色喰いが染め上げる

雨蟲 乙

第1話 卵を買いに来たんですけど

 俺は木崎《きざき》 ぜん、どこにでもいる一人暮らしの大学生。今日は授業も無いしやる事もないので部屋で読書を嗜んでいる。これは中々面白かったし続編も買うか。


「あ、そういや卵がねーんだった」


 ボソッと呟き立ち上がる。めんどいけど卵は大事、今夜はチャーハンを作る予定なのだ。


 外はまだ少し冷える。壁に掛けてあるパーカーを羽織り、ポケットに財布とエコバッグが入っているのを確認。部屋から出て短い廊下を進み、ポツンと置かれたスニーカーを履く。あとは玄関のドアを開け外へ出る。


 うん、気持ちの良い空気だ。済みわたる晴天に柔らかな風、草が揺れて擦れる音が心地良い。遠くには川でもあるのだろうか?水の音が微かに聞こえる。


「……?」


 いやいや、おかしい。俺は道路に面したアパートのドアを開けたのだ。なんなら2階である。それがどうして俺の両足は草原を踏みしめているのだろうか。いつの間にかアパートのドアは某有名なドアと取り替えられてしまったのだろうか。そんな大発明が成されたなど聞いたことないし、ドアの取り替えなど知らされてないはずなのだが。


「……とりあえず、もどっか」


 部屋に戻って寝よう。きっと疲れてるのだ。振り返れば不自然に草原に立つアパートのドア。とりあえず開けようとする。しかしその手は空を切った。ドアがシューンと音を立てて消えたからだ。


「いや、シューンじゃないが!?」


 それはもう全力で突っ込ませていただく。こんな形で某有名アニメの再現は見たくなかった。

 だが帰れなくなった事で逆に冷静になることができた。そして1つの可能性が浮かび上がる。


「夢!これ夢の中だろ!ほら明晰夢とか言う……」


 自分以外に誰もいないが大きな声でそう宣言する。

 というか卵買いに行きたいんだが。とっとと起きてくれないかな、俺。明晰夢って夢を思い通りにできる、みたいな話だった気がするけど強制的に起きれねーのかな。

 まぁでもここでじっとしてても面白くないしちょっと歩くか。


「水の音が聞こえるしそっち目指してみるかぁ」


 気が楽になった俺は伸びをしながら歩き出す。それにしても気持ちの良い陽気だ。こういう日はバーベキューとかしても良さそうだな。


「はぁ、そんなこと考えてたら腹減ったな……」


 ここは1つ明晰夢さんに頑張ってもらうとしよう。


「肉!!」


 叫んでみる……が何も起こらない。


「んあ、唱えかたが悪かったんかな」


 とりあえずもう一度やってみるか、と思っていた矢先。背後から生暖かい空気と唸り声が。恐る恐る振り返れば、牙が異様に発達した軽自動車並みの大きさの猪がいるではないですか。


「いや、肉とは言ったけどこれじゃ食えねーじゃん」


 そう言った俺の声は震えていた事だろう。なんたって猪のつぶらな瞳は俺を見据え、完全にエサを見る目をしていたから。しかも分かりやすく突進する前段階。このままじゃ一反木綿になっちまうのも時間の問題である……一反木綿としてヒラヒラやってくのも悪くはないかもな。

 くだらないことを考えつつも、猪が動き出したと同時に横に飛ぶ。直後、走り出した猪が起こした風圧で2mほど吹き飛ばされ、地面を転がされる。


「いってぇ!ちくしょぉ、むちゃくちゃやりやがって!」


 地面でゆっくりはしていられない。猪はすぐには止まれないようだったが、50mほど行ったところでUターンしているのが見える。

 急いで立ち上がり駆け出す。とにかく全力で走って追い付かれたらギリギリで横に飛ぶ!これができなきゃ挽き肉にジョブチェンジだ。

 ここは草原、視界が開け過ぎている。なんとか先に見える森に入れれば視線を切れるかもしれない。


「見せてやるぜ!小学校時代最速の男の逃げっぷりをよぉ!!」


 走りながら叫ぶ。さっき吹っ飛ばされた時に打った肩が痛いが気にしてはいられない。背後からはすぐに近づいてくる猪の足音。怖すぎ。


「今ぁっ!」


 そしてギリギリで飛んで避ける。なんとか成功。すぐに立ち上がりまた駆け出す。方向はさっきと一緒、またもやUターンした猪に正面から突っ込む形となる。目指すは森、あそこに辿り着けなければ死ぬだろう。

 今度はお互いに走りよる形、感動の再会は女の子が相手が良かった。涙を堪え、先程よりもはやいタイミングで横に飛び、なんとかまた避けることができた。


 そして繰り返すこと5回ほど、ようやく森に入ることができたのだが。


「見えなくても臭うってか!?木も障害物になんねーし、なんつーパワーしてんだ!」


 そう、猪は視界から消えたはずの俺を正確に追尾してくる。流石に僅かだが速度は落ちたものの、バリバリ音を立てて粉砕される木が俺を精神的に追い詰める。体力も何回も回避できるほど残っていない。

 必死に逃げているが、やっぱりすぐに追い付かれた。まずは一回、残り少ない体力で今までと同じように横に飛ぶ。少しだけタイミングが遅れたせいで風圧を思いっきり喰らい、今まで以上に吹き飛ばされたがなんとか無事だ。しかしアホな猪で助かった。じゃなけりゃとっくに俺の動きに対応されたことだろう。


 森に入ったので、ずっと同じ方向に走る必要はない。俺は今までの進行方向から右に向かって走り出す。

 既に猪は俺に向かって突進を開始しているようだ。また後ろから足音が聞こえる。

 最後の力を振り絞り速度を上げようとしたその時、地面に半分埋まっていた石に躓き、盛大に転倒してしまった。


「くっそ……俺の人生ここで終了かよ……」


 もう動く気力は無い。木を薙ぎ倒しながら迫る猪をボーッと眺めることくらいしかできない。

 まぁ思い返してみれば楽しい人生を送れたハズだ。短かった事だけは悔やまれるが、仕方ない……というか必死すぎて忘れていたが、ここ夢の中だったわ。なんだよ、明晰夢ってのは悪夢もあるのか。夢を自覚しててもなんでも思い通りな訳じゃないんだな。


「おはよう!!俺!」


 猪にあと数秒で轢かれそうになった所で、俺は笑顔でそう叫んだ。

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