第29話
悩みの種だった婚礼司会の仕事は、厳しいが好きだった。ずっと続けて行きたかった。
だが3年前に辞める事になってしまった。信頼する上司(所属事務所の女社長)に、辞めざるを得ないパワハラをされてしまったのだ。
私はその上司を「師匠」と慕っていた。上司は、何年も自分の都合いいように立ち回り、思い通りになる私を「都合よく便利に使われている間」は大層可愛がってくれた。私も良くしてくれる上司を敬愛した。
自分を無条件で慕う私を、その上司はいじめたのだった。
きっかけは、息子の幼稚園や小学校の運動会だった。運動会はたいてい土日に行われる。だが結婚式もたいてい土日に行われる。運動会だから休ませて欲しいと頼んでも、仕事だからと休ませてもらえなかった。
毎年私が折れていたが、ある年の運動会で夫が仕事になる事が前もって分かった。叱られるのを覚悟で私は懸命に上司に頼んだ。
「この日は夫が仕事なんです。私が行かなければ、息子がひとりになってしまいます。お弁当を一緒に食べる人もいなくなります」
上司はカンカンになって怒った。
「この日は大安よ!運動会を別の日にしてもらってよ!仏滅の日に!」
何というたわけた発想だろう。そんな馬鹿な事を頼める訳がない。私ひとりの為に大勢の父兄の予定を狂わせる訳にいかない。この人はもしかして物凄くおかしな人だったのか?と思った。その屁理屈のこね方は、まるで母のようだった。
結局、私は強引に休みをもらい、運動会に参加した。息子の運動会に初めて最初から最後までいられ(毎年オープニングだけ見て、仕事へ行った。午前中に始まる婚礼ならオープニングさえ見られなかった)、息子の喜ぶ顔を見てこの決断は正しかったと確信した。
だが上司は私を許さなかった。それを機に嫌味ばかり言うようになり、遠方の式場ばかり行かされるようになった上、仕事自体も激減した。
ずっと我慢していたが、ある日決定的な事が起きた。
それは事務所主催の勉強会での事だった。他のメンバーや外部の人(式場関係者)の前で、大声で理不尽な個人攻撃を受けたのだ。
ひとりずつ反省点を述べよと言われ、自分の番になった時に
「今まで会ったすべての人に感謝しています。これからも我以外皆師成(われ・いがい・みな・しなり)いう価値観でやっていきます」
と笑顔で言った途端、その上司は激高した。何故そんな事でそこまで激高するのかと思う程、その上司は怒り狂った。
「あんた、そんなんだから駄目なのよ!だからあんたは駄目なのよ!」
と大声で人格否定をされた。
感謝していて何が悪いのか?私の頭の上に大きな疑問符が浮かぶ。
そして上司は、私が歯並びの悪い事を気にしている事を知りながら、こう声を荒げた。
「あんた!口開けて笑いなさいよ!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!」
そして私の隣りに座っていた、直村さんという男性司会者にこう怒鳴り散らした。
「直村!あんた沖本係よ!沖本の顔見るたびに口!口!口!って言いなさいっ!!」
私は上司と直村さんの両方から
「口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!口!」
と50回以上怒鳴られた。そんな事を言われ、口を開けて笑う馬鹿はいない。決して私は笑わなかった。ただ傷つきながら、ひとり茫然としていた。
他のメンバーも30人ほどいたが、誰ひとりとして私をかばってくれなかった。みんな攻撃されているのが自分でなくて良かった、という顔をして傍観者を決め込んでいた。その上司は「社長」であるがゆえ(つまりトップの為)、誰も止める人などいなかった。
その直後、顔見知りの式場関係者の前でパワハラ上司はあざ笑いながらこう言った。
「パープーの沖本です。パープーの沖本です。パープーの沖本です」
何回言えば気が済むんだろう、この人は本当に母そっくりだ。
「ほら沖本、お世話になったんだから挨拶しなさいよ」
と挨拶させられた。
とことん、とことん、傷つけられた。
その式場関係者の男性が、私を気の毒がっているのが手に取るように分かった。
「ああ沖本さんってパワハラされていたんだ。この事務所、パワハラがあるんだ」と顔に書いてあった。その男性の憐れむ視線にも、私は耐えられなかった。
そう、少女時代に付き合った男性に友達の就職祝いのパーティーの席で
「こいつはなまじっか美人だから男にモテないんだよ!だから俺が仕方なく相手にしてやっているんだ!」
と大声で罵られ、憐れむ眼差しをそこにいる全員から浴び、耐えられなかった時のように。
私はその場において、ひどい恥をかかされた上に、たったのひとりぼっちにされた。
その一件で、私は深く傷ついた。最初から信用していなければここまで傷つかなかった、というほど傷ついた。そう、それが「決定打」になった。
それまでも
「テレビのニュースを見てアナウンサーの喋りを真似してみたら?そうすれば少しは頭の回転良くなるんじゃないの?あなたははっきり言って頭の回転良くないからね」
だの
「あなたの司会は時代に合っていないわ。昭和の喋りよ。ある支配人があなたを大正浪漫って言っていたわよ」
だのとせせら笑いながら言われていた。
元上司は楽しかったかも知れないが、私は傷ついていた。元上司はいじめているという認識はなかっただろうが、こちらは腹に据えかねていた。そこまで仕事に私情を挟んでくるなんて…。
いずれにせよ
「口開けて笑え、口!口!口!」
と怒鳴られたのにも、外部の人の前で
「パープーの沖本です」
と言われた事にも、
「お世話になったんだから挨拶しなさいよ」
と挨拶させられた事にも耐えられなかった。
もう耐えなくていい、耐えてはいけない、こんな事務所も上司も要らないと思った。
その社長は私に「致命傷」を負わせたのだから。この人は社長という立場だし、こういう目に遭わないんだろうと思うと、ますます悔しかった。
信じた上司に心を殺された。100%従っている間は可愛がってくれたが、そうでなくなった途端に手の平を返された。人ってここまで変わるのか、という程その社長は豹変した。
メンバーも、誰も助けてくれなかった。その人たちもこういう目に遭わないのだろうし。
私にだってプライドがある。蹴るようにその事務所を辞めた。
その上司は
「愛の鞭だった」
と母とまったく同じ言い訳をしたり
「辞めるならブライダル業界中にあんたの悪い噂広げる」
と脅したりしたが、私は一切取り合わなかった。
辞めた事自体はまったく後悔していない。だが婚礼司会の仕事そのものは辞めたくなくて、どこかに雇って欲しかったが、いくら探しても新しく私を雇ってくれる司会事務所はなかった。
「年齢制限」という壁が私の前に立ちはだかったのだ。
54歳。もう決して若くない、悲しいがそれが現実だった。
だが考えようによってはそれも喜ばしい事だった。
そう、私は婚礼司会の仕事を「定年退職」したのだから。何をやっても長続きしなかった私が、定年まで勤めあげられたのだ。
若い頃、私は何度も転職をした。給料が安いから、嫌な上司や先輩がいるから、お客にいじめられるから、ブラックッカンパニーだから、残業代が出ないから、きついから、汚いから、立ち仕事で足が痛いから、乾燥していて肌に悪いから、様々なわがままで私は仕事を転々とした。
だが学んだ事は多かった。
いちばん大きな学びは「良い給料や待遇を求めて職を転々とするより、まともな会社で真面目に働き続けるのがいちばん年収も待遇も良い」という事だ。
更に人間関係において「甘い汁を不当に吸おうとすると、その何倍もの苦い汁を飲む羽目になる」という事と「自分がやった事は必ずそっくり返って来る」と学んだ。
周囲が呆れかえるほど転職を繰り返した私が「辞めたくない」と初めて思えた仕事が婚礼司会だった。
大変な仕事ではあったが、それだけに何回現場に立ってもまだ足りなかった。自分の仕事に決して満足出来ず、もっと上達したい、まだまだやりたいと心から願った。
明るく華やかで幸せな仕事だった。幸せそうな新郎新婦を見ているのが嬉しかった。列席者や新郎新婦の家族の喜ぶ顔を見ているのも楽しかった。何より、「お客さんから幸せをもらえる仕事」だった。
式場スタッフに
「沖本さんじゃなきゃ」
と言われるのが本当に幸せだった。
そう、人は必要とされるほど嬉しい事はないし、あなたに会えて良かったと言われるほど幸せな事もない。そしてあなたは要らないと言われるほど悲しい事はないし、あなたに出会わなければ良かったと言われるほど不幸な事もない。
今回は難しいお客さんだから、ここの支配人は厳しいから、このプランナーは細かくてうるさいから、このキャプテンは時間にルーズで頼りないから、この音響オペレーターはまだ新人でミスが多く頻繁にフォローが必要だから
「だから沖本さんで」
と言ってもらえた。本当に嬉しかった。
婚礼司会者として、勿論最初から売れた訳ではない。デビューして最初の7年は鳴かず飛ばずで誰もあまり相手にしてくれなかった。
この時に「いちばんつらいのは叱られる事ではなく、誰も何も言ってくれない事だ」と学んだ。
悔しいからこそ色々な人に教えを乞い、勉強を重ねた。負けるもんかと歯を食いしばった。同期が厳しさに耐えられずどんどん辞めていく中、絶対生き残るぞと自分に誓った。
何か注意されるようになると嬉しかった。ああ私は注意してもらえるようになったんだ、少しは前進出来たんだと、心から喜んだ。
ひとつずつ課題を克服し、苦手なものを得意にしていくうちに、少しずつ信頼を得られるようになった。そして仕事は段々増えていった。
披露宴はあくまで生なので、急に間があいたり、スピーチする人が席にいなかったり等で司会者がつながなくてはならない場が多々ある。最初は何を言えば良いのか分からずつなげなかったが、その惨めな経験は次の仕事に活きた。
あらかじめ新郎新婦に細かく取材をしておく上、披露宴のひとつひとつの出来事を心に留めておく。それをつなぎに使うのだ。本当に心を込めれば、コメントする事は限りなくあった。
尻込みしたくなる仕事もあったが、試しにトライした所、案外「出来てしまった」という結果が付いてきた。やはり駄目だったという事は一度もなかった。
「沖本さん、司会上手くなりましたね」
私に厳しい目を向けていたプランナーにこう言われた時は、本当に嬉しかった。
危うくハプニングになりそうな所を難なく拾い上げ、意地悪で有名なキャプテンに
「咄嗟の判断で、有難うございました」
と言われた時も、誇らしかった。
「あの司会者上手いね。全然台本なんて見ていなかったよ。ずっと状況見て、全部アドリブで喋っていたよ」
と新郎の父親に言われた式場支配人が
「当式場、自慢の司会者です」
と言ってくれた時も司会者冥利に尽きた。アイデアも、言葉も、ほとばしるように出てきた。
そう、本当に良い時代があった。
多くの式場に出入りし、どのプランナーもスタッフも支配人もキャプテンも、奪い合うように私を可愛がってくれた。
「もはやスケジュールを抑える事が不可能なMC」
「婚礼業界の革命児」
とまで言われ、飛ぶ鳥も落とす勢いで指名を受け、先々までスケジュール帳が真っ黒になった。
「沖本争奪戦」と呼ばれたそれは、8年に及んだ。
私が自分を特別だと勘違いするのにじゅうぶんな歳月だった。その時も私は、世界中が自分に微笑みかけてくれているような気がしていた。
「私はナンバーワンになります」
「私は稼ぎ頭になります」
「私は自分のスケジュール帳を真っ黒にします」
有限実行する私に、周囲は圧倒されていた。
新郎新婦を圧倒し、ゲストを圧倒し、スタッフを圧倒し、所属事務所の上司、先輩、同期、後輩を圧倒し、自分自身を圧倒する、そんなスローガンを掲げた私をみんなが尊敬と羨望の眼差しで見ていた。
受けるオーディションはすべて受かった。そのオーディション会場に一歩足を踏み入れた瞬間に、会場責任者が私をひと目見て、書類に丸を付けるのがはっきり見えた。そして一言喋った途端に、担当者全員が書類に丸を付けるのがもっとはっきり見えた。
私は鼻高々で闊歩した。他の司会事務所から引き抜きの声もかかった。私はもっとのぼせ上った。
そう、中学生の時に通りすがりの人が
「お姉さん綺麗だね」
と囁いた声に高揚した時や、モデル時代にカメラ小僧が私に群がった時に興奮したように。
婚礼司会の仕事は宣材用の写真や動画を撮影する事が多いが、この時にもモデル経験が活きた。
撮影が済むとすぐに「素に戻る」人が多い中、私だけはシャッターが下りても、
「はい、お疲れ」
と声がかかっても笑顔を崩さず、そこもスタッフに褒められた。
スタッフに対する態度がそのままお客さんにも出る。私はスタッフ間で評判が良かった為、仕事は途切れず、お勧め司会者の欄に必ず載った。
そう、沖本旋風は止まらなかった。
もらったギャラはすぐに仕事用のスーツや化粧品に化けた。お洒落をして仕事に行くのが楽しくてたまらなかった。雑誌を見て最新のメイクを研究し、試してみるのがときめいてたまらなかった(ヘアメイクの仕事をした経験がここで活きた)。みんなに実力派だ、第一線で活躍していると褒められるのが誇らしくてたまらなかった。
実年齢よりずっと若く見られ、40代でありながら
「若くて綺麗な人と言えば沖本さん」
と言われるのが得意でたまらなかった。小さな子どもがいると言うとびっくりされ、
「子どもいるの?詐欺だよ」
とまで言われ、独身に見られるのが快感でたまらなかった。お客さんが喜ぶ事に焦点を当てて仕事が出来る事が嬉しくてたまらなかった。
どこの式場に行ってもスタッフに
「沖本さん待っていたよ」
と言われるのが幸せでたまらなかった。新郎新婦に
「緊張で真っ白でしたが、沖本さんの優しい声に救われました」
と手紙をもらった時も、有り難くてたまらなかった。
「カリスマ司会者」としてテレビ番組に出た事もあり、それ以降、会う人、会う人に
「テレビに出ていましたよねえ?見ましたよ」
と言われるのも鼻が高くてたまらなかった。
同じ「たまらない」でも良い方の「たまらない」が私の人生を覆い尽くしてくれた。
所属事務所の社長も贔屓にしてくれ(その社長が私にパワハラしたのだった)、先輩司会者の嫉妬に満ちた眼差しの中、トップを走る喜び、プロとして周囲に認められた興奮感、事務所の稼ぎ頭に躍り出た高揚感、それを維持する達成感、披露宴中のいかなるハプニングにも冷静に対処できる臨機応変さ、お客さんのどんな要望にも即答できる機転、大勢の中から自分だけが選ばれ、大きな仕事に何度も抜擢される誇らしさ、自分は出来るという自信に満ちたオーラを放ち、まるで台風の目の中にいるような引く手あまたの忙しさを味わいつくした後、落ちていくさびしさを味わった。
そして自分より若く、どんどん頭角を現していく後輩を嫉妬の目で見る羽目になり、選ばれない惨めさを思い知った。これも「与えられたものをそっくり与え、与えたものがまた与えられる」という事だったろう。
自分の努力の賜物だと、これこそが本来の姿だと、私の時代が来たんだと、感謝を忘れて思いあがっていた傲慢さを、神様は見逃さなかった。
栄光を失い、若さを失い、勢いを失い、自信を失い、悪い方の「たまらない」が私の仕事人生を覆うようになった。
そう言えばその事務所は「恐ろしい誓約書」を書かせる方針だった。
研修を無償でやってもらえる(他社は有償で中には50万円払わされる所もある)代わりに辞めさせてくれない。辞めるなら罰金を50万円払う、というもので、それを私だけは書いていなかった。
最初からその事務所に入った他のメンバーは全員書いていたが、他社(そこでは売れない時代が続き、移籍しようとしても出来なかった。少し進歩した時に出入りしていた式場関係者の口利きで移籍は叶った)から引き抜かれてその事務所(前事務所よりギャラ等の条件が良かった上に仕事も多かった)で活動するようになった私だけは何度も研修を受けたにも関わらず書いていなかった。
何の不手際か、今となっては有り難いが、お陰で1円の罰金も払わずに辞められた。
私は時々自分を物凄い強運と感じるが、これもそのひとつだった。
婚礼の仕事は訴訟沙汰になるケースも、その式場に出入り禁止になる事もあるが、私はそうなった事は一度もない。
また16歳の時に初めて付き合った寿司屋の息子が、何度振っても付きまとって来る人で本当に迷惑したが、光の園を退園後もアルバイト先を何度変わっても付きまとわれ、ヘアメイクになる為に美容専門学校へ行こうとした際にも、ここへ行こうと思うと友人に話した一言がその人の耳に入ったらしく、その学校にその人は「生徒として」通学した。
その学校は入学金が高かった為、直前に別の美容専門学校に変えたのだがそれが大正解だった。でなければその人と同級生として毎日顔を合わせ、アパートの場所も知られてしまった所だった。
その人以外にも元交際相手や、時にはまったく知らない人につきまとわれた経験はあったが、殺される事も傷つけられる事もなく逃げられたし、不倫相手の妻に追われた事もあったが無傷で済んだ。
交通事故に遭った際も軽症で済んだし(ここは桜井正一さんが代わってくれたのだろう)、アパートのガラスを割られた時も、ちょうど不在で恐ろしい思いをしなくて済んだ。
男性に街中に置き去りにされた時も、歩いて駅まで行ける所に置き去りにしてくれたので良かった。これが山の中だったら(ここはマユミが代わってくれたのだろう)命に関わる所だったが、そうでなく助かった。見知らぬ土地でもなく、北海道や沖縄等の遠方でもなく、銀座という勝手のよく分かる場所だったし、夜中ではなく夕方だったので電車も動いていたし、何のダメージもなく、大きな厄が落ちたと本当に「喜び勇んで」帰った。
また、光の園にいた時につくづく感じたのだが、私は地方出身者の割に訛りがない。これは父と母が、家の中で常に標準語で話をしてくれたお陰だ。転勤族である事をふまえ、どこに行っても通用するようにする為だった。細かいイントネーションはかすかに福岡訛り、大阪訛りがあるが(小学生の時、いじめられたものだ)、そう酷い訛りではない。これは司会業をする上でも役立った。
集団リンチされても命は助かったし、顔や体に傷も付けられなかった。
良いタイミングで退園も出来たし、ひとり暮らしも何とかやって来られた。
詐欺にも通り魔にも押し売りにも押し買いにも遭わず、タレント活動出来た時代もあったし、美容師として輝いた時代もあったし、販売員として全国一位になった事もあったし、短期間と言えども銀座の高級クラブでナンバーワンにもなれたし、31歳で正社員就職出来たし、婚礼司会という誰にでも出来る訳ではない専門職を35歳でスタート出来たし、曲がりなりにも20年くらい続けられたし、売れた時代もあったし、40歳にして恋愛結婚も出来、42歳で自然妊娠、出産も出来た。
夫は今時珍しいくらい好青年だし、仕事熱心でありながらも家庭を顧みてくれるし、息子も保育園にスムーズに入れ(入れない人も多い)、良い先生や友達に恵まれた。
そう、いつもぎりぎり間に合って来たし、助かって来たし、良い縁がつながった。
何か、おおきなものに守られていたような気がする。
私が辞めた後、そのパワハラ事務所は第二第三の沖本を出さない為に、という名目で「もっと恐ろしい誓約書」を残りのメンバーに書かせた。
それは、辞めるなら罰金を500万円、借金しても払う、この誓約書は法的に有効と書いたものだった。
私はそれも免れた訳だ。無理矢理サインさせられたメンバーたちは「沖本はいちばん良いタイミングでこの事務所へ入り、いちばん良いタイミングで辞めていった」と思ったろう。
更にその事務所は「45歳定年」を打ち立てた。45歳以上の所属司会者は、急に仕事が来なくなり、問い合わせると
「あなたは年だから、もう仕事はない」
という一言で切られ、長年尽くしてきたのにと、もっと悔しい思いをした。
私は50代前半まで居られ、自分から辞められた。これも運が良かった。
その社長は自分の部下を、それこそ所有物のように思っていたから、そんな仕打ちが出来たのだろう。
婚礼司会の事務所を落ち続けた後、葬儀の司会とアテンドの仕事をした。
55歳にして新しい仕事、殊に専門職を始めると言うのは奇跡だ。
最初は「一軍から二軍に落ちた」ような気がして嫌だった。いくら婚礼の仕事をしたくても、雇ってくれる会社がなければ出来ない、と悔し涙を滝のように流し、円形脱毛症(ユキオ君の気持ちが骨身に堪えて分かった)になるほど悩んだ。
だがある時、それは自分の思い上がりだったという気付きが生まれた。
あのまま婚礼にしがみついていたら、出口の見えないトンネルの中にいる状態が続いただろう。
しかし私は「婚礼」というより「司会業」そのものにこだわるなら葬儀もありだと考えを変えてみた。
そして、その決断は正解だった。
婚礼の仕事はただでさえ、年々少なくなっていた。少子高齢化、という事もさながら、結婚しても挙式披露宴を行わない夫婦が多いからだ。
だが葬儀の仕事はふんだんにあった。家族が死んで通夜・告別式を行わない人は滅多にいないからだ。
婚礼時代は、家庭を犠牲にする事も多かった。発声練習や活舌、リハーサルに時間をふんだんに使い、平日をまるまるその週末の本番の為だけに捧げるような生活の仕方だったし、私だけ帰省出来なかったり、家族旅行へ行けなかったり、息子の学校行事や運動会も行けない事の方が多かったし、用事があり休ませてくれと頼んでも休ませてもらえなかったり、パワハラもあった。
葬儀はそれがない。家庭をたいせつにしたいという私の思いを叶えてくれる。休みももらえるし、パワハラもない。
故人を縁として、多くの人が集まり、その死を悼む。精一杯弔い、皆が故人を思って泣き、精一杯見送る。
ある意味故人は「ものすごく幸せ」と言える。
そう、無縁仏の場合、病院等から真っすぐ火葬場へ行く事になるのだから。誰からも悲しんでもらえずに。末期癌で天涯孤独だった迫川勲さんも、きっとそうだったろう。
なかなか尊い仕事だと気付いた時に、私は葬儀の仕事を有り難く受け入れられるようになった。
自分は一軍から超一軍へ上がったのだ。この仕事を一生懸命やっていこう。神様がその為に婚礼の会社を全部「落としてくれた」のだから。落としてくれて有難う。おかげで今があるとさえ思えた。
きっと最初から葬儀の仕事をしていたら、やはり婚礼をやってみたかったと思っただろう。神様はそうならないように、少しでも若いうちに華やかな婚礼の仕事をさせ、良い時代を経験させてくれた上で、年齢を重ねた私を葬儀にシフトさせてくれた。
だが不満がないと言えば嘘だった。電車の中で結婚式の帰りと思われる(お洒落をして結婚式場の名前が書いた引き出物の手提げを持っている)人を見たり、あちこちの結婚式場の広告を見ると、何ともさびしい気持ちになった。
そんな時、ピアノ教室を営む友人が手を差し伸べてくれた。
「発表会を行うから、あなたに司会をして欲しい」
彼女はそう言って笑ってくれた。
ああ、私を必要としてくれる人がまた現れてくれたのだ。私は迷わず、彼女の手を握った。
頭の中で、別のゴングが鳴った。幸せなゴングだった。教会の鐘だったかも知れない。
私は一心に発表会の準備をした。毎日、発声練習や活舌は勿論、何度も何度もリハーサルを行なった。何度リハーサルしてもまだ足りない気がした。
そして迎えた本番当日、口から心臓が出そうな緊張感に包まれていた。
私以上に緊張している子どもたち(その発表会に出演し、ピアノ演奏する生徒たち)を励まし、いたわりながら、慎重に仕事を進めた。
そして本当に幸せな、夢のような時間に包まれた。当日いちばん嬉しかったのは、私だったかも知れない。
そして主催者がどんなに長い時間をかけ、どんなに大変な思いをしてひとつの発表会を作り上げるのかを目の当たりにした。
私はずっと司会者の立場でしかものを見ていなかった気がするし、考えていなかったように思う。
主催者は自分の教室を、発表会を、こんなにたいせつに思っているんだ。新郎新婦もきっとそうだったろう。
発表会が終わった後、友人は本当に喜んでくれた。来年も再来年も是非やって欲しいと言ってくれた。
彼女以上に嬉しかったのは私だった。久しぶりに明るい気持ちで好きな司会が出来、達成感と幸福感で満たされていた。
その時に思い出した事だが、私はずっと目の前にある課題に誠意を持って取り組んでいたら、自然に次のステージが降りてくる人生だったのだ。有り難いと思いそこに進むと、また次のステージが自然に降りてきた。それは何度も続いた。
向かない仕事を嫌々こなしていた時は、早くそのステージから降りなさいと、神様は色々なサインを出してくれた。例えば首になったり、自分から辞めざるを得ない状況になったり、円形脱毛症になったり、ぎっくり腰になったり。
思わぬ道に進む事もあるが、それが天職という可能性もある。今回もそうなるのでは?と良い予感があった。
葬儀の会社に辞めさせて欲しいと願い出た私に、そこの社長は(この人は決して私をいじめなかった)残念だと言ってくれたが、もう一度本当に好きな仕事にトライしたい言う私の思いを汲んでくれた。
葬儀も辞めずに新しい仕事を探したら?と友人は言ってくれたが、私はいったん今持っているものを手放せば、必ず神様が新しい事務所に会わせてくれると信じた。
好きな事を職業に出来るほど幸せな事はない。
もう一度、もう一度…。
私は祈った。
だが、やはりパーティーやセミナー、様々な発表会の司会をする事務所も56歳の私を雇ってはくれなかった。
私はそこでまた視点を切り替えた。「司会業」に固執するのではなく、「仕事をする事」そのものにこだわってみよう。
派遣会社に登録したと言った時、息子が「物凄く嬉しい事」を言ってくれた。
「母さんはベテランなんだから、司会やればいいじゃないか。どうして派遣の仕事やるんだよ」
ああ、息子なりに私を応援してくれていたんだと本当に嬉しかった。夫も同じ事を言ってくれた。
だが司会事務所はもう当たり尽くし、これ以上どこに面接に行けばいいのか?という状態だった。
その言葉だけでじゅうぶん報われた気がした。…と言うか、その言葉こそ私が求めていた、「いちばん言われたかった最高の誉め言葉」だった。
成功の反対は失敗ではなく、何もしない事だ。私は決して何もせずに夢を手放した訳ではなかった。
だからもう闘わなくていいと納得し、電話オペレーターや工場での単純作業をアルバイト的に経験したのだが、この時ヤスエが昔こんな事を言っていたのを思い出した。
「一日中、電話しているのは本当に疲れるし、工場勤務も気が狂いそうになる」
その言葉の真意が、やってみて初めて分かった。
確かに一日中、電話も工場での作業も大変で気が狂いそうになった。若い身で続け、まして家族を養っていたヤスエは凄いと思った。
私には無理で早々に辞めた。夫が私を気遣い言ってくれた。
「どうしてそんなに働きたいの?専業主婦でいいよ」
私は社会とつながっていたかった。だから仕事がしたかったのだ。
だが、還暦に近い私にはもう選べる仕事も少ない。選ばなければあるかも知れないが、屋外の仕事は日焼けするから嫌、力仕事は非力だから無理。営業はノルマがきついから嫌、事務はパソコンに疎いから無理、スーパーのレジ打ちは金額が合わなかったら弁償させられそうだから嫌、コンビニは強盗に遭いそうで怖いから嫌、掃除婦も嫌、介護職も嫌、あれ嫌、これ嫌、という我がままな私にはなかった(母も我がままだったが、私も本当に我がままだ)。
そう言えば若い頃、年配の人がこんな事を言っているのを聞いた。
「年は取りたくないねえ。目に来て、歯に来て、耳に来て、頭に来て」
その時は意味が分からなかったが、今なら物凄くよく分かる。
本当に年は取りたくない。目は老眼になり眼鏡かコンタクトレンズがないとよく見えず、歯は黄色くなるし歯周病になり歯茎は痩せていくし、耳は高い音が聞きづらくなって聞き返す事が多くなり、物覚えも確実に悪くなるし、言われた事をすぐに忘れてしまう。
これで仮に婚礼司会の仕事をしたとしても、何か訴訟沙汰でも起こしそうで怖い。
「ついこの前、成人式だった」
と言っていたのも分かる。
私もそうだ。ついこの前16歳だったのに…。
おまけに腰は痛い、足もすぐ疲れる、更年期障害のひとつなのか、異常に喉が乾き多飲にならざるを得ず、それに伴い頻尿になりトイレばかり通う(ホットフラッシュや幻覚よりはいいが)。偏頭痛も酷いし(桜井正一さんが偏頭痛で何も出来なかった気持ちが分かるようになった)、体力も確実に衰えている。
みどりの黒髪と言われた髪にも白髪が目立ち、頻繁に染めずにいられない(ただ円形脱毛した頭皮の髪がまた生えてきてくれて、それは物凄く嬉しい)。
毎年健康診断を受けるたびに少しずつ身長が縮んでいくのも恐ろしい。168センチあったのに、162センチになってしまった。朝だって昔はアラームを即座に止めて起きられたが、今はすぐに起きられない。だらだら二度寝、三度寝してしまう。
つくづく若さと言うのは神様が与えてくれた一過性のご褒美なのだと思い知る。
仕事を探す気力を「年齢」に奪われた。
更に恐ろしい事に、後もうたったの8年(沖本争奪戦とまったく同じ期間。つまりあっという間)で「年金がもらえる年」になってしまう。せめて保険料をしっかりおさめていて良かった。
幸い家庭は私を必要としてくれる。すべき仕事というか、家事がある。要介護状態の父もいる。専業主婦も決して暇ではない。
神様は私から仕事を取り上げた。
家庭は与え続けていてくれたが。
はて?ここから何を学べばいいのか?
そして、その答えが、
ドカン!と、やって来た。
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