第20話

 愛社精神を持って働ける会社に巡り合い、10年働けた。健康食品を扱う地味な零細企業だったが、初めて長続きし、初めて惜しまれて辞める事が出来た。

 その会社に面接に行った時、ビルを見た瞬間に「ああここだ」と思った。 

 仕事を通して知り合った人と40歳で結婚、二人の間に生まれた子どもは、15歳の男児だ。もうひとり欲しかったが、それは叶わなかった。

 年齢が上がれば上がるほど、自然妊娠の確率は下がるという事を、私は自分の身を持って思い知った。不妊治療等色々と試したが、何をしても神様は私に二人目の子を授けてくれなかった。

 ただ考えようによっては、体がそうなる前に(生めなくなる前に)神様は元気な子を「ひとりも」授けてくれたのである。

 そして、神様は私に男児を授けた。まだ独身の時、職場の上司が

「女の子を二人育てるのと、男の子をひとり育てるのと、大変さは一緒だ」

と話すのを聞いた事がある。

 その時に、だったら男の子が良いなと「思わず思った」事がある。神様はその願いを「聞いてくれた」のだろう。

 もうひとつ、私は若いうちに子どもを産んだら虐待してしまったかも知れない。だから神様は42歳まで「待たせてくれた」のだろう。


 長く独身でいると、色々な人から

「どうして結婚しないの?」

と聞かれる。

「沖本さんってどうしてそういう風にするの?」

と小・中時代のように聞かれるよりはましだったが、やはりそう聞かれるのは返事のしようがなく、嫌だった。酷い人になると、変質者呼ばわり、異常呼ばわりもされた。

「あなただって結婚したいでしょう?」

と決めつけたように言われ

「いいえ」

と答えると

「どうして?」

と何度も詰問された。答えたくなかった。

 親の喧嘩を見て育った為、結婚に夢を描く事がどうしても出来なかったなど言おうものなら、どこまでも質問攻めにされるだろう。過去を、プライバシーを、丸裸にされるだろう。

「子ども欲しいでしょう?」

という質問に

「いいえ」

と答えると、やはり

「どうして?」

と、さも不思議そうに何度も聞かれた。

「人は親業をやって初めて親を安心させられるのよ。私の娘は私の言う事を聞いて結婚、出産、だからこそ幸せなのよ。沖本さん、あなたはいい年してスクール通いばかりして少しも素晴らしくないわ。少し私の娘を見習ったらどうなの?」

と言われた事もある。

 この人は、当時まだ33歳の私に

「独身主義なの?」

と、さも不思議そうな顔で聞いてきた。

「子ども好きでしょう?」

と聞き

「嫌いです」

と正直に答えると、びっくりした顔をして自分の隣りにいた人に

「子ども、嫌いなんだって」

と私を指さしながら言い、変態を見るような目でいつまでも睨んでいた。

 その「隣の人」は

「自分の子なら可愛いよ」

と教え諭すような口調で言ったが、私はそんな事は決してないと経験から知っていたので、黙っていた。

 そう、私の父母は、実子である私を少しも愛さず、否定し、いじめ、施設に監禁までした。

 虐待の事例ならいくらでもある。私の父母も子どもが苦手で嫌いだった。周りに言われ、仕方なく生み、愛せずに育てた。その結果がこれだ、と言いたかったが、言えなかった(また嘘つき呼ばわりされるだけだから)。

 世の中には重い障害を抱えた子どもを、授かりものと喜んで育て、幸せを実感している親もたくさんいるが、私の親は五体満足に産まれた私を粗末にし、

「この子はどっかおかしいんだわ」

だの

「お前は異常だ、俺はお前のような子どもは欲しくなかったんだ」

だのと言い続け、不幸を実感しながら生きていた。

 その頃私は一生独身は嫌だが、不幸な結婚はもっと嫌だと思っていた。あてはないが、するなら幸せな結婚をしたかった。結婚さえすれば幸せになれるとは決して思えなかった。


 人はよく親と同じような人を結婚相手に選ぶ。

 例えば暴力の耐えない家庭で育った人は、同じく暴力を振るう人をパートナーに選び、親に無視されて育った人は、自分を無視するような人を選ぶ場合が多い。無論私も10代、20代はそういう男を選んでいた。ひとりずつ思い起こして見れば、必ず父か母どちらかに似ている男たちだった。


 私はそこから脱した。親に似ている男や私を傷つける男なら、もう二度といらなかった。

 今度付き合うなら、心根の良い人を選ぼう、私と、私との家庭を守ってくれる人にしようと、強く思った。

 何かをやり過ぎたり、やらな過ぎたり、言い過ぎたり、言わな過ぎたり、そんな人は嫌だった。すべてにおいてちょうどいい人を選ぼう。念じるようにそう思った。

 そしてもうひとつ、「両親に愛されて育った人である事」を絶対条件にしようと誓った。

 そしてそれは叶った。


 学歴、経歴、年齢、過去不問、そして不倫、暴力、薬物無縁、優しく穏やかで知的で頼りがいのある男を選ぼう。職業は土日休みの会社員、出来ればシステムエンジニア。パソコンに精通、勉強熱心で、資格をたくさん持っていて、親をたいせつにしている人(親を粗末にする人は妻も粗末にする)。最高の男を選び、その男から選ばれよう。人に尊敬する人は?と聞かれた時に、自分の夫ですと即答できる、そんな人と一緒になろう。拳を握りしめるように誓った。

 そう決意してから、出会う男が理想の人なのか、そうでないのか、きちんと判断できるようになった。


 そして私が39歳の時に現れてくれたのが夫だった。

 愛社精神を持って働く会社員、感情の起伏が少なく常に冷静沈着、知的で、それをひけらかす事がなく、何も自慢せず、誰の悪口も噂話もしない。周囲に信頼され、周囲を信頼している。何もかもがドンピシャリだった。9歳下の夫は私を変えようとしない。私の良い所もそうでない所も含めて受け入れてくれる。未来だけを見る。そして何より「両親に愛されて育った」人だった。

 だから私も、夫の良い所もそうでない所も含めて受け入れている。彼と付き合うようになってから、いつしか自分は幸せになれないのではないか、自分が子どもを持ったら虐待してしまうのではないか、という強迫観念は消えた。

 好きな人と家庭を築けるほど幸せな事はない。反対に、嫌いな人と家庭を営んでいくほど苦痛な事もない。だから父母は仲が悪かったのだ。

 単調で同じ事の繰り返しの毎日だが、嵐の中にいた頃、何より望んでいたのはこんな平坦かつ穏やかで「同じ人と異なる季節を過ごす事」であり、「同じ事の繰り返しの日々」であった。

 そう、何度も転職をせざるを得なかったり、恋人と決して長続きしなかった私は、いつも「違う人と違う季節」を過ごしていたし、「同じ事をしたいのに、違う仕事をしたり、違う場所へ通勤せざるを得ない」人生だったのだ。

「同じ人と同じ場所に住み、同じ仕事を続ける」それこそが私の心からの望みだった。


 更に学んだ事、それは「人を変える事は決して出来ない」という事だ。

 唯一変えられるのは、ほかならぬ自分自身である。自分はこのままではいけない、そう骨身に堪えた時、人は己を変える事が出来る。

 人は絶対に変わらない。そう、子とはいえ親を変える事はできない。勿論、親も子を変えられない。

 同じく過去を変える事はできないが、未来を変える事はできる。

 年の功か、今ならそれがよく分かるが、退園した当初にはどうしても分からなかった。

 何とか両親を変えようとした。姉や私に優しくなるように変わって欲しかったし、過去の仕打ちを謝って欲しかった。同じ事を未来に繰り返して欲しくないと、良い親になって欲しいと切に願った。私が頑張れば、愛情を持って接すれば、両親は変わってくれるのではないかと期待を捨てられなかった。

 だが駄目だった。悲しいほど駄目だった。

 二言目に

「また光の園に逆戻りさせる。今度は一生だ」

と言うのには耐えられなかった。それこそ毎日言われた。

 両親には脅しの、そして従わせるが為の言葉だったのかも知れない。しかし私には冗談じゃない言葉の暴力だった。そう、両親の交換条件は尽きなかった。

「だってそうでもしないとあんたは言う事を聞かないから」

 それが二人の言い分だったが、私は「そうしたくない」から「そうしない」のだ。理由があるから、私にも主義があるから、それを曲げられないから、だからそうしなかった。理解されず、相変わらず脅され続け、交換条件も付きつけられ、嫌で、やりきれなくて、泣いてばかりいた。そう、光の園に叩き込まれて間もないあの頃のように。枯れない涙に辟易した。


 どうしてうまくいかないのだろう。私たち親子は、元々縁がなかったのだったのだろうか。親子とはいえ相性はある。子どもは親が作った環境の中で生きていくしかない。どうしてもそれが嫌なら、心に傷を負ったまま飛び出す事になる。一度は愛情を注ごうとした両親を再び憎んでしまいそうだった。

 そして次第に、光の園に入る前と同じ事を繰り返しそうになっていった私は、それこそ再入園させられるのを恐れ、退園後わずか9か月(偶然なのか、私は光の園にもちょうど9か月いた。まったく同じ長さの時間、「出来ない我慢をした」という事になる。そしてそれぞれの9か月間が私の限界だった)で東京にアパートを借り、逃げるように家を出た。どんな犠牲を払っても家を出たかった。

 そしてその後丸11年、実家と断絶した。母は祖母の妹と、裁判をし、負け、断絶した。叔母と「断絶した」から、私に「断絶された」ような気がする。つまりやった事が巡り巡って返って来たという事だ。


 わずかな収入で生活費をまかなうのは確かに大変ではあったが、精神面では家にいた頃よりずっと安らげるようになった。風呂なし、共同トイレ、駅から遠く、日も当たらない4畳半ひと間の部屋が最高に居心地の良い快い場所になった。金で買えない穏やかな生活が、ようやく送れるようになった。ああ、こんな静かな暮らしがあったのかと驚いた。

 誰も私に暴力を振るわない。誰も私に暴言を吐かない。誰も私を追いつめない。誰も私を否定しない。誰も私を脅さない。誰も私をいじめない。

 つらい幼少期と少女時代を過ごした私がいちばん望んだのは、外ではどうあれ帰りついた家は、心から安らげるほっとできる場所である事に、ほかならなかった。外には外の、家には家の戦場を築いていた父と母は、一体どこで休んでいたのだろう。


 しかしひとつ、困った問題が頭をもたげてきた。それは他ならぬ私の血の中に父と母がいた、という事だ。それはどうしようもなかった。気がつくと私自身が修羅場を起こしているのだ。普通にしていればうまくいく所を、わざわざうまくいかないようにしていた。 

 何故か素直になれず、斜に構え、人の言葉を悪く取ったり、わざわざ厄介なものを選び取ったり、揉めるように揉めるように立ち回ってしまっているのだ。

 はて?これはどういう事か?答えはずっと出なかった。自分でも分からなかったから。

 そう、10代で荒れ狂い、どうしてそんな風にするの?と周りに聞かれ、答えられなかったように。


 回答は意外な時にひょっこりと出てきた。人は与えてもらったものしか持っていない。

 優しくされた人は優しさを、冷たくされた人は冷たさを持っている。虐待され、修羅場を否応無しに押し付けられた私は、恋人を虐待したり、自分を虐待する人をわざわざ選び取り、されて嫌だった説教をしたり、修羅場を押し付けたり、押し付けられたりせずにいられなかったのだ。そんな事、やめたいのに、つらいのに、なかなかやめられなかった。それが「慣れ親しんだ環境」だったから。いわば病気だった(その頃私の周りにいた人たちがよく我慢してくれたと、今なお感謝している)。

「ああ、私は病気だったんだ」そう気づいた時、私は37歳になっていた。37歳にして、自分が何者であるのかようやく分かったような気がした。

 幼少期から長い時間をかけ、ゆっくりと蝕んでいた病はそう簡単に治らないのでは、と不安に駆られたが、「病気なら治る筈」という気もした。では治そう、何年かかっても必ず治そうと自分に約束した。

 以来、妙な事(危ない男と関わりそうになったり、友達に悪い薬を勧められたり)に出くわしそうになると、自分で自分をセーブできるようになった。

 これは私ではなく、私の病気がやろうとしている、だから駄目、とぎりぎり堪えた。

 そのうち踏ん張らずとも、いかなる誘惑も断ち切り、跳ね返せるようになった。しばらくすると、妙な事件は私の前に現れなくなった。後から考えると、人生から試されたように思う。


 もうひとつ、神様から大きな学びを得たのが「固執しない方が良い」という事だ。

 仕事でも恋愛でも何でもそうだが、縁がない場合は何かで必ず離れる事になる。どうしても手放したくないと固執していると、神様がせっかく次のチャンスを与えようとしてくれているのに、それに気づかない事になる。

 合わないものは合わないし、ご縁がないのもどうしようもない。という事は、他に合うものがあるし、他にご縁があるという事だ。思い切って手放せば、次の縁は必ず「すぐ」つながるし、合うものに出会える。そしてその新しい縁の方が良い場合が多い。特に恋愛の場合。

 全国のストーカーの人にそう言いたい気持ちだ。


 30代前半の時、電車内で同級生に偶然出会った事がある。

 ただ懐かしくて声を掛けた私にその男性は

「何だお前、随分女っぷり上げたじゃねえか」

と言いながら、私の胸を触った。

 驚き、

「どうしてこんな事するの?」

と聞いたが、謝りもせず、にやにやしながら私の股間を平気で触った。

 我慢する事はないと判断し

「降りて」

とその人の腕をつかみ、次の駅で下ろした所

「何だ、何だ、早速ラブホテルか?」

と言いながらヘラヘラ付いて来た。

「この人に痴漢されました」

と駅員に突き出した途端に慌てふためき

「だってお前は昔遊んでいたじゃねえか」

と言い訳し始めた。

「昔遊んでいたらこういう仕打ちしても良いの?」

と反論したが

「だって、だって、お前は遊んでいたから、だからこれくらい何でもないと思った。子どもねって言うかと思った。そんなに怒ると思わなかった」

と駅員室内で喚き散らした。

「同級生のくせに自分だけ子どもぶらないで。あなたは大人よ、30過ぎた大人よ」

と本人に言い、その後駅員に

「示談金とか、そういうものはいりません。この人を刑務所へ入れて下さい」

と、毅然と言い放った私に

「悪かった、悪かったよう。俺、今度の日曜日に結婚式なんだ、だから許してくれよう」

と、情に訴えてきた。

「自分の彼女が痴漢されたらどうするの?二度とそんな事するんじゃないよ」

と啖呵を切り、反省している様子だったので一応許してやったが、電車内で胸や股間を触られた不快さ、何より昔遊んでいたから痴漢しても良いと思ったと言われた悔しさは大きかった。

 その人以外にも同級生に会った事は何回かあるが、みんながみんな、私を宇宙人を見るような目で見る上、男性陣はどの人も「やらせてくれるんだろう?」と言わんばかりだったし、女性陣は

「マリはおませさんだったね」

とやはり低く見ている様子だったし、毎度嫌な思いをした。

 もう20年近く経ったいるにも関わらず、人はいつまでも私を「そういう目」で見るものなのだと痛感し、情けなく、惨めで、段々昔の知り合いに会っても声をかけなくなっていった。

 本当に、過去も、人も、変えられない。

 だったらせめて今からでも誠実に生きようと思った。

 もうひとつ、私はもっとたいせつにされて良い存在なのでは?とも。


 そう言えば退園して間もない頃、光の園にいた頃の仲間と何度か会った。

 思い出話で盛り上がり、現況を報告し合い、笑い転げ、誰に何度会っても楽しかった。

 園にいた頃は、頭はザンギリの光の園カット、顔はすっぴん、常時ジャージの上下という姿でありそれしか知らなかったので、待ち合わせをして最初に会った時は、あまりの派手さに互いに相手を指さして大笑いしてしまった。

 お互いに退園した途端に派手になり、ついでに入園前よりワルくなったようだった。少なくとも私や彼女らはそうだった。

 大人たちに言わせれば「どこも直っていない」だったろう。ただ牙を抜かれて表面的におとなしくなるか、牙を研ぎ(ワルとして、あるいは人として)一層タフになるか、その差である。私たちはタフになってしまった方だった。


 また、入園前に遊び回っていた、大村マチコを始めとするワル仲間は、退園した当初は私を取り巻き「あの光の園にいたマリ」などともてはやしてくれたが、やはり次第にどちらからともいう事なく遠のいてしまった。

 マチコだけは後にしばらく一緒に暮らしたが、他の仲間は自然に離れた。


 妙なもので私は必死に働いていても、自分が「真面目になった」ような感覚はなかったし、そう見られるのも嫌だった節がある。

 光の園や昔の仲間に会う時は一段と濃いメイクをほどこし、派手な衣装を纏って出かけた。

 しかしそれは、案外向こうも同じ事だったのかも知れない。普段は地味な仕事に耐え、私と会う時だけワルぶっていたのかも知れない。


 あの頃の仲間で、退園してすぐ更生した奴なんてひとりもいやしない。いくら仕事を一生懸命頑張った所で、非行少年少女がそのまま大人になったに過ぎない。自分も昔はワルかった、というのが口癖で、過去の悪事を披露して、自分がいかに有名な不良であったかを自慢するような奴らだ。

 だが、誰もが年を重ねるごとに落ち着いていったのも事実だ。落ち着いていったというよりも、「忘れていった」と言う方が正しいかも知れない。

 かつて、大人は昔の自分を忘れてしまう生き物さ、と唄った歌手がいた。その通りだ。私はともすると、自分が「そうだった事」を忘れている。

 現在、多くの元ワルたちはあっさりと過去を捨て、まともな人生を送っているだろう。この私のように。


 同じくあの頃、精神を病んでいた病人さんたちで、今は正常に市民生活を送っているという人も極めて少ない。

 父親から届いた菓子を配ってくれた、あのチヨミちゃんが退園し、福祉の仕事に就いたというのは、いっとき仲間の間で有名になったが、それ以外の病人さんたちの消息はあまり良いものではない。

 家族と暮らしている人もちらほらといるようだが、ほとんどの人はどこかの病院や施設に再び入れられ、そこで薬浸けにされつつ静かに生息している。場所が変わっただけで、内容は変わっていない。

 あの経験は私たちにとって、一体何だったんだろう。今も全国にたくさんある更生施設の存在理由は何だろう。「どうしようもない人を受け入れる」という事か。


 確かに簡単にへこたれない精神は、光の園で培ったような気がする。どう打たれても必ず立ちあがれる気力、負けるもんかと歯を食いしばれる意地や根性は、入園前より退園後の方が格段に強くなった。

 だが私が10代で転落した時も、20代で挫折した時も、そこから「這ってでも、のし上がってきた」のは、自分自身がこのままで終わるもんかと強く念じたからであり、何がしかの目標を持ったからである。

 決して光の園に「立ち直らせてもらった」訳ではない。多くの収容者が立ち直ったとすれば、それは自分の問題である。光の園に導いてもらった訳では断じてない。

 では私はいったい何故、光の園と「縁を持ってしまった」のか?


 私は光の園にいる頃、何度も脱走を考えた。

 実行し、見せしめの為に丸坊主にされる女子や集団リンチされる人、反省室(別名、忍耐室とも呼ばれ、人間以下の扱いを受ける)に監禁される人等見せられて思いとどまったが、実は「まともな人生を送れなくなる」のがいちばん恐かったのだ。

 逃げてどこかへたどり着いても、光の園はどこまでも追いかけて来るだろう。そして力づくで連れ戻され、もっと酷い目に遭うだろう。

 逃げ続けても、アパートひとつ借りる事も難しいだろうし、まともな働き口も見つけられなかったろうし、何かになりたい等の夢も持てなかったろう。

 ひとところに落ち着く事さえ出来ず、常に追われる恐怖を味わい続け、気が休まる時も一生なくなる。それはまっぴらごめんだった。

 つまらない例えだが、食材のまとめ買いひとつ、友達との約束ひとつ、化粧品の定期購入ひとつ出来ない人生になった可能性が高い。その月暮らしどころか、その日暮らしを余儀なくされるのはやはり嫌だった。

 私が今「望んだ通りの人生」を送れているのは、運が良かったという事も勿論あるが、「あの時逃げなかった」というのが大きいように思う。


 私が今付き合っているのは、息子の友達のお母さんたちだ。自分がワルだった事やブチ込まれた実体験がある事など話す気はない。家族を持った以上、奇異の目で見られるのも悪い噂を立てられるのも困るからだ。

 一緒にテーブルを囲んで笑ってまあまあ楽しめるが、あの仲間たちと騒いでいた頃の「天まで届くような楽しさ」はない。どんなに仲良くなった所で、ここまでしか話せないという線引きをしている。


 光の園の仲間と会うのは楽しかった。

 話も合うし、気心も知れている。私たちは同じ修羅場を共にくぐった「戦友」だったのだから。

 それなのにどうしてだろう。私は次第に誰とも会わなくなり、電話連絡する事も、手紙のやり取りもなくなっていった。27歳を過ぎた頃には、誰がどこでどうしているのかなど、知る術もなくなった。


 最後に会ったのは、ヨウコだった。

 調理師になったヨウコは、光の園で私にいじめられた事を恨む事なく、気持ちよく付き合ってくれた。

 この子はどうしてこんなに心が広いのだろうと思った。

「またね」

と笑顔で分かれたが、その「またね」が実現する事はなかった。

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