第30話
人界に約一世紀ほども身を鎮めようと木食はやはり猫である。
多少は人ずれもしようがやはり人は異物、その性は理解も納得も共感もし得るものではない。
例えば今だ。
親子で仲睦まじく習字に勤しむが如き秦野の日常の一コマ、そう余人の眼には映るであろう、か。
とんでもない。
木食は思わずえずいた。
短いしっぽをさかんに振り、ふーっと毛を逆立て後足掻いてその場を立ち去る、それを主人は不機嫌に見送り、深香は、もくじき、いっちゃう、いっちゃったとたどたどしくぼやき惜しむ。
親子で仲良くリスカの現場だ、冗談ではない。命を削り式を織り鬼を遣う、それは、判る、それが仕事だ、が。
なぜ、わが子を巻き込むのか。
こんな因業、我が身今生限り、子は健やかに生きよ、これが親の情ではないのか、少なくとも私は、猫一族ならとうぜんだ、それを。
木食、という涼やかな呼び声に、初老の男は眼を細め、なんでしょう、姫、と返した。
ほんとうに、秦野分裂には呆れ果て、いっそそこらの無縁浮遊地縛妖魔にまつろわぬ祟神、外魔なんでもいいあそこにいい贄がおるぞと呼び付け束ねぶつけて法力飽和攻撃一世紀ぶんの意趣返し、両家ともにかっくらってやろうかと、まあ一宿一飯とか態々ことわざにしても守れない人族と違い誇り高き猫としてはそんな一時の情念に飲まれることも無く探さないで下さいの一筆で出奔するくらいに止めたのではあるが、一度縁を切りしかし乞われではなく自らこうして深香にまみえた以上、既に腹は出来ている。
深香が、深香で無ければ、或いは自分は。
秦野に起きた惨劇を知って木食には相反する二つの感情が去来した。
云わぬことではない、離れていて良かったという安堵、蔑視、唾棄。
そして今一つは、何故に堪えられなかったという自己卑下、悔恨。
何故に、深香の傍に居てやれなかったのだという。
木食には判っていたのだ、深香に宿った魂は、それは。
それでも所詮、人界が風にて候。
恩とてその今生なりたんとお返し申した。
続く今日までは余禄のようなもの、我が身は常に一つ也。
そう、嘯いていた。
偽っていた。
千年経ての縁起残りか。
或いは吾が永きに過ぎたるや。
初老の現代紳士の姿を借りて深香に分かれること約十年、再会を果たした木食はその姿を眼に膝から崩れ落ちた。
ほんとうに、ほんとうに魂のままに、彼女は生き写しだったのだ。
DNA、遺伝云々は木食のあずかり知らぬ呪いだがどうでも良い。この仔は、この姫は。
手を貸し助け起こしたキクの随員に醜態を詫び、そして木食は、彼女の保護、養育、後見人として彼女、深香を生涯護り支える旨、決然と申し述べた。
本件を管轄している事務官は率直な安堵の表情を浮かべ、木食と詳細な打ち合わせを始めたが今一人の随員、当時キク副長の席次にあった祥充は何とも言えない微苦笑のまま事の推移を眺めていた。猫と人間の養子縁組、それも妖魔、ましてかつてはキクと、あの崇徳事件で激闘を演じた木食とこうした次第とは、それは彼ならずとも言葉を喪うだろう。
結局裏も表も総て事情を把握している祥充の音頭取りにより木食と深香の必要な法制上諸件は滞りなく決着し、本部を動かす事で日本国籍他カバーもしれっと用意された。
深香は当初、幼少に戯れていた妙に勘が鋭い三毛と、自身の保護者を名乗り出た縁戚、叔父だという、秦野木食なる初老の紳士が、同一存在である事に気付かなかった、どころか。
外界に対して無関心無反応、自発的な食事排泄も疎かな程に自閉していた。
木食は不平一声漏らす事無く朝晩一身総てを捧げ深香の世話にこれ務めた、この木食が間違っておりました、赦して下され姫様と嘆きながら。深香の裸身を丁寧に清めながら涙が溢れてとどまるところが無かった、別腹とはいえ親の為す事か鬼秦野がと。
半年、1年。
中学1年で深香は社会復帰を果たした。
サボリ気味、遅刻早退。
しかし学業は優良で、だからこそスクカ内では過酷な立場に置かれた。
なにより教師が音を上げ、次はどこ、と月替わりで転校する始末。
それでも木食は根気よく深香に付き合った、従った。
その姿は養父からはかけ離れていた。
高慢な姫君に絶対隷従を生涯捧げた老執事。
その声姿、立ち振る舞い、生き写しの彼女に木食は、一命を留められたのだ。
おお姫。千年の土岐を経てまた、御仕えすることが叶うとは、望むべくもない、望外の僥倖、嗚呼神も照覧あれ、この木食、一身を賭してこの姫を。我知らず感涙を漏らす木食、叔父の様子に深香は不可思議、なる視線を向け、そっと傍を離れた。
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