔を絶えず擽る品のある香りに、酔い痺れそうになる。

 「あの、」

「うん?」

「ここは、本当に蛇神様以外に居ないのですか。普通、こういう支度はおれのような使いの者が…」

 言い終える前に、彼は朗らかに「ああ」と肯定の意を口にした。それから首筋に手を当てて、いやはやと若干ながら言いづらそうにもして見せる。

 「ここには、本当に私しか居ないんだ」

 彼はおれと同じようなことを言って返した。

 「使いも誰も居ない。元々私はひとりなんだよ」

 何故、と訊いても良いものか、悩んだ。誰も居ないと語る神様の表情は何処までも穏やかで、寂しそうにしている訳でも、特に自身の身の上を気にしている素振りもない。

 白い花弁がはらはらと散り、一層の儚さを白い見目に醸し出す。

 このひとは、本当に、独りなのだ。

 「そうですか」

 口から出た己の言葉は、それだけだった。一言、素っ気なかったかもしれないと内心で反省したが、彼はそれでも気にした様子もなく、穏やかに此方を見詰めていた。

 「ああ。だから、修行もじっくりと付き合ってあげられるよ」

 これから宜しくね、と何処か楽しそうに笑みを含ませる彼は、期待に胸を膨らませる子供のようにも見えた。

 無邪気で、清廉潔白に、穢れの色を知らぬように、何処までも彼は、真っ白だった。



 *



 蛇神の社に厄介になり始めてから最初、先ず困ったのは食事の準備や境内の掃除だった。

 おれの居た稲荷神社では、おれ以外の修行途中の狐が人の姿になり、上の者の食事は勿論、自身達と同様に修行中の狐共の食事まで準備をしていた。炊事となれば自ずと人の姿にならなければならなかったが、修行と名の付くものを端から怠ってきたおれはいつまで経っても獣の姿のままで、これらを手伝う頭数からは当たり前に省かれていた。境内の掃除に関しても勿論の事、獣の四肢のままでは箒一つ握ることすら出来ない。

 ここにきて、遊び呆けていたつけが回ってきた。

 彼はおれより早く陽が昇る頃に起き、とぐろを巻いていた長い身体を人の男のそれに映し変え、手早く着衣を整えて外に出る。

 おれはというと、さっと箒が土を擦る音で目を覚まし、うつらうつらとしつつ外の様子を見やると、蛇神自ら境内の掃除に勤しんでいる甲斐甲斐しい姿が開眼一番に目に飛び込み、二日目にして早々ひやりと肝が冷えた。

 「お早う。起こしちゃったかい」

 昨日見たままの美しい姿のまま、けろりと笑って見せる蛇神におれは慌てて境内を飛び降りる。

 まさか、御祭神自らに雑務をこなさせるなんて。

 「蛇神様、あの、おれがやりますから」

「でも、まだ人の姿にはなれないだろう?大丈夫だよ、私がやるから」

 毎日やっていたことだから気にしないで、と付け足して、彼はそのまま掃除を続ける。

 確かに彼はひとりだと語った。それならば自ずと、身の回りの事も当然の如くひとりでこなしてきたのだろう。

 彼の言葉を心の裡で反芻し自身の前肢を見下ろしてみるも、確かにこの身体では何も役に立てない。解りやすくおれは役立たずだった。

 稲荷神社に居たときはそれでも構わなかったが、何故か、彼には苦労を掛けたくないと思う自分がいた。素直に生まれて始めて、このままでは不味いと感じる。

 申し訳無さを滲ませながら顔を上げ、美しい彼の横顔を視界に入れる。山桜がまた、彼の横で花弁を散らしていた。

 「…おれ、修行、頑張りますから。頑張って、人の姿になって、早くお手伝い出来るようにします」

 喉の渇きを覚えながら、一言一言を苦心に苛まれながら絞り出す。やっとの思いで吐き出した仔狐の心根も、彼は朗らかに笑って受け止めた。

「ははは、それは頼もしいなぁ」

 のんびりと彼は答え、何故だかとても嬉しそうにはにかんでいた。見るひとの心を無条件に和ませるような、悪意の欠片もない彼の真っ白な笑顔に、罪悪感に固まった胸が柔らかく温まるのを感じた。

 早く、早く、この白に近付きたい。この白のように成りたい。稲荷神社の白狐のそれではなく、あなたのような白に。

 おれは一体、あなたに何を見ているのだろう。



 彼は本当に親身になって修行に付き合ってくれた。

 「狐の修行の全ては私もわかっていないんだけどな」と言いつつ、白狐から聞いていたであろう修行の流れを概ね準え、常に傍らでおれの悪戦苦闘する様を見守ってくれた。

 元々何もしてこなかったおれは本当に何も出来ず、且つなかなかどうして伸びも悪く、絶えず彼の前に無様を晒す羽目になった。

 それでも彼は、眉根一つ寄せずに、柔らかな笑みのまま見守ってくれた。時には「頑張れ頑張れ」と声援まで送ってくれる。頭ごなしに怒鳴る稲荷神社のやり方とは雲泥の差だ。

 心を入れ替えたように修行を続けていくうちに、ふといつもの彼の穏やかな表情を見て思うことが浮かぶ。

 「なあ、蛇神様」

「なんだい」

「どうして、そんなにいつも穏やかにおれのことを見てくれるんだ」

 うーん、と彼は小首を傾げ、斜め上を見上げて思案に耽る。長い睫毛がぱたぱたと上下し、思い当たる節を探している。

 「自分で言うのもなんだけど、おれは出来が悪いと思う。覚えも良くないし、きっと苛々させることもあるだろ。」

「そう思ったことは、一度もないな」

 本当に?

 気付けば意識もせず、口をついて出ていた。彼はおれを真っ直ぐに見据え、何の事もないように「ああ」とだけ答えた。それでも納得のいかないおれは、食い下がるように「でも」とか「いや」とか、いつかのようにしどろもどろに言葉を探した。

 「チビ、お前はとても一生懸命に、私が見ている前で頑張ってくれているじゃないか」

「それは、」

 確かに、そうだ。ここに身を置く限りおれは一匹でも修行に対して懸命になれる自信がある。彼の目があるからこそ、そこからさらに頑張ることが出来ている。彼に見て貰えると身が引き締まり、余計な邪念が邪魔をする余地が無い。

 何故なら、目の前に向かう先の路が示されているから。

 おれは、彼のように成りたい。

 彼のように何でも包み込めるような、そんな器に。

 「出来など二の次さ。先ずは目先のものに向き合わなければ、伸びるものも伸びない。その点、チビは毎日欠かすことなく修行を続けているじゃないか。それで十分なんだよ」

 ふわりと羽毛に埋もれるような心地が広がる。ああこれだ、彼はいつだってこうだ。おれが何を言っても、思っても、動じない。彼の中で「彼」は完璧に完成されている。おれにないものを、そして欲しているものを持つ彼に、おれは憧れている。

 今の彼は、おれにとってはひたすらに気高く、眩しい。手が届く傍らにいるようで、その実、うんと高く雲の上に居るのだ。そんな所から見下ろしているのに、常に目線を同じくしてくれる。それは持てるものの強さで、しかし持っているものを己のものとしていなければできないことである。

 今のおれでは、彼の足元すら見えない。



 彼のもとへ来て早云十年。幾度目かの桜を見る頃、おれは漸く獣の尾を残しながらも人の姿に成ることが出来た。

 ぽんと見られる人の形に成るや否や、「おお」と彼は感嘆の声を上げるのも束の間、すぐにくすりと笑んで「忘れものがあるよ」と悪戯っぽく言う。

 言われて直ぐ様はっとしてその尾を消して隠すのだが、一時間ともたずにまた隠すのを忘れるようで、気が付く頃にはいつの間にか既に出てきてしまっている。

 未だ未だ半人前なおれの様を見ては、常日頃から人の姿を完璧に真似る彼は、人の顔でこれまた綺麗に笑って見せる。

 でも良い、二本の足で立ち上がり、二本の腕で物を持つ。おれはこれがやりたかった。これさえできれば箒が持てる、湯飲みも茶碗も持つことが出来る。彼を助けることが出来る。

 初めて人の形をした自分の足で土を踏み、初めて人の形をした自分の手で物を持つ。

 初めて自分で淹れたお茶はとても熱くて、旨かった。彼もほくほくと温かな相貌でおれが渡した湯飲みを持ち「美味しいね」と微笑んでくれた。

 おれは得意気に胸を反り、無邪気に尾っぽをぱたぱたと振って答えた。



 「よく頑張ったなぁ、後は尾を上手く隠せば、人里にだって降りられるかもしれないよ」

「人里。」

 この山の麓には小さな村がある。毎朝山道を登って来ては、境内の掃除をし、供え物を置いて帰っていく者がいる。ある日は腰の曲がった老婆であったり、またある日は若い男だったりと、日によってまちまちだ。

 いつもは来て貰うばかりだが、そうか、今度はおれが行くことも出来てしまうのか。

 「蛇神様は、一緒に来てくれるのか?」

 上目に問うと、彼は眉を下げてゆっくりと首を横に振る。

 「私はここから何処に行くことも出来ないよ」

 ふと、涼しい風を毛先に感じる。凛と空気が冷たくなったような、そんな心地だった。一瞬に感じたその変化を獣の性は目敏く感じ取り、意図したときには口が勝手に焦りを覚え言葉を矢鱈と紡ぎ、吐く。

 「本当に出られないのか。」

 口は止まらない。

 「足はあるじゃないか、もしかしたら」

 続けようとするおれの顔を、白い神様は寂しそうに見た。その顔を見留めて、おれははっと口を噤む。それ以上続けてはならない。

 「私は、土地神だからな。」

 彼はそう、一言だけ、寂しそうに言う。

「…そうか」

 差し出がましい事をしてしまった。

 土地神。土地神というものをおれはイマイチよく解っていないのかもしれない。ぼんやりとしたイメージでは、何となくその土地を守護するおれよりうんと偉い神様なんだろうとか、地位がある者なんだろうとか、稲荷神社の面々を見ていて思うのはその程度だった。

 だが、彼のこの表情を見ると、もしかすると土地神とはおれが思う以上に厄介で、面倒が絡むものなのではなかろうか。

 「チビと出掛けられたら、私も嬉しいんだがな」

「…悪かった」

 気を使わせてしまったことに罪悪感を覚える。ひとり耳を下げて伏し目がちになっていると、彼はまたやんわりと笑んで見せてくれる。

 白い手のひらが、真っ直ぐに伸びてきた。その手は迷わずおれの毛むくじゃらの頭にぽんと置かれ、そのままゆっくりと撫でていく。彼の手は蛇のそれらしく、とてもひんやりとしている。そう、先程感じた空気のそれと、同じような。人の形を取っているとたまに忘れそうになるが、彼は蛇神なのだ。

 土地神、なのだ。

 「私はここから出ることが出来ないが、チビは自由だ。それは私がどんなに求めても得られないものだ。チビ、お前は、己の自由を大切にしなさい。」

 彼の薄い唇が、柔らかに笑みを形作る。ここに寄留してから暫く経つが、いつ見ても彼はこうしてどんなときにでも笑みを絶やさず、その表情におれはいつも安堵している。

 縦長の細い瞳孔は、おれの心を見透かすように鋭いのに、彼という存在はこんなにも柔らかく温かい。彼はどうして、こんなにも優しいのだろう。おれの中でこの蛇神様は、出会った頃の春の暖かさや山桜の色の可憐さ儚さをそのまま内包しているような、そんな存在だった。

 「どうして、蛇神様はそんなに優しいんだ」

 優しい者は損をする、おれはそれを知っている。だからこそなのかもしれない、おれは彼の役に立ちたいし、助けになりたかった。

 同時に、彼のようになりたかった。

 「さて、私は優しくなどないよ」

 彼はいつものように笑う。柔らかに、見るひとの心を包み込むように、その場の空気を解くように、静かに、暖かに。自分の抱えるもの全てをも含めて、白い神様は現に在り続ける。

 おれでは到底敵わない、彼はおれが見てきたどんな神様よりも、別格だった。




 時が流れた。

 国全体が大きく乱れ、不穏と不安の入り雑じる混沌の時を経る。その間も人は信仰を忘れることなく、寧ろ今まで以上に頑なに神と云う存在にすがり付く。神前で手を合わせる老若男女の皆、救いを求め、その胸の裡に感謝を抱く。

 蛇神様の横で、おれはその光景を見ていた。ある日は配膳の支度の最中に、ある日は遠くに木霊する地鳴りと悲嘆に胸中をざわつかせながら。

 幸いなことに、ここら一体は然程標的とするものがないのか、戦禍に見舞われる事はなかった。

 幾度目かの大きな争いの後、暫く平穏な時が流れた末、彼は少しだるそうにしながらもいつもの笑みでおれに向く。

 「使いに行ってきてくれないか」

 和やかに頼まれ、小さな包みを渡される。何が入っているのかと訊けば、秋に採れたばかりの柿の実が三つ程だという。

 「大層なものはあげられないが、いつも供物を持ってきてくれるお礼だよ。神主の家まで届けて欲しい。」

 玄関先に置いてくるだけで良いから、と彼は最後に付け足して、その包みをそっと人の手を使っておれに差し出した。

 「いいぜ」

 彼の頼みだ、断る理由も無い。おれは素直に彼の手からその包みを受け取ると、それを口に咥え、獣の四肢でたんと境内の板敷きを蹴って屋外に出でた。

 秋のにおいを感じた。枯れ葉が神域の中で舞い、木枯らしがさらりと冷めた風を纏う。

 「夕餉までには帰るつもりだけど、何か要望はあるか?食欲の秋らしく、持ってきてもらった供物は選り取り緑、たんとあるぜ」

「そうだな、米…炊き込みご飯が食べたい」

「よっしゃ、決まりだな。待っててくれ」

 ゆらりと尾を揺らして手を振る代わりとすると、彼はのんびりと「行ってらっしゃい」と片手をひらひらと泳がせて応えてくれた。

 屋内にちんまりと座る彼の白は、日陰の中に居ても翳ることはない。いつも通りの美しい姿におれはいつも通りに安堵して、「行ってきます」と駆け出した。

 すぐ帰ってくるとはいえ、彼に背を向けるのは何だか物悲しい気がしてしまうのは、おれの甘えだろうか。

 あまり彼を独りにさせたくない。早く帰って、夕餉の支度に取り掛かろう。

 人の足では数刻掛かる山道も、獣の身で駆れば然程の時間は掛からない。ましてや勝手知ったる道だ、人が使わないような近道だって知っている。しなやかに体を木々の間に滑らせ、人には真似の出来ない速さで山を降りていく。もうすぐだ。

 陽も高く天辺を迎えた頃、漸く麓に辿り着き、がさりと生い茂る葉の中から鼻先だけを出す。すん、と人の気配をにおいで探し、土と風のにおいしかしない事を確かめてからその身を葉の中からそろりと出した。

 人里だ、畑が見える。茅葺き屋根の家屋が数棟、農作の道具が建物の裏手に立て掛けてある。遠くから人の話し声がして、此方に向かってくる前に早いところ神主の家を探して置くものを置いてこようと思った。

 家々の陰に隠れながら、村の中を進む。井戸端会議に華を咲かせる働き者の女達の様を、物陰からちらと伺えば、おれが蛇神様のもとに来た時よりも随分と出で立ちが変わったように感じる。身形も綺麗になり、西洋の文化を微かに感じさせる。人の世の移り変わりは早く、ちょいと転た寝をすれば人ひとりの人生が終わってしまっているような、殆ど悠久といえる時を生きる身として大袈裟に言えばそんな感覚があった。しかし、今回の変化はまた違う向かい方をしているように感じる。豊かになりつつあるのだろうと窺えるが、何処か浮わついているような、いや、人が楽しく生きられるというのはおれや御祭神にとっても最上の喜びでもあるのだが。

 少し興味をそそられ、物陰に潜んだままそっと耳を側立てる。人と神のやり取りなら神社の中でいやと云うほど聞いてきたが、人と人の会話というのは神社の中に居ては滅多と聞かない。人は普段、何を話すのだろう。

 「疎開の人達も家に帰れるようになって、良かったねえ」

「ええ、ええ。ここには弁天様が居られますから、お客さんも手を出せなかったんじゃないかしら」

「田畑が無事で良かったよ、都の方は焼け野原らしいけど、あたしらは畑があれば、やり直せる」

 畑。山を降りてすぐにおれが見た畑。これまで蛇神様が豊作の願を叶えてきた、人々の畑。

 彼らは、彼女らは、これが本当に大切なのだろう。畑がなければ食いっぱぐれる、おれたちのもとに供物も届かなくなる。これは蛇神様が守ってきた畑、食、人間、命。蛇神様の守る村。

 そろりと身を起こし、その場を後にした。なるべく足音を立てずに、村の中を駆ける。家々に目を配り、それなりの雰囲気のものを探す。

 ふと、家屋の入り口で腕を組み、空を見上げる男の姿が目に留まった。

 あの男には見覚えがある。確か、前に婆さんと一緒に供物を持ってきてくれた人だ。装束もそれなりだ、彼の立つ家が神主の家だろうか。

 さてどうしたものか、何処に土産を置いて帰ろうか。戸口に置いて帰れば良いと見当を付けてきてしまったが、人が居るとなるとなあ。裏口に置いて帰ろうか。

 男に見付からないように足音を極力殺し、静かに物陰の裏を縫って行く。男は変わらず秋空を見上げ、ぼんやりと虚空に目線をやっている。よしよし、いいぞ。少し遠回りをしたが、建物の裏手まで来れた。お勝手に誰もいないことを確認し、戸口にそっと包みを置いた。

 よし、これで終わりだ、早く蛇神様の所へ帰ろう。

 山の方向へと踵を返し、夕飯の献立を考えながら四肢を走らせる。

 「あら、狐」

「隣山から来たんじゃないかしら」

 女達の潜めた声が耳に入り、半身を草葉に隠しながら、ふと足を止めてつと振り返る。

 すると玄関先の戸口に立っていた男が、何気ない顔付きでこちらに目線を移しているのを見つけ、慌てておれは走り出し、その身を完全に山の中へと隠した。





 幾許かの日を過ごし、山の景色も様変わりする。ここに来て何度目かの冬を迎えた。山に住む草木は雪の下で静かに眠りにつき、春の暖かさの夢を見る。俺と彼はというと、まあ似たようなものだ、寒さの中でしんみりと火鉢を囲み、春の陽気を夢想しては焦がれていた。板敷きがいやに冷たく、ただ歩くだけでも億劫になる。

 特に蛇神様ときたら、身体は爬虫類のそれと同じらしく「辺りが冷たくなると、私も冷えてしまう」と苦笑いを浮かべ、狐という身の上にさらに子供体温のおれを湯たんぽ代わりに抱いて暖を取る始末だ。まんざら嫌な気はしないものの、この時期の蛇神様は本当に冷たい。火鉢の横に居ても氷に抱かれているような寒さを覚えるが、彼の和やかな息遣いを聞いていると、不思議と文句を覚えることも無かった。熟、おれは単純なのかもしれない。

 「春になったら、花見をしよう」

「毎年やってるだろ、蛇神様」

「ああそうだな。でも毎年違う顔が見られるんだ、同じ木なのに。梅も桜も、春の訪れを知らせてくれる。優しい奴らだよ」

 そうおれを抱きながら耳元で話す彼の低い声が擽ったい。彼は春の花々を想像しながら、白銀の冷えた今の世界から温かな野原に暖を求めに行っているようだ。肌を刺す凍てつく空気から素直に逃避する蛇神様に何処か親近感を覚え、胸の裡が温かくなる。

 身体は冷えても心は温かい。そんな小さな幸せの中で身を寄せ合い、おれは何を考えることもなくゆったりとした時間を過ごしていた。

 冬の時間はいやに長く感じる。景色と共に時間も凍りついてしまったのではないかとすら感じる程だ。しかしながらそれはそれで良いものだ、蛇神様との時間がこのまま冬の雪に滲んでいつまでも続くのであれば、それはそれで良いものだ。

 そんなことを考えながら、おれは火鉢の火を見やりつつ、蛇神様の美しい白い見目を雪の白と重ねて見る。

 いつまでも、いつまでも、こんな時間が続けばいい。この時のおれは心の底から、そう思っていた。





 雪融けの季節がやって来る頃、蛇神様は徐々に朝に起きる時間が遅くなってきていた。最初はまだ冬の寒さにやられているのかと思っていたが、見たところそれだけではないように思えた。

 何かがおかしい。そう胸騒ぎを覚えつつも、未だ時間をかければ床から起き上がってくれる蛇神様に、おれは現実を甘く受け止めながら、日々を過ごすことにしていた。

 見たくなかったのだろうと思う、気付きたくなかったのだろうと思う。何かが起きている、この悠久のように穏やかな時間に亀裂を生む何かが。

 その日もおれは、境内の掃除をこなし、飯の支度を終え、蛇神様と食事を囲い、蛇神様に見守られながら修行を続ける。人の姿になるのもすっかり慣れたものである、鳥の言葉も徐々に理解できるようになってきていた。修行の成果をあげる度に、蛇神様は優しげに微笑みながら、自分のことのように喜んでくれる。その笑顔を見るたびに、静かに忍び寄る違和感を忘れ去る事が出来た。

 本当は忘れてはならなかったのだろう。もっと注視しておくべきだった。しかしこのときのおれはどうしようもなく馬鹿で、都合の良くない事はどうしても視界に入れたくないと思ってしまっていた。

 とりわけ、蛇神様のことに関しては。



 「チビがこんなに立派に育ってくれて、嬉しいなあ」

「へへん、これでおれもそろそろ一人前だろう?」

「ははは、一人前になるのももうすぐだろうな。これならすぐに私を越えてしまうかもしれないよ」

 そんな冗談を交わしながら、蛇神様は屈託なく笑ってくれる。笑う蛇神様は何処か気だるそうで、無理をしているのではないかと感じさせる空気があった。

 流石に限界だ、おれは遂にここ最近の違和感を口に出してしまう。これを聞いてしまっては、全てが終わってしまうのではないかとも思った。しかし、もう遅い。

 「…蛇神様、本当は、具合が悪いんじゃないか。」

 絞り出すような己の声音。

 それを聞いた蛇神様は、一瞬きょとんとした表情を見せた。時間にしては五秒に満たない時間だったのだろうが、その一瞬の静寂が、おれにとっては永遠のように感じられた。

 怖い、こわい。蛇神様から真実を聞くのがこわい。何が起きているのか理解してしまうのがこわい。解ってしまうのが、知ってしまうのが、堪らなく恐ろしい。始まりがあれば終わりがある、そんなことは百も承知だ。でもこれは、これだけは、修行を重ねてきたおれだから、受け入れることは出来そうにない。

 固唾を飲んで蛇神様の顔色を窺い、返事を待っていると、やがて蛇神様は何事もなかったように、またいつも通りに穏やかに微笑んで見せてくれた。


 「…そうかな、そんなことはないさ。チビは、優しいな」


 優しいのは貴方だ。

 おれは馬鹿のように安心してしまった。聞きたかった返答、求めていた言葉、それではない、そうではないのだ。

 阿呆のように安堵して、おれは「そうか」と蛇神様の微笑みを真似て、彼の傍に居るものと錯覚する。

 もう知っていたのだ、解っていた。


 彼の傍らに、きっとおれはいない。

 彼の未来に、きっとおれはいない。




 その日は静かに訪れる。

 冬が過ぎ、誰も訪れなくなって久しい社の周辺にも、春の風が届き始めていた。ぽつぽつと蕾を付け始める桜の木々を眺めながら、蛇の姿のままうつらうつらと船をこぐ蛇神様を、おれは掃き掃除をしながら見守る。いつの間にか見守ってもらう立場から逆転してしまっていた。

 いつ頃からか、山の麓の村は過疎化が進み、若者がひとり、またひとりと消え、いつしか神への信仰も忘れ去られていった。

 暖かな陽気に誘われておずおずと芽を出す木々の緑達、少しずつ目を覚まし始める動植物に反して、蛇神様は酷くゆっくりと眠りにつく時間が多くなり、季節が進むごとに時の流れに逆らうようにして希薄な空気を孕むようになっていった。

 おれは、それをただ見守ることしかできなかった。いつの間にか修行もひとりでこなすようになり、食事の時間のみ、億劫そうに起き上がってきてくれる蛇神様とぽつりぽつりと短い会話をやっと交わせるのみとなっていった。

 いつまで続けられるだろう、あと何日、この日を続けられるだろう。

 迫る空白と虚無に心を押し潰されそうな日々を過ごしていたある日、ぱたぱたと小さな小鳥が境内にその小さな身を降り立たせる。見れば小鳥は細いその足に文を結んでおり、それはおれがもと居た稲荷神社の狐からのものであろうと察せられる。

 礼を言って文を外してやり、木の実を砕いて与えてやる。小鳥はそれを囀ずりながら啄み、とんとんと板敷きを踏みながら蛇神様のもとへと向かう。伝言を預かるつもりなのだろう。そっと本殿を覗いてみるも、蛇神様は暗がりでとぐろを巻いたまま、起き上がる気配はない。困ったように右往左往する小鳥に、「悪いな、ちょいと待っててくれ」とおれは声を掛け、小鳥の足から外したばかりの小さな文を開き、目を通す。

 そこには、おれの嫌いな達筆なあの文章で、一番聞きたくない言葉が書かれていた。


 帰ってこい。


 その一言だけが、酷く鮮明に目に焼き付いた。

 本当はもっと色々な事が書かれていたのだが、おれにはこれしか視界に映すことができなかった。

 淡々とした堅苦しい文面は、蛇神様に宛てたものだ。おれが読んでもいいものか些か微妙なところではあるが、文を読むことのできない蛇神様の手前、仕方がないと自分を納得させる。

 蛇神様は静かに呼吸を続けていた。その身体は静かに、静かに、時を忘れて境内の寂しさに溶け消えていくようであった。

 とんとんとおれの傍まで帰ってきた小鳥は、じっと円らな瞳を向け、次の伝言を待っている。


 答えを、迫られていた。


 おれは何事かを呟くように伝え、すると小鳥は納得したように飛び立っていった。光る風が柔らかに社を流れ、寂れた空気を透かして渡る。

 桜はまだ、蕾のままだ。





 陽が暮れてから食事を運ぶと、蝋燭の明かりの傍らで、蛇神様は珍しく人の姿で綺麗に姿勢を正して座っていた。

 おれは一瞬驚いて膳を取り落としそうになったが、直ぐに平静を取り戻し、恐る恐る本殿へと足音を忍ばせながら進んでいく。

 「どうしたんだ蛇神様、起きてるなんて珍しいじゃないか」

 努めて明るい声色を作り、出来るだけいつも通りを装って、彼の前に膝をついて膳を置く。蝋燭の明かりが微かに揺れ、蛇神様の穏やかな相貌をうっすらと霞ませる。

 「狐から、文が届いたな」

 ひく、と指先が震えた。

 驚くほどに穏やかで、そして驚くほどに優しい蛇神様の声に、おれは顔を上げることができなかった。

 蝋燭が作った蛇神様の影を見やり、ここにきてまだ逃げ道を探している自分に嫌気が差す。全く、全くおれは、大馬鹿者だ。

 「チビ。」

 夜の闇に静かな声が響く。

 彼は優しく、その声でおれを包み込む。酷く希薄なその身で、ありったけの温かさを滲ませて、彼はそう、おれを諭してくれる。


 「稲荷神社に、帰りなさい。」


 なにも答えられなかった、答えてやれなかった。おれはただ、泣いていたと思う。


 言葉を発する気力など当になかった。

 馬鹿だなぁ、本当に気力がないのは、蛇神様の方だというのに。こんなにも気を使わせて、どこまでも、どこまでも、このひとは。


 この、蛇神様というお人は。





 久しく見る稲荷神社は、おれが帰ってきても相手をしている暇がないといった様子で、右往左往と落ち着きのない様を見せていた。ともかく頭に顔を見せに行こうと境内を進んでいく。途中すれ違う狐共に挨拶を投げると、「おう、おかえり」と一応は返事を返してくれるものの、それどころではないといったふうにすぐにその場を離れてしまった。

 何だ、待ちに待った問題児のご帰還だってのに、随分と素っ気ないじゃないか。

 半ば不貞腐れた顔のまま頭の狐の部屋の前に立ち、「只今戻りました」と声を掛ける。すると、少ししてから「入れ」と短い返答があり、おれはその言葉を合図にすっと襖を引く。

 久し振りに見る頭の相貌は、随分と疲れが見えるものであった。

 変われば変わるものか、とおれは襖を後ろ手に閉め、頭の前に腰を下ろし、姿勢を正す。

 「随分と見違えたじゃないか、久しいな」

「健在なようで何よりです。して、外の者共が騒がしいようですが、何かありましたか」

 一応は蛇神様のもとで言葉遣いも教わった。わざとらしくその通りに返答してやると、頭は一瞬目を丸くしてから、一つ咳払いをする。

 なんだかむず痒い心地だ、早くこの場から去りたい。

 「人里の方で、過疎化が進んでいるのは知っているな」

「存じております」

「ならば話が早い。信仰を失った社の向かう先は終わりだ。これからここを放棄し、皆で別の馴染みの稲荷神社へと移ることにした」

 淡々と話をする頭に、どこかそんな予感がしていたおれは、それを聞いても大きく取り乱すことはなかった。ただ、やはり、という感想しか浮かんではこなかった。

 「お前も帰ってきたことだ、明日には発つ。良いな」

 有無を言わせないその言い方、どれだけ月日が経とうと変わらないなと、内心毒を吐きたくなる衝動に駆られるが、そこは喉元までで呑み込み、努めて静かに返事をする。

 「承知しました。」

 おれはかしらの目を真っ直ぐに見据える。しかし、その視線の先に座る白銀の狐を映すことはなかった。どこまでも浮かぶのはあの白い神様、雪融けのように透き通る鱗に、透明に冷めた温度をその身に宿す彼。

 蛇神様、おれはあんた以外に教えを乞う気はないんだ。誰が何と言おうと、どんなに崇高で尊い誰かが現れようとも、あんた以外に何も教わりたくはないんだ。

 願わくば、いずれ成るのなら貴方のような、白い御姿でありたい。透明な花のようでいて、しかし常に柔和で温かな空気を醸すような、そんな、白狐に。



 稲荷の狐共からすれば、案の定、と思うかもしれない。帰ってきたは良いものの、頭のやり方に沿うことのできなかったおれは早々に移動した先の稲荷神社から逃げ出していた。何も言わずに出ていくことはしなかったが、一応のけじめとして、頭に一方的に話は通してきた。

 受け入れられたかどうかは定かではないが。

 「おれはあんたのやり方にはついていけない。悪いが、おれはおれのやり方で修行を続ける」

 明くる日の夜、それだけ叩き付けるように頭に向けて言い放ち、返事も聞かずにその晩から稲荷神社を飛び出した。

 山を降り、人の姿となって人里に降り立った。宛てなどない、だが稲荷神社に帰るつもりも無かった。

 大きな戦の後の人々の変容は目まぐるしく、木造の建築はいつしか異国の文化を色濃く取り入れた近代的なものへと移り変わっていき、焦土と化した首都の景観も、並び立つ塔の群れへとその姿を変えていく。爆発的に増えた人口の中、おれはその中の一人として、木の葉を隠すように紛れ込み、時の流れを見守った。

 今までの日本という国とはうって変わり、そこからの人々はまるで化け物のようだった。人々は当たり前のように信仰を忘れ、おれがいた稲荷神社のような状況に陥った社を幾度となく目の当たりにした。逃げ場のない神々はそこで朽ちて冷えていき、暗がりの中で理の中に還っていった。ひとつの終わりの傍らで、人々の賑やかで明るい喧騒が重なっていく。一方は沼の泥を飲んでいるというのに、一方は雲を食べている、酷い温度差であった。おれは様々な土地を渡り歩き、様々な人々を目に焼き付けた。

 海をいく船は蒸気から機船へ、陸をいく列車は電車へとその様相を変えていく。人々は知恵を行使し、豊かな文明の利器を発明し、その生活を己が住みやすいものへと作り変えていった。

 その隅に追いやられた動植物は、人々によって迫害され、或いは数が増えたからといっては殺され、はたまた命を愛玩目的で悪戯に増やしては売買するようになる。透明な壁越しに見た犬猫は何も知らない無垢な瞳を道行くおれに向け、羨ましそうにその背を見送ってくる。かつて森の中で自由を謳歌していた生物は、檻の中でひっそりとその小さな世界のみで命を費やし、人の為に死んでいった。


 こんな、こんなことのためにおれたちは生きてきたのか。

 おれたちは何のために生まれてきたのだろう。

 何のために、今まで彼らに恵みを与え、今日まで彼らと共に命を繋げてきたのだろう。


 搾取するのみとなった人間は、最早化け物以上の何かに成り果ててしまったような、おれはそう思うことしかできなかった。

 蛇神様、ここは醜い、この世界は、このままで良いのか。


 貴方ならどうする、蛇神様。





 元号が変わる。

 平らな世に成れと言わんばかりのその名に反し、人々はただでさえ平たい人情をさらには内に沈めるようになる。

 さく、と低い草を踏みしめ、おれは山道を登っていた。

 季節は移ろい、幾度も目にしてきたその花が、今年も可憐に咲き誇る。風光る季節の中で、花衣を纏うように、おれはその木の下にやって来た。

 さくら、桜の木だ。

 獣の足でいけば数刻も掛からない山道をあえて人の身で登ったのは、獣の身を駆るには人が増えすぎたからだ。

 苔むして崩れ掛けた階段を登った先には、朽ち果てた社が一つ、忘れ去られたようにその時を止めていた。

 崩れ掛けた社の傍らにその身を伸ばす木の下に、おれは居る。



 白い山桜が、今年も綺麗に咲いていた。白い、白い、白い花だ。はらはらと散る花弁はまるで雪のように、彼の身を覆う忘れ形見のように、おれの頭上に降り注ぐ。木の合間から漏れる陽光は暖かにおれを包み込み、それは彼の温もりのように静かに優しく広がっていく。


 社の中には誰もいなかった。

 誰もいない、ここにはおれ、ひとりだけだった。


 「なあ、蛇神様、桜、今年も咲いたな」


 一匹の狐が、白い桜の木の下で静かに音もなくなきだした。

 舞い散る花弁は餞のように、穏やかな風に乗って何処かへと運ばれていく。

 高い高い空の果て、人々が建てた塔の群れも届かない遥かな高みまで、雪花はふわりと線を描いて舞い上がる。



 蛇神様、おれは、貴方のように、




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狐と蛇の話 花房 @HanaBusaxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ