第28話

 私は常々、あらゆる事はプラスマイナスゼロで釣り合いが取れていると思っている。もうひとつ、強く願った事は必ず叶うという事も。

 幼少期に強く願った事を、神様は今、叶えてくれている。優しく穏やかな人と静かに暮らしたい、という願いを。

 そう、父と母は猛り狂うような日常と修羅場を姉と私に与えた。私は静かに暮らしたかったのに。

 夫は仕事が多忙であまり旅行等は行けないが、毎日の生活の中で小さなプレゼントをしてくれる。

 それは「有難う」という言葉だったり、いたわってくれたり、嫌な顔ひとつせずに家事や育児を手伝ってくれる事だ。

 息子が小さい頃、絵本の読み聞かせをしてくれた。決してうまくはないが、愛情のこもった読み聞かせだった。また、おむつ替えやミルクも頼まなくてもやってくれた。

 何より、私の仕事がうまくいっている時も、うまくいかず悩んでいる時も、何も言わずに支えてくれた。私が自力で乗り越えるのを黙って見守り、待ってくれた。

 父と母は、不要な物は買い与えてくれたし(ランドセル等必要な物は買ってくれなかったが)、旅行もたくさん連れて行ってくれたが、肝心の愛情がまったくなかった。まだ小学生(つまり義務教育)の私に、誰のお陰で学校に行けるかと恩着せがましく言い続けた。

 夫は特に物は買わないし旅行も何年かに一度だが、日々愛情を持って私や息子に接してくれ、気持ち良く養ってくれる。誰のお陰で生活出来るかなど、一度も言われた事はないし、喧嘩らしい喧嘩もした事はない。私が本当に望んでいたのはそれだった。

 また、父母は私が幼い頃から家事をさせ、幼稚園の上履きも必ず自分で洗えと命じた。手も荒れたし面倒で嫌だったが、お陰で自立心が付いたし、何より自分の撒いた種は自分で刈り取れる心構えもついた。

 そして父母は、親は子を養ってやっているのだから子は親の言う事を聞き、100%従って当たり前、と言い続けたが、私はそうは思わない。

 子は親の言う事を聞かなくて当たり前だ。まったく別人格なのだから。考え方も価値観も違って当然だ。だからこそアイデアを出して選択をさせる。

 父母はそれこそ今さえしのげれば、私さえいなくなれば、という考えから私を施設に監禁したが、長い目で見れば絶対にそんな事は出来なかった筈。

「今さえしのげれば」ではなく、「どうして欲しいか」聞くべきだった。

 だからこそ私は家族に希望を聞く。


 私は親が子どもを可愛いと思う理由が分かる。それは、我が子が自分の好きな人に似ているからだ。

 そして親が我が子を虐待する理由も分かる。それは、自分の嫌いな人(夫や妻)に似ているからだ。

 だから父と母は「父にそっくりで、母にそっくりな私」が憎かったのだろう。

 虐待により幼い子どもが命を落としたと聞くと心が痛む。つらかったろうと、その子の魂に手を合わせる。

 だがその子の使命は「親の体罰を禁じる法案」を国会で成立させる事だったのだろうかとも思う。


 そう言えば独身の時、友達がどんどん結婚していくのを見てこう思った。

「どうして私にはそういう幸せが来ないんだろう」

 離れていく友達が増えるほどに、さびしかった。

 母に自分を低く見ろ、安売りしろと言われ続けた身、不倫相手に不実な事をされてもこう思った。

「愛人なんて立場に立っている私はこんな目に遭って当然だ」

 街で小さな子を見てこう思った。

「子どもを生むなんて、私には許されない事なのかな。散々悪い事をしたのだから」

 家族連れを見ても同じ事を思った。

「陽だまりみたいだな。私は決してそこに入っていけないのかな」

 何となく、自分には普通の幸せは来ないような気がしていた。

 ただこうも思った。

「私が結婚するのにふさわしい人になれば、神様はいちばん良い人に会わせてくれるかな」

 そしてその予感は当たった。


「取引先の会社の人が来るから駅まで迎えに行って」

 上司に告げられた私は、言われるままに駅に向かった。


 改札前に横向きで佇む彼を見た瞬間、私は「ああ、この人だ」と思った。まったくの初対面で、言葉も交わさず、ただ姿を見ただけだったのにもかかわらず。


 彼のもとに歩いていくその何秒間の間、周囲の音が消えた。

 音のない世界を私はゆっくり進んだ。

 見える映像はスローモーションになった。


 私はこの人と結婚するために、今までの恋人とうまくいかなかったのだ。

 私はこの人と望んだ以上の幸せな結婚生活を送り、この人にそっくりな男の子を生み、この人の両親とも仲良くやっていける。

 待ち焦がれた人生が今、幕を開けたんだと確信した。

 そして彼の前に立ち、笑顔を交わし合った時、音が戻ってきた。これも、不思議だった。

 私はこの時の事を生涯忘れないだろう。

 人は死ぬ前に、自分の人生を走馬灯のように思い出すというが、私はこの映像を間違いなく見るのだろう。


 私はみんなに祝福されて結婚した。

 人は結婚するから幸せになるのではない。その人と一緒にいて幸せだから結婚するのだ。

 良い結婚はこの世の天国、そして結婚式は夢の舞台だと心底実感した。

 出来ればもう少し若い時に花嫁衣裳を纏いたかったが、それでは相手が夫ではなかったろうから、ここまでの幸せや感動を実感できなかったろう。

 私は夫でなければ絶対に結婚しなかった。

 だから40歳のその時が最高の適齢期だった。


 新婚の頃、会社から帰宅する際に心が弾んだ。

「ああ幸せだ。待っていてくれる人がいるから」

 誰も待っていないアパートにひとりで帰る虚しさを、何年も経験したお陰だった。


 妊娠していると分かった時にこう思った。

「ああ幸せだ。育児が出来るようになったと神様が言ってくれているんだ」


 子どもを生んだ時にこう思った。

「ああ幸せだ。赤ちゃんを生ませてもらえた」

 面倒を見ているという感覚はない。

「育てさせてもらっている」という感覚はあるが。

 息子は我ままな私に色々な事を教えてくれる「先生」だ。神様が最高の先生をつかわしてくれた。


 私は色々な仕事を経験させてもらったが、育児以上に勉強になる仕事はない気がする。

 そう、子どもは育てた通りに育つのだから。

 私は息子に生まれた時から言い続けている。

「パパみたいな人になって。パパ素敵でしょう?パパそっくりになって」


 母は父の悪口を散々言った後、必ずこう言った。

「あんたは父さんそっくり!」

 父は何度も言った。

「お前さえいなければ」


 私は息子に繰り返して言う。

「生まれてきてくれて有難う。パパとママを選んでくれて有難う。君がいてくれて嬉しい」

 幼かった息子は笑顔でこう言ってくれた。

「僕が輪の真ん中に居て、たくさんのパパとママがぐるっと囲んでいたの。それでこのパパとママが良いって選んだんだよ」

 有難う、有難う、私と彼を選んでくれて、本当に有難う。


 母は私に何度も言った。

「あたしの人生の最大の失敗は、父さんと結婚した事と、父さんそっくりのあんたを生んだ事よ」

 私の人生の最良の出来事は、夫に出会えた事だ。おかげで夫の両親にも息子にも、ママ友達にも幼稚園や学校の先生にも会えた。

 そして私はこの生活が尊いから、純粋に、好きだから、たいせつだから、有り難いから、大事にするのだ。母は家族を粗末にし続けたが。


 息子が保育園に通っている時にこんな事を言われた。

「ママ、僕を好き?」

 きっと私が忙しくて苛立っているのを敏感に感じたのだろう。慌てて言った。

「好きだよ、大好きだよ」

 ほっとした顔をした息子が更にこう聞いた。

「ママはどうして僕を生んだの?」

 自信を持って即答した。

「ママはね、パパが大好きで、パパの子どもを是非生みたいって思ったの。パパの子どもを生まないなんてそんな勿体ない事は出来ないって思ったの」

 息子が嬉しそうに笑ってくれた。

 私もそう言われたかった。


 その頃息子はよくこう言ってくれた。

「僕、ママだあい好き!パパもだあい好き!」

 私は笑顔で答えた。

「有難う、ママも、パパと君が大好きだよ」

そう答えながら、かつて母にこう言われ、責め立てられて事を思い出す。

「父さんと母さんどっちが好き?」

 母はそう言って私が幽体離脱するまで追い詰めた。


 また息子はこうも言ってくれた。

「僕、大きくなったらママと結婚する」

「有難う、結婚しようね」

 私もかつて父にプロポーズをした。

 良いものも、悪いものも、必ず返って来る。

 なんて有り難いんだろう。


「もうねんねしよう」

そう言った私に息子が言った。

「ママ抱っこ」

 家事や仕事の準備で忙しく、ちらりと苛立ったがそれでも私はしゃがみこみ、息子をぎゅうっと抱きしめる。息子の満ち足りた顔が嬉しかった。

 私も幼い頃、母にそうして欲しかった。

 母は私を布団に向かって突き飛ばし、襖を閉め、開けられないように力づくで押さえていた。私の満たされない心は母に届かなかった。たまらなくさびしかった。

 だからこそ、私は息子を満たしたい。


 小さかった息子を連れて買い物に行ったり、歯医者に行ったり、そんな時にお店や病院の人が息子にこんな事を言う事が多かった。

「君のお母さん美人だねえ」

「こんな綺麗なお母さん、いないよ」

 それは私が幼い頃、母と共に出掛けた時によく言われた言葉だ。まったく同じ言葉を、世代がひとつ降りて再び聞くようになったのだ。勿論嬉しいし、鼻も高い。息子もにこにこしている。

 だがある時、家事と仕事で忙しくて苛立った私に息子がこう言った。

「僕にとってママが綺麗かどうか、どっちでも良いんだ。そりゃ汚いより綺麗な方が良いけど、それより僕に優しいか優しくないか、そっちの方が大事なんだ」

 ああ君は私より余程弁が立つねえ。私も小さい頃まったく同じ事をおばあちゃんに対して思っていたけど、うまく言葉にならなくて伝えられなかったんだよ。私の代わりに言ってくれて有難うねえ。


 息子について、不思議に思う事がある。

 それは良くも悪くも私に似ている事だ。親子とはこんなに似るのかと驚く。

 パッと見た感じは夫似だが、目、鼻、口、耳、と言ったパーツは私にそっくりだ。歯並びが悪く、下の歯が前に出ていて上の歯が後ろになっている。頭のつむじも二つある。そんな所まで似てしまった。おまけに私と同じ遠視で、右目の視力は良いが左が極端に悪い。

 父と母は私の目も歯も矯正しなかったが、私は長い将来を考え、小さいうちに矯正する方が良いと躊躇なく矯正を行なった。

 矯正歯科に行き、歯にワイヤーをかけ、眼科に行き、低視力の良い方の目にアイパッチという大きな絆創膏のようなものを貼って塞ぎ、強制的に左目を使って視力を上げるという方法を取った。

 毎朝ノルマのように息子の右目にアイパッチを貼り続けた。

「これ貼ってると、よく見えないからつまんない」

と息子は言ったが、私は剥がさなかった。お陰で左目の視力は随分上がったし、歯並びも綺麗になり、上の歯が前になった。お金も手間もかかったが、やって良かったと思っている。

 また息子は乗り物酔いが酷く、電車で出かけてもひと駅ずつ降りて酔いを癒し、それからでないと乗れない。車はもっと酔う。

 だが私も酔う子どもだった。父は理解してくれず

「そんなに酔うならお前を遊びに連れて行かない。遊びに連れて行って欲しければ酔うな」

と無理難題を言ったが、私は酔う息子を理解出来るし、全然嫌ではない。何時間でも待てるし、落ち着いていられる。

 そうしながらふと、父母が私にすべきだった事を、私がこの子にする。それが私の使命のひとつであり、この子の生まれた意味のひとつなのかも知れないと感じた。

 もうひとつ、母は私を宿した時にお腹の子は男の子だという予知夢を見たという。それは本来息子だったのだろう。

 だが神様が、母に息子を育てさせる訳にいかないと判断し、私と息子を急遽入れ替えたのかも知れない。いずれにせよ有り難い話だ。お陰で私は息子に会え、育てさせてもらえる事になったから。

 息子は父の色盲が隔世遺伝してしまい、色弱である。それさえ有り難い。色盲までいかず良かった。色は私が教えよう。この焼き肉は火が通っているよ、それはまだだよ、と。

 神様、息子の目を見える状態にしてくれた上で生まれさせてくれて有難うございました。


 もし神様が好きな時に戻してあげると言ってくれても、私はこのままでいいと答えるだろう。

 例え今の記憶を持ったまま20歳の時に戻してくれても、15歳の時に戻してくれても、3歳の時に戻してくれても、結果は同じという気がする。

 何故こんなにつらい事ばかりと思った事もあったが、すべて意味があった。

 あの経験があるから今がある。

 あの人に会ったからこそ、こんな学びを得た。

 あの仕事をしたからこそ、この仕事が有り難くてならない。

 あの職場で働いたからこそ、今なお付き合える友達が出来た。

 決して回り道をした訳でなく、必要だからその道を通った。だから、このままでいい。私はなんて恵まれているんだろうと嬉しくてたまらない。

 私はこの人生を選んで生まれ、たいせつに生きている。


 そう言えば、実家の片付けをしていて大量の写真が出てきた。母方の祖母の結婚式の写真や父の赤ん坊だった頃の写真まで出てきた。当然の事ながら、父にも赤ちゃんの時代があったのだ。

 そして、母の少女時代の写真を見た時に、あまりに姉の少女時代と生きうつしで驚いた。親子はここまで似るのかと、良くも悪くも見とれた。

 そして今の姉は、私を罵倒していた頃の母にそっくりだ。

 また、祖母をいじめた祖母の妹の写真もあった。私はその人に会った事はないが、ひと目でこの人が祖母をいじめた人だとはっきり分かってしまった。


 最近、夫現病(ふげんびょう)という言葉があるが、私は父現病(ちちげんびょう)と姉現病(あねげんびょう)を患っている。二人の事を思うと胃が痛む。父はいつまでたっても大人げないし同じ事ばかり言うし、姉は姉で私を責めてばかりいる。

 施設で父にプリンを食べさせている時(自分では食べられない為)、少しでもこぼそうものなら

「こぼれているじゃない!」

と姉は声を荒げる。今拭こうと思っていたのに…。

 父の親指の爪が巻き爪になっているのを見て

「どうして気が付かないんですか?私が気付かなきゃ誰も気づかないんだから」

といきり立ち、私を延々と責めた。

「あなたの方が家がここから近いし、もっと来て下さいね。家が近いんだから」

と何度も言う。確かに父のいる施設から、姉の家は遠い。だが父が倒れた当初

「私の方が家が近いから」

と言って、私は頻繁に父の所へ通ったし、大量の洗濯物も持ち帰って洗い、次に見舞いに来る時に持参し、またたまっている洗濯物を、文句ひとつ言わずに引き受けた。

 つまりそれは私が自分から言う言葉であって、姉が言う言葉ではない。

 姉は「自分だけが正しい」という態度を崩さない。いつも私を責め、間違いを指摘し、改めるよう要求し、馬鹿にし続けている。誠に疲れる。子どもの頃からそうだが。

 私は姉に決して

「長女だから、あなたは親に学費をたくさん出してもらったから、あなたも親不幸したから、あなたは私ほど虐待されていないから」

などと決して言わないのに。


 姉現病はまだある。ある時、息子について

「どんな大学行くのかな。どんな仕事するのかな」

と言った私に姉はこう言った。

「そんな良い所に行ける訳ないでしょう」

 何故そんな事を言うのだろう、と不思議に思い

「先の事は分からないじゃない、どうしてそんな事言うの?」

と聞いた所、こんな答えが返って来て絶句した。

「じゃあご自分は、どこの学校出ました?」

 …それはそうだが、我が子の将来を楽しみにしない親はいない。相変わらず意地が悪いな。母と同様こちらのいちばん痛がる所を上手に突いてくる。常に私の上に立ちたがり、マウントを取ろうとしている。

 国立大学を出たこの人はこういう目に遭わないのだろう。私も親に迷惑をかけた娘だが、姉も私に負けないくらい暴言を吐き、迷惑をかけ、金をかけさせた娘だ。


 ましてや今年の母の命日に息子と3人で会った際

「あなたのお母さんは小さい頃から嘘つきでね。まことしやかに嘘つくのよ」

とせせら笑いながら言った。

 確かに私は嘘つきな子どもだったが、それは父母の体罰や罵詈雑言、追い出しや否定を免れる為、つまり自分を守る為に仕方なくそうしていたのだ。

「そんな事を聞いたら、この子は私がこれから言う事も全部嘘だと思うでしょう」

と反論した所、まるで囃し立てるように

「難しーい」

と言った。何て酷い事を言うんだろう。失言する方は悪くなく、それに苦情を言う方が悪く難しいなんて…。母そっくりな、この姉こそ目に見えぬカタワ者だと思った。  

 姉は自分が高校生の時、教師と恋愛沙汰を起こし、親に下手な嘘をついていた事も、小学生の時にスカートで昼寝をして陰部を父に見られ悔しがっていた事も忘れている。私がそれを一言も言わないのをいい事に。

 また、父に関する事を話した時だけはまともな返事が返ってくるが、仕事の悩みを話した時、姉は必ず黙り込み、返事をしなくなる。

 何故そう言う対応なのかと聞いた所、こんな答えが返って来た。

「そういう事は、何年も疎遠だった私ではなく、ご家族に相談したらいかがですか?父の事を念頭にしましょう」

 …これも絶句した。

 それ以降、私は息子の事も、仕事の事も、姉の前で一切口にしなくなった。

 そう、言ってもどうせ黙ってしまうか絶句させられるかどちらかだから。私は家族であって、家族でないという事か。

 私は母にも何度も絶句させられたが、姉にも絶句させられる。

 鉛筆の芯で刺されないだけましと言う所か。

 それとも「許すお稽古」なのか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る