第27話
さらに借金を完済した時に感じた達成感は、並大抵のものではなかった。自分の撒いた種を自分で刈り取る事が出来たのだ。
はげたおじさんひとりを騙せば済む話なのに、という友人もいたが、それではあの物凄い達成感はなかったろう。
変な例えだが、自分の前をずっと覆っていた雲が一気に晴れ、爽やかなお花畑に舞い降りたような感じだった。
ああ、良かった。もう借金の為に働かなくていい。欲しいものはおろか、必要なものさえ買えなかった時代は終わったんだ。これからはきちんと考えてお金を使おう。金銭管理能力を今度こそ身につけようと思えた。
そしてこんな風に思った。
ああ私は今いちばん幸せだ。貯金もゼロだけど、借金もゼロだ。
そして、こうも思った。
ああ幸せだ。今、私を可愛がってくれる恋人もいないけど、いじめる恋人もいない。
ああ幸せだ。良い友達もいなくなったけど、私を騙そうとする悪い友達もいなくなった。
そう、悪い方でなく、良い方を見れば、幸せは山のようにあった。
そして借金がなくなったお陰で生活にゆとりが生まれ、友達との外食や旅行も楽しめるようになった。
何より、良い友達がたくさん寄ってくるようになった。
私はきっと悪い友達や悪い出来事を自ら引き寄せていたのだろう。私自身が悪かった時、変な友達や男や出来事がどんどん寄って来たし、借金は借金を呼んだ。
そして私はもう二度と馬鹿な事をしない、と決断して以降、良い友達や良い出来事がどんどん寄って来てくれたし、貯金は貯金を呼ぶようになった。
歳月が私を強くしてくれた。出来なかった反論や説明を出来るようにしてくれた。そのせいで母は命を落としたが。
もうひとつ、感謝も出来るようになった。何か良い事があるから感謝するというよりも、何もなくても、悪い事が起きても、それでも私はこの程度で済んで良かったと感謝して生きる。
毎日寝る前に、今日の奇跡は、家事がスムーズに済んだ事、家族がきちんと帰って来てくれた事、ストレッチやウォーキングが出来た事。道で友達に会えた事、茶碗を割ったが怪我をしなかった事、宝くじで一万円も当たった事等思い起こし、微笑んで眠る。
そして目覚めた時はこう思う。「さあ、今日はどんな楽しい事があるのかな?」
いつしかこういう考え方が身に付いた。
信号や電車の乗り継ぎがスムーズであれば良かったと喜ぶ。
スムーズでなくても時間に余裕を持って外出したから大丈夫だと喜ぶ。
時間に余裕がなければ、どうすれば一刻も早く到着するか知恵を絞り、そんな自分を喜ぶ。
狭い道で行き交う人が譲ってくれたら、勿論早く進めるから喜ぶ。
自分が譲ってあげられたら余裕があるという事だ、と喜ぶ。なるべく譲るようにしている。
電車で座れれば勿論有り難い。だが人に席を譲れるのも、健康という事だから有り難い話だ。私はいつも座れた時に、誰に席を譲ろうかと辺りを見回し、座りたそうな人と目が合うとにっこり笑い、すっと席を立って車両を移るようにしている。
鼻血を出した子どもや人を見たら、さっとポケットティッシュを渡す。そういう時も、恩着せがましい顔をせぬよう車両を移る。
意地の悪い人がいたら、この人は不幸なんだろうと思いを馳せ、私は幸せだからこそ人に優しく出来ると喜ぶ。
外食や買い物をする時、新人らしい店員がもたついていても
「ゆっくりどうぞ」
と言える。
相手が何かミスをしても「その行為」だけを注意し、さっとおさめられる。
若い店員がわざと手抜きをした対応をしても、やはり「その行為」だけを注意し
「自分の子だと思って言っているんだからね。お母さんだと思って聞いてね」
と救いのある言い方で早めに切り上げ、横で恐縮している上司らしき人に
「あなたはもうこれ以上注意しなくていいですよ。この人はじゅうぶん応えているだろうから。あと若いなりに、何か事情があるでしょうから、首にもしないで下さい」
と言える。
人に厳しかった自分が、寛大になれた事を喜ぶ。
もしも仕事を首になったら、切られるより切る方がつらいだろうと相手をいたわり、傷つかないように切ってくれて有難うと喜ぶ。
自分から辞めた場合は、首になった訳ではないから良かったと喜ぶ。
恋人に振られたら、振られるより振る方がつらいだろうと相手をいたわって、傷つかないように離れていってくれて有難うと喜ぶ。
自分から振った時は、振られた訳ではないから良かったと喜ぶ。
いずれにしても、その会社や男性と合わなかったりご縁がないという事は、他にご縁があるという事だし、合わないという事は、どこかに合う所があるという事だからそこを探せばいい話だと喜ぶ。
神様が新しい未来をプレゼントしてくれたと喜ぶ。
次はどんな会社や男性が私の前に現れてくれるのかなと楽しみに、喜ぶ(そうしたら本当に愛社精神を持てる会社に出会えたし、最高の夫に出会えた)。
何があってもなくても、良い所を見つけて喜ぶ。
喜んで喜んで喜びまくる。
更に喜ばしい事がやって来るから、また喜ぶ。
ますます幸せが満ちる。
小さな事でも良かった点を見つけて喜ぶ。
自分の幸せが世界平和につながると喜ぶ。
私の人生は幸せに満たされていると、心から喜ぶ。
不満を山のように抱えて生きていた私が、何があっても喜べるようになった。
人に会うとまず欠点に目が行ってしまっていた私が、まず美点に着目出来るようになった。
人の悪口ばかり言っていた私が、いつも誰かを褒めてばかりいられるようになった。
何て素敵な人生だろう。
私には、自分の運勢が音を立てて上がった瞬間というのがある。
それは「口角が上がった瞬間」だ。
鏡に向かい試してみれば分かるが、口角だけ上げようとしても上がらないし、1秒ともたない。だがこれを簡単かつ、永続的に上げる方法がひとつだけある。
それは目が微笑む事だ。目が微笑むと自然に口角は上がる。
では目が微笑む為にはいったい何をすれば良いか、これも簡単だ。それは「自分の周りにいる人の美点に注目する事」だ。
例えば、ああこの人は家族を大事にしている人だな、とか、この人は決して人の悪口を言わない人だ、とか、この人は人を傷つけないものの言い方を出来る人だ、とか、この人は神対応が出来る人だ、この人はパソコンに精通している、この人は誰かを叱る時はみんなに分からないように叱り、褒める時はみんなの前で褒める人だ、等々、人それぞれの良い所に注目すると、本人を前にした時に思わず尊敬の念が込み上げる。
必ず目は微笑み、口角は上がり、それが相手にも伝わり良い気持ちになってくれる上に、自分の運勢も音を立てて上がる。
ああ、何て幸せなんだろう。
箱入り娘という言葉がある。
多くの場合、たいせつに育てられた御令嬢の事をいうのだが、私の親は私を狭く暗く窮屈でつらい箱に閉じ込めた。そしてきちんと育てた、姉と同じように育てたと言い張った。姉に死んだものと思っていると言った事は一度もないのに…。
反論も説明も苦手だった私は、言葉で言えない分、行動で伝えようとしてしまった。それは全然違うよ、と。…誰にも理解されなかったが。
そう言えば、かつて交際した男性で最初にこう言ってくれた人がいた。
「君は箱に入れてたいせつに取っておきたいような綺麗な女の子だ」
その人も決して私をたいせつにしてくれず、心地良い箱に入れてもくれなかった。勘違いする人を相手にしてはならないという学びはもたらしてくれたが…。
ただ私は、結果的に自分で自分を心地良い箱に入れる事が出来たのだから良かった。
一昨年、私は大きな決断をした。それはずっと経過を診ていた子宮の病気を手術により完治する、という事だった。
子宮筋腫、内膜症、卵巣嚢腫、と豪華三本立てだった。筋腫は、赤ちゃんの頭くらいの大きさに成長し、尚且つ「塊」が見える。切除して検査をしてみないと良いものか悪いものか分からない、このまま「経過を診続ける」事は命の危険を伴っていた。
夫や息子と離れたくない。生きて二人の役に立ちたい。夫と添い遂げたい。息子の成長を見届け、幸せな大人になる姿を見たい。入院すれば一時的に迷惑をかけるが、長い目で見て行こうと思った。
そして結果的に、また大きな幸せを実感する事になれた。
手術をする、と夫と息子に告げた時、二人が動揺しない事にほっとした。
夫も、夫の両親も、地に足のついた対応をしてくれた。私も自分の事ながら、あまり、というか、全然動揺しなかった。
いちばん動揺したのは父だった。
「母さんと同じ病気なんて」
と何度も言った。
だが私は「それは違う」と思った。
母が私を、自分と同じ「子宮癌にさせない為に」わざわざ子宮を全摘出するようにしてくれるんだろうと嬉しく思ったし、私の子宮の病気に代わるものは何だったのかと考えると、痛み等の自覚症状もなく、日常生活に一切支障のない子宮の疾病は、むしろ幸運だと思えた。
神様は二人目の赤ちゃんは授けてくれなかったが、その代わりに子宮の病気を全部持ち去ってくれようとしているのだろう。体のあちこちに病気があるのではなく、子宮という場所に3つの病気が「集中してくれた」のも有り難い話だ。一気に治せるのだから。
母が逝ってちょうど10年という節目の年でもあり、まして命日月に手術と言う事にも不思議な縁を感じた。
もうひとつ、当日は大安吉日であった。婚礼の仕事をしている者ならではの価値観だろうが、手帳を見て大安と分かった瞬間に、この手術を機にあらゆる事が一気に好転するという確信が生まれた。根拠のない自信にみなぎっていた。
ああ嬉しい。早く手術したい。新しい自分になれる。
それに私は、きっと誰かの代わりに子宮を全摘するのだろう。だったら尚更良かった。
フサエか、マユミか、中井さんか、チヨミちゃんか、加山さんか、マチコか、誰か分からないが、誰かが子宮を取らなくて済むのだ。今まで散々代わってもらったのだから、今度は私が代わる番なのだろう。
ああ良かった、なんて恵まれているんだろう。なんて幸せなんだろう。ワクワクする心を抑えられないほど浮足立ってしまった。どこの世界に手術をこんなに楽しみにするやつがいるんだろうと、我ながらおかしかった。
一日に何度も下腹に手を当て、まだそこに存在してくれている子宮たちに話しかけた。
「子宮さん、卵巣さん、筋腫さん、今まで私と一緒にいてくれて有難う。私の為に働いてくれて有難う。お陰で良い子を生めました。お陰様で良い人生です」
と、御礼を言い続けた。
入院中、夫の両親が、手伝いに来てくれる事になり、有り難く受け入れた。申し訳ない気もしたが、ここは頼んでしまおうと思った。
そして入院までに、可能な限りの事をやろうと思った。ちょうど仕事がなく、良いタイミングと言う気もした。
神様が暇を与えてくれたと思い、家事を一心にこなした。万一(命を落とす)、という事もあるので、整理整頓をして、例え私がこの家に帰って来られなくても、家族が困らないようにと、家の中を整えた。
そして息子に家事を一通り教えた。食事の作り方、後片付けの仕方、ごみの出し方、部屋や風呂場やトイレの掃除の仕方、洗濯機の回し方、干し方、取り込み方、畳み方、しまい方、息子は毎日繰り返される家事に疲れ、大文句を言ったが、私は容赦しなかった。私が死んでも息子が困らないように。
もうひとつ、世の中に無駄な事はひとつもない。息子がいつかひとり暮らしをしたり、家庭を持った時には勿論、仕事をする上でも家事経験は役に立つ。「段取りが良くなる」のだから。
要領の悪い母に育てられた私は、若い頃は家事がどれもこれも苦手だったし下手だった。
だがいかにして時間と水道光熱費、手間や体力を節約するか、洗い物を少なくするか等々考えに考え、色々な情報を集め、工夫を凝らすようになった結果、まあまあ段取りは良くなったように思う。
弁当も彩り良く作れるようになったし、ひとつの食材を活かしきる、使い切る、おいしく食べられるよう愛情を込め続ける。
洗濯物ひとつ、どう干せば乾きやすいか、どう畳めばしまいやすいか、どう収納すれば探しやすいか、どう掃除すれば効率がいいか、ごみの出し方は、等々考え続け、ひとつのやり方に固執せず方法を変え続ける。
それを懸命に息子に伝授した。いつかきっと息子の役に立つ筈だ。私が居なくなっても。
そう、私は命を落とすかも知れない事を覚悟し、受け入れていた。母も一切闘病せず「病気を受け入れて」いた。
友達にも事情を話し、ランチした。もしかしてこれがこの人との最後のランチになるかも知れないと思いながら、笑顔で分かれた。
そして入院の半月前の事、「人生最後の生理」が来た(この半月前、というのも、物凄くナイスなタイミングだった。生理が済み、ちょうど一週間した所で、つまり出血していないきれいな状態で手術が受けられるのだから)。
それが凄かった。溢れかえるのではないかという程の量。もはやトイレから出られないくらいだった。
まるで子宮が意志を持ち「これが最後だ」と悟っているかのようだった。
その時に思い出したのだが、私は光の園で過ごした9カ月間、生理が止まっていたのだった。環境の激変に体がついていけなかったのだろうが、私と同じように生理が止まった女子入園者は何人もいた。誰も妊娠はしていなかった。
そして退園した翌月、まるでそれまでの生理がまとめて来たような凄まじい生理に見舞われたのだった。
その時も子宮が意志を持って「今まで止まっていた分だ」と言っているような気がした。なかなかトイレから出られなかったし、生理用品もいくらあっても足りなかった。
その後、ひとり暮らしを始めた時も生理は半年近く止まった。やはり環境が変わった事に体が反応したのだろう。
転職や引っ越しをするたびに、私の生理は止まった。だが同じ会社で働き続け、同じアパートに住み続けるようになったら生理も安定した。
何か、体が私に「安定してくれ」と訴えかけていたような気がする。
…人生最後の凄まじい生理に付き合いながら、私は下腹に手を当ててこう言った。
「今まで私の為に働いてくれて有難う。あなたはお役御免と分かっているんだね。本当にお疲れ様でした。有難う。有難う」
段々生理が終わりに近づくにつれ、不思議な安堵感に包まれた。
ああ閉経だ。有り難い話だ。つくづく、人の体というのはよく出来ていると感動した。
さあ、入院までもうあまり時間がない。気持ちを切り替え、私は家事に邁進した。
可能な限り料理の作り置きをして、冷蔵庫の中をタッパーで埋め尽くし、買い物をした。
布団を干し、部屋を掃除し、当日も早起きして洗濯物を残らず洗って干してから、病院へ向かった。家族の負担を少しでも軽減したかった。
そうしながら、母は祖母の看病に行く時にめそめそ泣いて悲劇のヒロインを気取るばかりで、家事は一切しなかった事を思い出していた。
入院の翌日、夫が忙しい仕事を休んで来てくれた。
何か、久しぶりに会ったような気がして嬉しく、手をつないで病院内を歩き、帰る彼の後ろ姿をいつまでも見送った。
手術当日の朝、腕につけていたパワーストーンのブレスレットが突然バラバラになった。
夫がこう言ってくれた。
「ママの身代わりになってくれたんだよ。良かったね」
ああこれで、全部うまくいくとますます嬉しくなる。
家族が、手術室の前まで一緒に来てくれた。いよいよ看護師に呼ばれる。
まずはお舅さんに言った。
「お父さん、行ってきますね」
そしてお姑さんに言った。
「お母さん、行ってきます」
そして夫と息子と握手をして言った。
「行ってくるね」
心配そうな顔をする4人を見て、こっちが心配になった。
大丈夫だよ、笑顔で手術を受けて来るよ、というメッセージを込め、笑って手を振った。手術室のドアが閉まるまで、満面の笑顔で手を振り続けた。
実際嬉しかった。さあ、やるぞ。腹が決まる。
手術室に入った時に、担当医が言ってくれた。
「頑張りましょうね」
その時、口をついてこんな言葉が出てきた。
「100%信頼してお任せします」
担当医が、はっとした顔をする。そして、嬉しそうに、嬉しそうに、笑ってくれた。
「スタッフの皆さん、よろしくお願いします」
司会の仕事で、披露宴会場に入る時のような気持ちでそう言った。
背中に注射を打ち、手術台の上に仰向けになる。若い女性看護師が、緊張する私を安心させようと手を握ってくれ、こう言った。
「私、ずっとここにいます」
性格の良さそうな、可愛らしい子だな、いつか息子のお嫁さんにこんな子が来てくれたらいいなと思った。
麻酔をかけるまで、まだあと数分あるようだ。意識があるうちに何か話したかった。
「私は今、いちばん幸せなんです。家族も友達も、みんな応援してくれていて、本当に、今まで生きてきて、今この瞬間いちばん幸せなんです」
そう言うと、その看護師が笑顔を見せてくれた。
周囲では、この手術に関わるスタッフが、何人も何人も立ち働いている。何事か打ち合わせたり、機械を運んだりしている。
有り難い気持ちでみんなを見回し、思わずこんな言葉が出てきた。
「みんな、私の為に働いてくれて有難う」
看護師がはっと息を飲む。そして、心から笑ってくれた。
ああ、言葉と言うのは、魔法だ。暴力にもなるが、こんなに人を幸せそうに微笑ませる事だって出来るのだから、と誰より私自身が幸せだった。
さあ、笑顔で手術を受けるぞ。さあ、運命を変えるぞ。
麻酔医が言った。
「これより麻酔をかけます」
笑顔で頷く。
…これ以降の記憶がまったくない。あっという間に眠り落ちた。
そう、小学生の時に貧血を起こし、無理をして自力で家に帰り、布団の上に崩れ落ちた時のように。
「1、2、3!」
という掛け声が遠くから聞こえ、手術台からベッドへ移されたような気がした。うっすらと意識が戻る。
そう、光の園でリンチされ、ヨウコの
「みんなもうやめで」
という声を遠くに聞いた時のように。
スタッフが手早く後処置をしているような感覚があった。
「終わりましたよ」
そう声をかけられ目を開けた。手を握ってくれた看護師だった。
ああ、生きている、と思った。
ベッドごと移動されている。天井の蛍光灯が眩しかった。移動していく様子を見ていたかったが、目が回り嘔吐しそうな気がして目を閉じる。
ガチャリ。ベッドが定位置におさまる音がする。
その音を聞いて一瞬こう思った。ここは反省室か?それとも奥之院の奥か?
「病室に戻りましたよ。分かりますか?」
同じ声がした。目を開け、看護師に頷く。
…と、ここで初めて夫と夫の両親、息子の4人がベッドの周りを囲み、心配そうに私をのぞき込んでいる事に気付いた。それを見て、最初に奥之院の奥へ叩き込まれた時に少女たちが倒れている私を取り囲んで、心配げに見入っていた事を思い出す。
反射的に両手を上げる。夫と、お姑さんが握ってくれた。夫が何度も何度も瞬きをしている。
その憐れむような眼差しに、幼少期に自分を見ていた大人たちの眼差しを思い出す。母が連れて行った病院の医者や看護師、宗教団体の幹部、同じ社宅の脇田さん。
まったく声に力が入らないが、それでも絞り出す。
「だいじょうぶ?」
酸素マスク越しで聞こえなかったらしく、夫が耳を寄せる。
安心させようともう一度笑いかけてから言う。
「わたしは、だいじょうぶ」
声が掠れている。フガフガとしか喋れない。治るのか?また声の仕事が出来るのか?
「あしたも、しごとでしょう?はやく、やすんで」
夫の眼差しがこう言っていた。
「こんな時まで人の心配をしなくていいよ」
お姑さんに言った。
「おかあさん、わざわざ、きて、もらって、ありがうございました」
自分でも説明できぬ涙が滂沱と溢れる。そう、幼い頃、瀕死の祖母を前に、自分でも分からぬままに涙が溢れたように。
幸せだった。私は病んだ子宮を全摘して「もらった」のだ。自分では出せないから、医者や看護師がチームを組んで「出してくれた」のだ。
子宮と引き換えに、輝かしい未来の扉が、音を立てて開いた。
その夜、手術当日の夜、
凄まじく長い、長い、長い夜、
麻酔が切れ、痛み出した傷は容赦なく私を苦しめた。
もうひとつ、真冬の海へ落とされたような凄まじい寒気。3時間に及ぶ手術中、私は全裸にされていたのだ。
意識がなかった為その時は寒さを感じなかったが、その悪寒が「今頃来た」のである。光の園で経験した寒冷地獄の比ではなかった。
看護師に助けを求めようとするが、体も手もガタガタに震え、ナースコールさえ掴めない。ようやく掴めた、と思ったが、今度は指が言う事を聞かずボタンをなかなか押せない。ようやく押せた、と思ったが、今度は口がうまく回らず
「寒い」
そのたった一言がなかなか言えない。看護師に何とか寒さを伝え、電気毛布をかけてもらい、ようやく寒冷地獄から救われるが、下腹の痛みはどうしようもない。
凄まじい下血の臭いが鼻を突く。これとまったく同じ臭いを嗅いだ事がある。他ならぬ母の病室での事だった。紛れもなく母と同じ手術を受けたのだと、腐敗したような濃い血の臭いで思い知らされる。
喉が焼け付くように乾いているが、吐いてしまうからという理由で水を飲ませてもらえない。
測らなくとも高熱に見舞われているのが分かる。
膀胱に入れられていた管が曲がっていた為、小水がうまく排出されておらず、凄まじい尿意で股間が痛い程に熱い。
この苦しみを、母も味わったのだ。
ようやく訪れた朝。
ありついた一杯の水。
差し出してくれた看護師が天使に見えた。
母もきっとそうだったろう。
その入院生活を、私は奇跡の入院、と呼んだ。
起きられなかったのが、起きられるようになった。
重湯とはいえ、食事が出来た。
座れなかったのが、座れるようになった。
飲めなかった水を、好きなだけ飲めるようになった。
歩けなかったのが、点滴のスタンドにつかまりながらとはいえ、歩けるようになった。
傷が日に日に痛まなくなった(痛いという事は勿論、治っていくというのも生きているという事だ)。
母も同じコースをたどった筈だ。
下腹に大きな手術痕が残ったが、私はこれを「名誉の負傷」と呼んだ。少しも嫌ではなかった。母の下腹にも同じ傷があった筈だ。
同室の人たちとも仲良くなれた。点滴のスタンドにつかまりながらとはいえ、よろよろと歩けた時は、同室のみんなが笑顔で励ましてくれた。
誰かがくしゃみをし(くしゃみさえ傷に響いた)、痛みに呻けば誰かが声をかけた。
「大丈夫?今の痛かったでしょう」
そう、痛いというのは生きているという事だ。痛みさえ嬉しかった。
ただ、やはり化粧品の匂いやドライヤーの音等、トラブルはあった。
個室は料金が高いので、夫に負担をかけまいと気を使い8人部屋を選んだが、同室の人に一日中気を使う事になった。同じく入院中8人部屋にいた母もそうだったろう。
何でもそうだ。一長一短。良い所もあれば、困る事もある。早く退院したくて息をひそめるように2週間を過ごした。
傷の癒着と合併症を防ぐ為、病院のフロア内を毎日ウォーキングした。スムーズに歩けるようになった事が嬉しく、誰彼となくハイタッチしたいような気持ちになる。そう、幼い頃、誰かれとなく手を振っていた時のように。
ハイタッチの代わりに、スタッフや他の入院患者に笑顔を向けた。相手が必ず微笑み返してくれるのが嬉しかった。そう、人に微笑して欲しければ自分から微笑する事だ。
夫が心配した筋腫の中の塊は、検査の結果、癌ではないと分かった。私は生かされた訳だ。まだ使命があるという事だ。
退院当日、夫が迎えに来てくれた。同室の人たちに挨拶をし、スタッフにもお礼を言う。
清掃スタッフの女性が、大真面目な顔で私にこう言った。
「もう二度と、こんな所に来るんじゃないのよ」
何か、刑務所を出所する人の気持ちが分かった。笑顔で頷く。
会計を済ませ、2週間ぶりに病院の外へ「出た」時、見上げた空の大きさと美しさに感動した。
私はたった2週間といえども、病室や廊下の窓から見える「小さな空」しか見ていなかったのだ。
この空を、愛おしいようなこの空を、ずっと見ていたかった。
ああ、外に出たんだ。心が舞い上がる。
光の園を退園した時と同じだった。
自宅に帰った時、広い病院に慣れたせいか家が狭く思えた。夫、息子、夫の両親、私の5人で食卓を囲む。
ベッドの周囲にカーテンを引き、ひとりで食べていた病院食はまずくて孤独でつらかった。そう、幼少期に家族で囲む食卓が苦痛だったように。
ああ、生かされている。
ああ、自由の身になった。
ああ、空はこんなにきれいだったんだ。
ああ、私は自分の足で立ち、歩いているんだ。
ああ、私にはたいせつに思う家族がいるんだ。
不平不満ばかり言っていた私が、自分の人生に感動出来るようになった。
そして体が徐々に元に戻っていく過程を経験し、また感動した。
家の周りを歩けるようになった。
家事を少しずつ出来るようになった。
私には奇跡だった。
これは母には出来なかった事だった。そう、母はいっときは持ち直したが、ほどなく再発し、まっしぐらに死へ突き進むことになったのだから。
そう言えば、家事が出来ずに弁当や総菜を買って食事を済ませていた時、夫も息子も一言も文句を言わずにいてくれ有り難かった。段々持ち直し、退院後に初めて米を炊いた時に息子が「本当に嬉しい事」を言ってくれた。
「良かった、母さんの炊くご飯が、俺にはいちばんおいしい」
翌日、味噌汁を作った時も
「この薄からず濃からず仕上げた味噌汁が、俺にはいちばんおいしい。市販の味噌汁はしょっぱくて嫌だ」
と言ってくれた。
翌日、おかずを作った時は
「良かった、コンビニ弁当はまずくて嫌だった。母さんの作るご飯の方が2億倍おいしい」
と言ってくれた。「2億倍」嬉しかった。
ああ、家事をあなどってはいけない。家族がこんなに喜んでくれるんだからと、仕事以上にやり甲斐を感じた。そう、私にとって家族以上にたいせつな人などいない。
私は夫や息子を送り出す時に必ず
「行ってらっしゃい。待っているよ」
と言う。外でどんな事があってもあなたの帰ってくる場所はここだよというメッセージだ。
そして帰って来た時は
「お帰り、待っていたよ」
と言う。ここがあなたの居場所だよというメッセージだ。
私も親にそうして欲しかった。父母は出かける私に、二度と帰って来るな、と言い放ち、帰宅した私に、どうしてここに帰って来るのだ?と言った。
酷い育ち方をしたからこそ、だからこそ、私は家族をたいせつにする。
もうひとつ、姉とはもう仲直り出来ないのかと思っていた時に、父が脳梗塞で倒れた。
変な言い方だが、これもタイミングが良かった。私が入院中だったり、退院したばかりだったら、対応できなかった。ある程度体が元気になった時に父は「倒れてくれた」のだ。
一日おきに実家に来ていたヘルパーが父の異変に気付き、救急車を呼んでくれた。もしヘルパーが来ない日だったら、父は助からなかったろう。母が助けてくれたような気がしてならない。
発見と処置が早かった為に父の命は助かった。
そう、命だけは。
父は脳梗塞の後遺症で「右半身不随」になった。
これも意味がある気がしてならない。
かつて家族を殴り続けた右腕を、蹴り続けた右足を、神様がおさめてくれた。交通事故の時も父は右腕と右足を負傷したが、それは一時的なものだった。
このたびは「永久に」右腕と右足を神様はおさめてくれたのだ。
もうひとつ、父は徹底的にハプニングに対応できず、何かあれば暴力でねじ伏せるか、黙ってその嵐が自分の前を通り過ぎるのを待ち、解放された途端にほっとした顔でテレビを付ける人だった。
神様は永遠に暴力を振るえない体にしてくれた上、その嵐が未来永劫通り過ぎず、父の中に留まる事にしてくれた。
父に、ここから学べと、あなたの問題なんですよ、と、口で言って分からないなら体で分からせますよ、と、避けようのない障害を与える事で、これ以上ないメッセージを贈ってくれているのだ。
父は介護付きの老人ホームに入った。
こまめに顔を出すが、行くたびに家に帰してくれと懇願され、気が滅入る。が、これも意味がある気がしてならない。
自分が言った事、やった事は巡り巡って必ず自分に返ってくる。
父はかつて手に負えなくなった私を施設に叩き込んだ。そして私がどんなに出してくれと頼んでも
「お前がまた悪い事しないなんて、そんな保証どこにもない」
と子どものように口を尖らせて言い、なかなか出してくれなかった。
母もしまいに家にいられず、激痛と闘いながら病室で命を落とした。
父も、母も、自分のやった事が返ってきたのだろう。
父が言う。
「お前はどうして俺を家に帰してくれないの?」
「帰さない」のではない。「帰せない」のだ。右半身不随の上、認知症も患っている為、もうひとり暮らしは無理だといくら説明しても父は理解しない。
いっそこっちも口を尖らせて言ってやりたい。
「家に帰ってもひとり暮らし出来る保証なんてどこにもない」
と。だがそれを言った所でどうなるものでもない。ぐっと堪える。
「病院に入ってからおかしくなった。薬を盛られた」
と被害妄想も、大人げないのも相変わらずだ。
「俺は意地悪されている」
とも
「俺、ここを逃げ出そうと思う。警官雇え」
とも言った。
そう、人は年齢ではない。人間性だ。
たまたま「92年生きてきた」だけで、人間性は変わらない。
「牢獄に閉じ込められているようだ。早く出してくれ」
父が言う。
あなたも私を牢獄に閉じ込めた筈だ。特に反省室は、牢屋より酷かった。
「俺、ここで死ぬの?」
父が言う。あなたも私を
「今度やったら一生だ」
と光の園に一生居ろと、光の園で死ぬまで過ごせと何度も言った。
ある日突然、否応なしに光の園に入れられた私。
ある日突然、否応なしに脳梗塞になり施設に入るようになった父。
お父さん、私にやった事が返って来たんだよ。
神様が帳尻を合わせてくれているんだよ。
「お前、俺に何してくれた?」
父が私を責める。
なかなか帰れぬ苛立ちを、思うように動かなくなった体に対する絶望感を私にぶつける。関節が固まらないように、自分の右手足をマッサージする私をなじる。
そう、小学生の時、友達の誕生日プレゼントを買う金をくれと言った私に、
「その友達はお前に何をしてくれた?」
と聞いた時のように。父が何度も何度も言う。
「お前、俺に何してくれた?」
父の、何かしてくれたから何かする、とか、何かしてやったから何かしてくれ、という交換条件、損得勘定は、直らない。
「お前、俺に何してくれた?」
黙って父の手足を曲げ伸ばししながら、私は耐える。
私は色々な事をした筈だ。
会社でボーナスをもらうたびに5万円ずつ送った(姉はそんな事をしなかった)。
学校に行かなかった分、学費をあまりかけさせていない(姉は国立大学を卒業した後、一度就職したが、その後、美術大学に入り直し、多額の学費を父母に出してもらった)。
大きな病気をしなかった(姉は盲腸で入院し、費用を父母に出してもらった)。
結婚式のバージンロードを父と歩いた(姉は旦那さんと歩いた)。
披露宴で両親への感謝の手紙を朗読した(姉は読まなかった)。
孫の顔を見せた(姉には子どもがいない)。
そして何より、あなたの暴力と暴言に耐えた(私は大人になった今なお、顔の前に手や物があるのが耐えられない。父の手がスローモーションのように近づき、殴打され、吹き飛ばされた場面が蘇るからだ)。
虐待された割にまともに育ち、まともな就職をし、まともな結婚生活を送り、自分の子を虐待せずに育てていられる。
補導された事も逮捕された事も一度もない(姉もないが)。
姉ときょうだい喧嘩した際、あなたは理由も聞かずに姉の味方をして私を殴っておさめたが、それにも耐えた(きょうだい喧嘩で学ぶ事は多かった筈。ただ暴力を用いておさめた父は学ばず、私と姉にも学ばせなかった。また母は泣き落すだけでおさめようとし、やはり学ばず、学ばせなかった)。
父は私が30歳になった途端に
「その年で」
と言うようになったが、それにも耐え、反論も、父を年寄り扱いもしていない。
頻繁にあなたの所へ通い、身の回りの事をしている(姉もしているが)。
大も小も、しもの世話をした(姉は今の所していない)。
理不尽な言い分にも、凄まじい暴力にも、裸を見られ、股間や胸を凝視されても耐えた(私は最近、息子が湯上りという事を知らずにうっかり脱衣所のドアを開けてしまい、すっぽんぽんの息子に遭遇した事があるが、即座に目もドアも閉じ、股間を凝視など絶対にしなかった)。
施設に放り込まれても、それでも耐えた。
息子が幼い頃、食事に行った店内で、走り回る姿に苛立ち(子どもは走り回ってなんぼだ)、
「あいつナントカ言う病気だよ、医者に見せろよ」
と異常児呼ばわりしても耐えた(幼い私にもまったく同じ事を言った)。
当時3歳の息子がおむつをしているのに対し
「お前もう大きいのに、まだおむつしているのか」
と馬鹿にしたように言ったが、それも耐えた。
「そんな事言うなら、お父さんが将来おむつするようになった時に同じ事言うよ」
とも言わなかった(現に今、父は大人のおむつをしている)。
ぎりぎり堪え、口にしない。言っても仕方ない。それはお前がああだから、こうだからと言い訳するばかりだろう。
仮に自分が悪かったと理解したとしたら、父は自責の念に駆られ、母のように逝くだろう。
父は学ばないから長生きなのか?
長寿な人が学ばない人とは思わないが。
ただ父の脳梗塞は、姉と私を再び姉妹にしてくれた。頻繁に会い、連絡を取るようになれた。
私に対して敬語を使ったり、名前にさん付けで呼ぶなど、ぎりぎり距離を置いているのは分かるが、何年も連絡を取り合わなかった頃よりはずっと良い。
共に老人ホームの見学に何軒も回った。実家の点検をし、少しずつ片付けもしている。行き帰りの電車でもよく話すようになった。
ある時、姉は言った。脳梗塞で命を落とす人は多い。助かっても誤嚥性肺炎で死亡する場合も多い。父がそうでないのには意味がある。
それは私たちに甘える為だ。父は母にも娘ふたりにも甘えられなかった。勿論、戦後の混乱期に育ち、親にもきょうだいにもあまり甘えられなかった。
今こそ、人生の最後に、父は誰かに甘えたいのだろう。だから右半身不随になってまで、命だけは残したんだろう。
…それを聞いて目から鱗が落ちた。
もしかして、父の暴力は「甘えたい」という気持ちの表れだったのかも知れない。
そして母も、暴力と暴言で「甘え」を表現していたのだろう。どこまで虐待しても自分を慕ってくる私を試し、安心し、甘えていたのだろう。
それに父の脳梗塞に代わるものは何だったのか?
癌か?
アルツハイマーか?
筋ジストロフィー病か?
詐欺にお金をむしり取られ続ける事か?
孤独死か?
徘徊し行方不明になり、山の中で凍死する事か?
なら今の方がずっと良い筈だ。
もうひとつ、目から鱗が落ちた事がある(私の目には何枚の鱗があるのか?)。
私は義務感から父の所へ「行かねば」と思うと、高熱を出したりぎっくり腰になったりする。何故そうなるか?おのずと答えは出た。
要するに「行きたくない」のだ。だから体が熱を出したりぎっくり腰になったりして「行かなくていい状態」にしてくれるのだ。
ああ、なんて私の体はよく出来ているんだろう。
「分かったよ」
そう体に話しかけると症状は治まった。
ある時、行きたくないと思いながら駅へ向かった所、電車が不通になっていた。
ああ神様がわざわざ電車を不通にしてくれた、ここまでしてくれるのかと驚いた。
父が言う。
「帰してくれ。家に帰してくれ」
私は感情を殺しながら答える。
「右手も右足も動かないから無理だよ」
父が激高しながら言う。
「そんな説教も理屈も聞き飽きた!」
もう、黙るしかない。
私はあの頃決して「そんな説教聞き飽きた」とは言わなかったのに。
気持ちは分からなくもない。私もかつて、いつ退園できるか分からない状態に焦れ、光の園の友達をいじめた。その友達は私のいじめに耐えた上、私がリンチされそうになった時にこう言ってくれた。
「マリちゃんをいじめねぁで」
私はそんな良い子をいじめてしまったのだ。
中学の同級生である加山さんも、高校で私が上級生に集団リンチされそうになった時に私を守ろうとしてくれた。私は加山さんをいじめたのに。
父が焦ったように言う。
「この施設、一日1万円かかるんだよ」
私は穏やかに答えた。
「一日1万円で面倒見てくれるなら良いじゃない」
父がすねたように言う。
「家に帰ればタダじゃないか」
相変わらず浅はかな人だ。もし家に帰れば一日1万円では済まない。24時間交代勤務のヘルパーを何人も雇わなくてはならない。幾らかかるか分からない。だったら今の方が良い筈だ。
父が言う。
「俺、アカデミー賞取ったんだ。受賞式に出ないといけないから帰して」
…脳梗塞と認知症がいよいよ進んだのか?
私は絶句する。
父が言う。
「いつ帰してくれるか確約してくれ」
…それさえ忘れてくれ。
父が言う。
「俺、再婚したんだ。もうすぐ子どもも生まれるんだよ。俺の3人目の子ども」
…妄想もいい加減にしてくれ。
ある時、見舞いに行った私に父が言った。
「ここにいるのは嫌だ。死ぬ思いだ」
何故かと聞いた私に父は言った。
「複数の女の職員が俺を蹴るようになった」
驚き、誰がそんな事をするのかと問いただしたが父は答えられなかった。白内障と老眼を極めた父の目は、その職員の名札は勿論の事、顔の特徴もよく見えないと言う。
「施設側に相談しよう」
と言ったが
「そんな事したら仕返しされる。やめてくれ」
と、昔詐欺に遭った時と同じ事を言う。
父はまったく進歩していなかった。
「相談しないと解決しないじゃない」
と言ったが
「解決策は家に帰る事じゃないか」
と言う。
そう、父は92歳の子どもだった。
いつ家に帰れるか分からない状態に焦れ、何か問題を起こせばこの老人ホームを追い出され、家に帰れると甘い考えを持ったのだ。
どうしようもないから、手に負えないから老人ホームにいるのだという事を、父はどうしてもこうしても理解しなかった。そして「家に帰れば体が元に戻る」という幻想も捨てられなかった。
何をすれば職員を怒らせるかと幼稚な考えで、父は自分の股間を掻き、その手で女性職員の顔を嗤いながら触った。当然相手は怒り狂い、頭に血がのぼったまま父を思い切り蹴った。そしてその職員から話を聞いた介護士仲間も父に怒りを覚え、忌み嫌うようになり、寄ってたかって父を蹴るようになったのだ。
「怒らせれば追い出されて家に帰れる筈」だったが、父のその行為は「いじめ」につながった。食事だけはかろうじてさせてもらっていたが、他は酷かった。
目が開かないほどの目ヤニだらけ、髪もボサボサ、何日も着替えをさせてもらえず、風呂にも入れてもらえず酷い加齢臭を放ち、何もかもぐちゃぐちゃ、情けなく惨めな姿の父が半泣きで頭を下げながら言う。そう、まるで「可哀想な象」のように。
「頼む、頼む、家に帰してくれ。もう嫌だ、ここは嫌だ。1日も嫌だ。あと1回も蹴られるのは嫌だ。誰にもいじめられないように、家に逃げて帰りたい」
それを聞いて、私も昔まったく同じ事を父に言った事を思い出す。
光の園でリンチされ、ここは嫌だ、あと1日も嫌だ、あと1回も殴られるのは嫌だ、誰にもいじめられないように家に逃げて帰りたいと訴えた。
髪を短く刈られ、顔も体も痣だらけ、惨めな姿の私の訴えを父は退けた。お前が家族に暴力を振るった報いが来ている。あと1年は辛抱しろと。
…いっそ、同じ事を父に言ってやりたかった。
あなたも家族に暴力を振るった。私を施設に放り込み、中でリンチされているから助けてくれと頭を下げて訴えても突っぱねた。その報いが今来ているのではないのか?まして股間を掻いた手で顔を触られたら怒るのも分かる。排泄も入浴も自分では出来ないし食事も通常食は食べられない。通常食を食べたいとあなたは言うが、食べたら誤嚥して死んでしまう。
私も忙しい身、毎日3食、ペースト食を作れない。毎日風呂を沸かしてあなたを抱えて入浴させる事も出来ない。四つん這いになっても、と言うが、右半身不随のあなたは、四つん這いにさえなれない。自分の事を自分で出来ない。そして過活動膀胱ゆえに10分おきにトイレに連れて行けというあなたの面倒を見きれない。介護虐待したくない。
そう、家族があなたに暴力を振るう訳にいかないから、代わりに施設職員が、介護と暴力を「ワンセット」で行なってくれているんですよ。
ただお父さん、娘にやられるより良かったでしょう?
人に暴力振るわれるとつらいでしょう?
へこむでしょう?
私もあなたやお母さんに殴られるたびにへこんでいましたし、本当につらかったんですよ。
言いたい放題の父母に育てられた私は、確かに若い時は人に言いたい放題だった。
だが母の死後、自制するようになった。言ってはいけない。何でも言えば良いというものではない。ぐっと、堪える。
その時私に出来たのは、施設長に掛け合う事だった。
複数の女性職員が父を蹴るようになった。父が失礼な事をしたならば、私が父に代わりその人に謝罪をさせていただく。父は右半身不随で逃げる事も抵抗する事も出来ない。そんな弱い父を蹴るのはどうか容赦して欲しい。
施設長は「犯人を捜す」と言ってくれたが、私は誰が犯人でもいいのでとにかく蹴るのだけはやめてくれ、ただその人にも生活があるだろうから解雇処分はしないでくれと訴えた。
次に見舞いに行った時、父に訊ねた。
「最近どう?まだ蹴る人いる?」
父は言った。
「そう言えば最近は蹴られなくなった。それでも帰りたい。四つん這いになっても家に帰りたい。帰ったら固いご飯食べたい」
蹴られなくなったんだと、少しほっとする。そして父はリンチに悩む私を放置した事を思い出す。
父は光の園側に掛け合い、リンチをやめるよう言ってはくれず放置した。父は助けを求める私の手を振り払い、「悪くした」が、私はその父に手を差し伸べ「良くして」いる。
だが加山さんやヨウコや小椋さんを始めとする友達に、私は「悪くしてしまった」のに、友達は「良くしてくれた」のだ。何か、巡りあわせを感じる。
ブラック会社、というのがあるが、父が居たのはブラック施設だった。ただそのブラック施設で、父は大きな業を落としたような気もする。
これも「巡りあわせ」なのだろうか。
その後、父は別の老人ホームに移った。新しい施設では虐待もなく、何とかなっている。相変わらず
「帰せ」
と言い続けるが。
「少しでも何か言うとすぐ報復される。ご飯だってみんな普通のご飯なのに、俺だけペースト食で。お前が職員に何か言ったんだろう。お前のせいで俺は意地悪されている」
とも言った。脳梗塞だから誤嚥を防ぐ為にペースト食しか食べられないのだと、どうしても父は理解しないし出来ない。
そう言えば50年ほど前にもまったく同じ事を言っていたね、私が喘息の治療の為に行った病院であまりにも待たされ、文句を言った途端に診てもらえ、次にその病院に行ったあなたが物凄く待たされた時に
「お前が文句言うから俺は今日凄い待たされた。お前のせいで俺は意地悪されている」
と。あの日の父の声が蘇る。
お父さん、成長しようね。
もうひとつ、何年か前に膝に人工関節を入れる手術をした事がある。この時父はこう言った。
「なんか、カタワになっちゃったみたい」
…せっかく手術したのに、その言い草は何だと腹がたった。外から見る分には何も変わらないし、痛みも消え、不自由なく歩けるようになったのだから、それを喜べばいいものを、と言いたかった。
ただ、神様がその言葉を聞き、父を右半身不随にし、本当にカタワにしたのだろうかという気もする。
お父さん、言葉に気を付けようね。私は子宮を取ろうが、卵巣を取ろうが、自分をカタワなんて思わないよ。むしろ良くなったと思っているよ。
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