第24話
正一さんを支えてくれた牧原道子さん。
あなたは私という「他の女と暮らしている」正一さんに、懸命に尽くしてくれました。
家事を放棄した私に代わり、あなたは毎日お弁当を昼用夜用と二つも作り、正一さんの職場まで届けてくれていました。材料費も往復の交通費も、時間も手間も労力も、ばかにならなかったでしょう。
休みの日は一日中自分のアパートでゴロゴロする正一さんの為に家事をし、私にどんなに酷い目に遭わされているか愚痴を言い続ける正一さんを受け止め、黙って優しくしてあげられたあなたは、本当に立派です。あなたの使命のひとつに正一さんを助け、癒すと言うのがあったのでしょうね。
あなたは元々「自分の恋人だった正一さん」を私に横取りされたのだから、神様が元に戻すべく正一さんに再会させてくれた。本当の彼女は自分なのに、愛人のような日陰の存在でいるなんて、と不満だった事でしょう。
好き放題している私が本妻(未入籍でしたが)で、尽くしている自分が愛人、こんなおかしな話はないだろうと、理不尽な状況に苛立っていたでしょう。私の所に帰って行く正一さんを内心恨んでいた事でしょう。
ただ道子さん、あなたは賢い人です。私が何年もかかってたどり着いた結論(正一さんは物凄く手のかかる厄介な人である事。説明が出来ず目で訴えるしかない事。言うべき事は言わず、すべき事はせず、言っても仕方ない事ばかり言い、やっても仕方ない事ばかりする上、こちらの望む事はせずに望まない事ばかりして人を苛立たせる事。何かしてもらって当たり前という態度を取る上、自分が何かすると物凄く恩着せがましい態度を取る事)に、あなたはほんの数カ月でたどり着いた事ではないでしょうか?
きっとあなたは私の事が憎くて嫌いだったでしょうが、私が正一さんのどこにどうイライラしたのか、何故そこまで暴れたり暴言を吐いたのか、実は共感してくれていた事ではないでしょうか?
一度、あなたが風邪を引いてお弁当を届けられなかった時がありましたね。その時に正一さんの職場に電話を掛け、今日はお弁当を届けられないと言った時の正一さんの対応に愕然とした事でしょう。
「あ、いい、いい、いい、お弁当なら自分で何とかするから、だからいい、いい、いい」
もはやお弁当を届けてもらって当たり前、という態度、体調の悪いあなたをいたわる、大丈夫?とか、お大事に、の一言もなく、ただ弁当の事だけしか頭にない正一さんに、自分は宅配業者ではないと心の中で憤慨した事でしょう。
自分に懸命に尽くすあなたに、最初のうちは有り難がったものの、すぐに慣れて当然という態度を取るようになった正一さんに「人ってここまですぐに変わるのか、こんな人の為に一生懸命やる事はない」と思ってしまった事ではないでしょうか。私もそう思っていました。
正一さんが事故死した時に、私以上にショックを受けたでしょう。自分も酷い精神状態だったでしょうに、通夜や葬儀で受付を買って出たそうですね。
あまりにいじめてしまった為、自分が殺したような気がして錯乱し「ただ逃げた私」に代わって本当に「八面六臂の大活躍」をしてくれたんですね。
棺にお花を入れる時に
「これで何かおいしいものでも食べて」
と言いながら現金を5000円入れてあげたと、正一さんの友達から聞きました。あなたの手料理の方がずっとおいしいでしょうに。その時のあなたの張り裂けそうな心情を思うと、私も張り裂けそうになります。
そしてその後、よく立ち直りましたね。偉いですよ。本当によく頑張りましたね。
正一さんはきっと、私の前では死ねないけど、道子さんの前でなら死ねる、自分の死を私は受け止めきれないけど、道子さんなら受け止めてくれる、と思っていたのかも知れませんね。
そして道子さん、違っていたらごめんなさい。まるで私に「殺してでも正一さんをあなたにだけは渡さないよ」と言われているような気がしたのではないでしょうか。精神安定剤を飲みたいくらいつらかったでしょう。悪魔のような私を恨んだでしょう。
私は道子さんに「間接的にお世話になった」と感謝していますし、あなたにも出来ない我慢をさせてしまったと申し訳なく思っています。
いつか天国でお会いしましょう。
友達にもなりましょう。
そしてしょうちゃんって、ああだったね、こうだったねと言って、同じ人を愛した者同士、仲良く笑いさざめきましょう。
牧原道子さん、本当にお疲れ様でした。
そして本当に有難うございました。
正一さんの親友で、道子さんの友達でもある本田泰之さん。
あなたは昔から細身で顔立ちも整い、不思議なオーラを放った美少年でした。正一さんと同じバンドでボーカルを務め、女の子にも大層モテて、格好良かったですよ。
正一さんがどうしていたか、道子さんがどうしていたか、教えてくれて有難う。
最初あなたは、自分の親友をいじめた私に復讐する目的で近づいたんでしょう。いっとき私と本当に恋人になってしまった、自分も本気になった事は、あなたの大きな誤算だった事でしょう。
ですが我がまま、勝手、潔癖症、ヒステリック等、私の欠点が露わになるにつれ、本来の目的を思い出したようで、散々いじめてくれましたね。
まだ食べ終わっていないラーメンに火のついた煙草を投げ入れて、食べられないようにした上、唖然とする私を嗤っていた事もありましたし。
ただ私も正一さんに、なんの味もしない、と言われる事に苛立ち、作った料理に醤油を滅茶苦茶にかけて正一さんが食べられないようにした事があります。それが返って来たのかも知れませんね。そしてあの後あなたも誰かに、食べかけのものを食べられないようにされたのかも知れませんね。
あなたは私が何度歩み寄っても、罵詈雑言を浴びせました。ただ私も、何度も歩み寄ってくれる母に罵詈雑言を浴びせました。それが返って来たんでしょうね。
あなたにいじめられ、つらくて泣いている私に
「正一の墓の前で自殺しろ!」
と言った事さえありましたね。いいんですよ。私も正一さんに死んでしまえと言ってしまいましたから。自分の言動は、巡り巡って必ず返って来るんですね。
私はあなたに滅茶苦茶にいじめられながら、正一さんもこんな気持ちだったんだろう、これはすべて私が正一さんにやったのと同じ事だ、と必死に耐えていました。正一さんが私のいじめに耐えてくれたように。出来ない我慢をする事で、知らず知らずに大きな業を落としていたような気がします。
その頃、私はあなたに対し「この人が私を愛してくれれば。愛してさえくれれば」と思っていました。幼い頃、自分の親に対してそう思っていたように。
そしていつまでたっても愛してくれず、尽くしても尽くしても応えてくれないあなたに苛立っていました。正一さんのように。私も精神安定剤を飲みたかったです。
「急に居なくならないでね」
私はあなたに何度もそう言いました。今にも消えそうで、心もとなく、大事に思ってもらえていないのがありありと分かっていましたから。ですが、正一さんも私にまったく同じ事を何度も言っていました。こんな気持ちだったんですね。
いじめ抜き、復讐を果たし、泣きすがる私を無残に捨て、良い気持ちでしたか?決してそんな事はなかったでしょう。
きっとあなたは、正一さんが私のどこを好きだったかよく分かったとも言ってくれましたが、どこに耐えられなかったかもよく分かった事でしょう。うまくいっていた時は、私を可愛いとか純粋とか言ってくれて嬉しかったですよ。
付き合い始めて間もない頃、
「私、やっちゃんとだったらうまくいくような気がする。きちんと向き合いたい」
と言った私に
「俺もそう思う。マリとならうまくいくと…。ただ、きちんと向き合いたいなら水商売辞めろよな」
とも言ってくれたし(それがいちばん嬉しい言葉でした)、お揃いの指輪も買ってくれたし、ずっと一緒と約束してくれたし、正一さんがまずいと言い続けた私の料理を、あなたはおいしいと喜んで食べてくれたし、良い思い出もたくさんありますよ。一度だけ、発熱した私に卵粥を作って食べさせてくれた事がありましたね。嬉しかったですよ。おいしかったし。
もっとあなたにたいせつにされたかった。ただ、今は夫からたいせつにしてもらえています。
おそらくあなたは「復讐などしても何にもならない。虚しいだけだ」と私から学んでくれたのではないでしょうか。あなたの使命のひとつはそれを学ぶ事だったかも知れませんね。
そして私はあなたから「好きな人が他の女性の所へ帰って行くほどさびしい事はないし、不倫ほど虚しい恋はない」と学びました。
正一さんが生きていた頃、まだそんな関係でなかった私とあなたと、あなたと長年同棲している山村冴子さんと、4人で出かけたり、ホームパーティーをしたり、狭い部屋で4人並んで押し合いへし合いしながら寝たりしましたね。楽しかったですよ。あの頃、まさかあなたが私の相手をしてくれるとは思っていませんでした。
冴子さんと私は二人でコンサートへ行ったり、食事に行ったり、買い物したり、友達付き合いもしました。その友達を裏切り、悲しむような事をして、冴子さんには本当に申し訳なかったです。
あなたは私の前でどんなに凄まじい冴子さんの悪口を言っても、それでも冴子さんの所へ帰って行きました。私の使命のひとつにあなたを癒す事があったのでしょうね。
ただおそらく正一さんも牧原道子さんの前で、どんなに凄まじい私の悪口を言っても、それでも私の所へ帰って来ていたのでしょう。道子さんの虚しさや切なさが骨身に堪えて分かります。そして冴子さんの惨めさも、どう接すれば良かったか分からずに困惑していた気持ちも分かります。
「俺は昔、散々悪い事したんだ。クスリもやったし、人も騙したし、女も泣かせた。冴子に会った時に、この辺で償っておかないとって思ったんだ。我がままで勝手で家事も出来ず稼ぎも悪いあいつと暮らしている理由はそれだけだ」
とも言っていましたし。「償い」なんて、あなたのような人でもそんな事を考えるのかと意外でした。と同時に冴子さんの欠点(家事が下手とか我がまま等)はそのまま私の欠点でした。つまり冴子さんと私はよく似ていたと言えます。
私は昔、あなたがステージに立ち、歌っている姿を見てからずっとファンだったんです。なのでそのあなたが復讐目的でも何でも、私を相手にしてくれるようになった時、まるでずっと好きだったスターが自分と恋人になってくれたような気がして、舞い上がってしまいました。自分を特別だと勘違いしました。
あなたは一緒に歩いていると、他の女の子が振り返って見るくらい格好良くて、私の言う冗談に明るく笑ってくれて、好きなテレビドラマも同じだったし、一緒にいて楽しくて、ときめきも止まらず、あなたと付き合った1年間は、本当に夢のようでした。
「あいつとは別れるから、だからマリ、待っててね」
私の目を見て言ってくれた、あなたの言葉を信じました。あなたが本当に好きだったから、だから信じられました。一緒に暮らすようになったらああしよう、こうしようと、胸を躍らせながら夢を描き、指折り数えるようにその日を待ちわびていました。
そして遂に、あなたと冴子さんを別れさせた時、私は勝ったと思いました。
あなたと恋に堕ち、滅茶苦茶に好きになり、私は狂いました。かつて正一さんが私に恋して狂ったように。
そして私を愛してくれないあなたが、どうすれば愛するようになってくれるか、穏やかになってくれるかと、試行錯誤していました。正一さんのように。
あなたはどこも掴みどころのない人で、掴んでも掴んでも、今度こそ捕まえたと思っても思っても、するりと私の手から抜け落ちる異星人のような人でした。多分、正一さんにとって、私はそういう存在だったのでしょう。
お互い疲れ果て、お互いを憎みそうになった時に、そうならないように神様が二人を引き離してくれたのかも知れませんね。ただ生かしておいてくれて、有り難い限りです。
あなたは私と別れた後、冴子さんと結婚したそうですね。正一さんのお母さんから聞きました。道子さんが結婚して子どもを生んだ事も、正一さんの妹さんが結婚して妊娠した事もその時に聞きました。
きっと正一さんのお母さんは「ひとりぼっちはあなただけよ、自分の人生のこれからをきちんと考えなさい。もう目を醒ましなさい」と言いたかったのでしょう。
正一さんのお父さんも私にわざと冷たくし、桜井家に来られないようにしました。…というか、してくれました。29歳になっていた私を案じてくれたのでしょう。
私はそれ以来、正一さんの実家に行くのもお墓参りも電話もやめました。何より死んでしまった正一さんに依存するのをやめました。
私は祖母の死に依存し続ける母が疎ましかったのですが、自分が恋人の死に依存する悲劇のヒロインになっていた気がします。
今度こそ前を向こうと決意し、小学生以来ずっと下を向いて歩くのが癖でしたが、顔を上げ、前を見て、胸を張り歩くようになれました。
ずっと疎遠だった自分の親とも連絡を取り合うようにもなれました。お陰様であらゆる事から立ち直れたのです。
桜井正一さん、今は石井道子さん、本田泰之さん、そして今は本田冴子さん、私を心配してくれた正一さんのお父さん、桜井保さん、お母さんである桜井和子さん、妹の、今は町田明美さん、皆さんから学んだ事は本当にかけがえのない事ばかりで、今の私の支えにも糧にもなっています。本当に有難う。有難う。有難うございました。
保さん、和子さん、明美さん、たいせつな家族を失い、耐えられなかったでしょう。それ以上悲しい事などなかったでしょう。正一さんの死後、1年以上経ってからのこのこ現れた私をよく突っぱねずにいてくれましたね。
やっちゃん、かけがえのない親友を失い、つらかったでしょう。しょうちゃんをいじめた私を許せなかったでしょう。もうひとつ、実のお父さんが暴力団員というのも耐えられなかったでしょう。もしあなたと結婚していたらやくざと親戚になってしまった所でした。
道子さん、守ろうとした恋人を失い、無念だったでしょう。あなたも私を許せなかったでしょうし、しょうちゃんと再会する前に水商売をしていて、客であるおじさんの愛人をしていたのも本当は嫌だったでしょう。ましてそのおじさんに
「君、俺との事は誰にも言わない方が良いよ。君もいつか誰かと結婚するんだろうけど、自分の妻が妻子持ちに何年も抱かれていたカスだなんて知ったら旦那さんショックを受けるからね」
と別れ際に言われ、カスとは何事かと、怒り心頭した事でしょう。
冴子さん、恋人を友達である私に横取りされ、腹が立ったでしょう。勿論あなたも私を許せなかったでしょうし、出来ない我慢をしていたでしょう。あなたのお兄さんが暴力団員だと聞いた時、やっちゃんと見えない糸で結ばれていたような不思議な縁を感じました。
あなたについて忘れられないのが、しょうちゃんがやっちゃんにアリバイを頼み(もし私から電話がかかってきたら買い物に行った等言ってくれと)、私と道子さんの間を行ったり来たりしている時に
「マリさんと道子さん、どっちがひとりにしておくと危ないと思っているの?」
とやっちゃんに言っていたという事です。
あなたは私を友達と思って、愛情を込めて見守ってくれていたのに、裏切り、深く傷つけてしまい、本当にごめんなさい。やっちゃんが私なんかより、あなたを選んだ気持ちが分かります。
ただ、私はひとりでも大丈夫になったら結婚出来ました。冴子さん、心配してくれて、思いやりを持ってくれて、出来ない我慢を散々してくれて、本当に有難う。
今は、皆さんの幸せを願ってやみませんし、感謝する心もやみません。
突き放してくれて有難うございました。
無下に捨ててくれて有難うございました。
お陰様で今があります。
皆さん、教えてくれて、勉強させてくれて、
短期間と言えども私と共に過ごしてくれて、
私の人生に彩り豊かな思い出を作ってくれて、
心から、心から、心から有難うございました。
みんな、みんな、たまらなかったろう。
私もたまらなかったが、何もないように見えるみんなも、本当にたまらなかっただろう。みんな、よく生きてきた。よく死ななかった。よく頑張った。そう褒めたい人たちばかりだった。何も事情のない人などひとりもいなかった。
そしてみんな、もうひとりの自分だったような気がする。
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