第19話

 …そして今朝、新聞で光の園が閉鎖された事を知った。


「狂気の園」は脱走しようとした少年16名を「反省室なる密室」に監禁、7名を死に至らしめた。

 4人は度を越した体罰による外傷性ショック死。3人は凍死。残り9名も餓死寸前の極めて危険な状態で保護された。

 警察は光の園の代表である「お上人(おしょうにん)」こと剛野正弘と妻の剛野松子を傷害致死の疑いで逮捕したほか、事件に拘わった幹部僧侶を全員逮捕した。

 収容されていた人々は、すべて家族もしくは身元引受人の元に返され、園は完全閉鎖された。

 閉鎖される直前、収容者の人数は1200余名にも膨れ上がっていたのだった。


 私は溜息をついて、新聞を床に投げ落とす。


 頭の中は雪よりも真っ白だった。

 もはや何も考えられず、何も出来ず、ただ茫然としていた。


 しばらく立ちすくんだ後、だらだらとカーテンを開け、ベランダに出る。そして慌ただしく出勤していく人々を眺めつつ、このマンションに施設や少年院あがりの「元非行少年少女」は何人いるのだろうと考えた。

 そんな人はひとりもいないような気がする。世界中にただのひとりも。

 今日の新聞に載っている、閉鎖された更生施設の「卒業生」が今ここでこうしているとは、誰も想像さえしないだろう。


 あれから私は何をして生きてきたのだろう。

 昭和という時代はとうに終わり、平成さえ終わり、私は新たに始まった時代をひたすら堅実に生きようとする57歳の主婦になっていた。

 そう、あの日から丸40年もの気が遠くなるような歳月が流れていた。


 退園してからモデル、美容師や結婚式場のヘアメイク(夢は少し叶った訳だ)、デパートの店員、コンパニオン、クラブホステス、企業の受付、販売員、事務員、派遣、秘書、婚礼や葬儀の司会者など、様々な職業を転々とした。希望を持ち、懸命に働き、輝いた時代もあった。


 18歳でスカウトされ、所属したモデルクラブの仕事で美容雑誌の仕事をした際、私の纏う衣装やアクセサリー、髪型、化粧品の問い合わせが集中し、電話線がパンクした事がある。

 救世主と呼ばれるほど発行部数を伸ばし、マリちゃんブーム到来ともてはやされ、イベントを行なった際、大勢集まったカメラ小僧のいちばん人気を博したモデルは私だった。矢継ぎ早に焚かれるフラッシュに心酔したものだ。

 また、美術学院で仕事をした際には、多くの生徒や講師から

「あのモデルを是非」

と毎回指名を受けた。

 特に雑誌の撮影現場では皆にちやほやされて気分が良かったが、ひとつの仕事に対していくらのギャラ、というスタイルだった為、生計を立てるには厳しく、アルバイトをせざるを得ず、ましてレッスンを受けるのに毎回料金はかかる上、夜間の美容専門学校にも通っていた為、常に時間もお金もなかった。

 子どもの頃にバレエを習っていたおかげか、姿勢が良い、立ち姿も美しいと褒められたが、いわゆるダンスは下手で、歌も決してうまいとは言えない上、表現力にも乏しく、歌手や女優、ダンサーに転向する事は到底出来ず、専属モデルとして活動した美容雑誌の売り上げも次第に低迷、事務所の契約更新は叶わず、タレントとしては短命だった。


 ただそのおかげで、20歳で美容学校を卒業と同時に就職、美容師として生計を立てる事は出来、勤めていた大手の美容室でも上司や先輩みんなに可愛がられ、お客さんからも慕われ、本社でも評判の高い美容師になれ、その年大勢いた新人の中から特別賞を受賞出来た。

 美容師としては、結婚式場で働くまでになれ、美容学校の同期に出世頭と羨望された。花嫁や親族等のヘアメイクを手掛けるのは楽しかったが、拘束時間が長い割に給料は少なく、特殊な姿勢で仕事をする為に腰痛に悩まされる上、手荒れも酷く、何より年配の女性がメインの職場において働く者同士の人間関係もうまくいかず、大勢の中にひとりぼっちでいる事に耐えられず辞めた。


 ただそのおかげで、23歳で始めた販売員としては一目置かれる存在になれ、全国規模の百貨店でレザージャケットの販売の仕事をした際、単価が高かったというのもあるが、売上高全国一位を取り、全従業員の前で表彰され喝采を受けた。

 店に入って来たお客さんに似合う商品をドンピシャリと出せ、相手の目が輝く瞬間が楽しく、購入したお客さんが喜んでくれる事にやりがいを感じていたし、拘束時間もそれほど長くはなく、給料も美容師より良かった。

 会計を済ませたお客さんに手入れ法を書いた能書(のうしょ)を見せ

「お買い上げいただき、誠に有難うございました。こちらにお手入れ方法書いてございますのでお目通し下さい。それではどうぞ、お品物をたいせつになさいませ」

と言って商品を手渡す時、相手が「本当に買って良かった」をいう顔をしてくれる瞬間が好きだったし、上司が他の販売員に

「沖本の接客を見習え」

と言ってくれ誇らしかったが、丸一日立っているのが段々つらくなり辞めた。


 ただそのおかげで、25歳から始めた営業の仕事ではなかなかの成績を上げる事が出来、バブル経済の勢いを借りられたという事もあったが、勤めていた不動産会社で並みいる男性営業マンをおさえ、トップセールスレディとして君臨出来、不動産業界のマドンナとして雑誌に掲載された事もあった。

 厳しい条件を掲げて来る客と渡り合い、取引先の男性営業マンやオーナーさんとも対等に仕事をし、次々に契約成立させ、何か月間か契約件数ナンバーワンを誇り、最高月収150万(完全歩合制だった為)を勝ち取った。

 豪遊も経験し、幼少期にお古ばかり身に付けさせられたり、父にタオルキチガイと言われ、タオルさえ満足に使わせてもらえなかった恨みを晴らさんばかりに高級タオルをふんだんに揃え、洋服も滅茶苦茶に買い漁り(クリーニング代だけで10万円払う程だった)、棚やクロゼットを満杯にし、客を洗脳せんばかりのトークを展開し

「今日も沖本節、炸裂」

と周囲に言わしめたが、美容師や販売員時代と違い「お客さんが喜ぶかどうか」に焦点を当てて仕事をしていたとは言えず、自分の売上額ばかり考えていたように思う。

 お客さんが本当は望んでいない物件に、半ば強引に契約させた事もあり、

「今月も沖本ダントツ!」

と上司に言われてもあまり嬉しくなく、心の奥底でそのお客さんに申し訳なくて沈んだ。

 その上、直属の上司に「休みなしでも働けるように」という理由で麻薬を勧められ、恐ろしくて逃げるように退職(中学時代にシンナー遊びをし、脳が解けていくような感覚を恐ろしいと思った経験が、ここで役に立った)、次に入った会社でも好成績は上げられたが、そこの男性社長に自分の不倫相手の女性社員のサポートをする事を強要され退職、業界内で3回転職したが、いずれも不倫や麻薬、暴力、客との駆け引きが横行しており、私のいた3社がたまたまそうだったのかも知れないが、もう不動産業界は無理だと思い1年足らずで辞めた。

 長続きしなかったのは、私の心の片隅にあった良心が、こんな仕事の仕方は嫌だと悲鳴を上げてくれたからだろう。

 その後、派遣、コンパニオン、水商売を経験する事になる。


 仕事がすべてではないが、仕事や人間関係がうまくいっていると人は幸せを感じるものだ。

 だが何をやってもうまくいかず、やけをおこした時代もあった。そしてその時代は、とてつもなく長かった。

 どうしてもその仕事が好きになれず、関心がない為に覚えられず、周囲に給料泥棒と言われ、自分でもそう思った(本当に惨めだった)。


 ただそのおかげで、後々愛社精神を持って働ける会社に出会え、敬愛出来る上司にも恵まれ、友達も出来たし、給料も良かったし、長続き出来た。

 この会社が好きだ、明日も来年もここで働いていられたらいいなと思える事が有り難く、まあまあ良い状態が続いた。もしここを辞めるとしたら、それは嫌な事があって辞めるのではなく、良い事があって辞めようと思え、実際そう出来た。


 人は「その職業の顔」になる。私は転職するたびに自分の顔が変わるのを鏡の中に見てきた。

 合う仕事に出会えた時、極められた時、称賛された時、やはり「いい顔」になれた。

 そして合わない仕事をしている時、認められない時、上に登れない時、辞めたいと悩んでいる時、やはり「そういう顔」になった。使っている脳の部分が違うという事か?

 特にモデルをしていた頃、いわゆる「モデル顔」になれたし、美容師時代も「美容師顔」になった。

 だがお客さんを騙すような仕事をした不動産会社時代には「悪徳業者」という顔になったし、水商売をした時にも「いかにもホステス」という風貌になり、自分でも恐ろしかった。


 社会は真面目に働き続ける人しか雇わない。若いうちはいかに楽をして稼ぐか、手を抜くか、真面目にやるなんて馬鹿馬鹿しい、と思いがちだが、いい加減な仕事をすればすぐ切られ、またどこかへ職を求めなければならなくなる。

 軽はずみでいい加減だった私は次々に職を失う羽目になり、真面目な人しか生き残れない、真面目にやった方がむしろ得だという事をその経験から学んだ。

 ならば給料以上の働きをしよう、同じ給料ならたくさん働こう。遅刻すれすれより、時間に余裕を持とう。誰より私が私の目を見張らせ、感心させようと思えるようになった。実際、真面目に誠実に生きる方が人生は楽しいと学んだ。


 光の園にいた頃、退園さえすれば、シャバにさえ出れば、後はどうにかなると思っていた。しかし実際は、園の中にいた時間よりも退園してからの方が余程長く、それは決して何とかなるようなものではなかった。

 16歳で飛び出した社会も甘くなかったが、退園以降に経験した社会も、決して甘くなかった。大人を、社会を舐めてはいけないと、嫌と言う程学んだ。

 頑張ればきっと良い暮らしができると我慢した日も、いくら辛抱しても神様はご褒美なんてくれやしないじゃないかと苛立った日もあった。

 ほどなく酒に溺れる生活を送るようになり、どうせ毎晩飲んでいるのだからと水商売を始め、生活も精神も健康状態も、それこそ何もかも滅茶苦茶になった。 

 家庭のある男と付き合ったり、格好だけの男に危険だと分かっていながら近づいたり、ひどい恋愛を繰り返した。

 精神が壊れそうになるくらい好きな人もいたが、その人はあまり私を好きではなかった。反対に、私を愛するがあまり気が狂いそうになっている人もいたが、私はその人をあまり好きではなかった。

 同じ職場の人と付き合い、「恋人でしか分からない事」を社内で言いふらされ、居たたまれず辞めた事がある。

 またある時付き合った人は

「俺は前の彼女に騙された。だから人を信じない」

と言い、私に騙されまいと構えすぎる為、一緒にいてつらかった。バレンタインデーにチョコレートを渡した時も、その時は大喜びで受け取って得意そうにしていたが、ホワイトデーにお返しのひとつもくれず、試しに

「今日、ホワイトデーだよ」

と言っても

「俺はお返しなんかした事ないから」

と即答して来た。

「人に何かしてもらって当たり前と思っている?まあいいわ、もう二度と何もしてやらないから」

と言った私に、不満そうにふくれっ面をしていた。勿論二度と相手にしなかった。


 またある人は、今はもう辞めたが、過去にホステスをしていたと正直に話した私に

「ますます好きになった。あなたは俺に、私のすべてを見て、と言ってホステスをしていた暗い過去を話してくれた」

と言いのぼせていた。

 水商売をしていたというのはあくまで私の一部であり、すべてではないし、決して暗い過去でもないと何度言っても理解せず、それ以降いつまでたっても「水商売の女」と扱い続け、何かにつけ私をいじめた。

 自分が待ち合わせに遅刻しておいて

「水商売の女だから時間にルーズかと思った」

と言ったり、親指と人差し指でクイっと一杯引っかける仕草をしながら

「あなた、コレやってる時に聞いた事ない?」

と全然関係ない話の途中に言ったり、道を歩いている時にホステスらしき女性を見ると

「ほら、あなたの仲間だよ」

とも言った。

 また居酒屋で飲食している時に、ビールを酌する事を要求しておきながら

「やっぱりこういう事は手慣れているね」

とも言った。耐えられずに別れてくれと言った私に

「こういう考え方もあるよと、言いたかったんだ」

と言い訳したが、私はけんもほろろに切り捨て、二度と相手にしなかった。ただ過去を正直に言えば良いというものではないと学んだが。


 格好の良い外車を乗り回しながら、運転席にだけエアバックを取り付け、助手席には取り付けず、事故の時に自分さえ助かればいいのだと豪語している人もいた。

 この人は、ここで待っていろと突然街中に私を置き去りにした。こういう逃げ方をする人なんだと納得し、私はまったく追いかけようとしなかった。

 他に置き去りにした女性はみんな自分を追いかけて来るのにまるで追わない私が信じられなかったらしく、私の様子を知ろうと無言電話を繰り返した上に、私の友達に私がどうしているか探りを入れるという見苦しい事をした。


 また、私の部屋の電気のスイッチ(たったの3つしかない)の位置を何回教えても覚えられず、パチパチ付けたり消したりを繰り返し、ビデオのリモコンの使い方も何度教えてもどうしても理解出来ず

「ねえ、これ、どうやってやるの…?」

と10回くらい聞いてきた上、私が面白いと勧めたビデオを5分も見ないうちに

「つまんない!」

とリモコンごと投げ出した人もいた(なんて大人げないのだろうと呆れた)。


 また、当時まだ30歳の私に

「もう愛だの恋だのそんな年でもないだろう、だから結婚しよう」

と、まったく愛情のないプロポーズ(しかも、寝る寸前の暗くした部屋の中で、冷たい背中を向けながら)をして、

「あなたと居ても、イライラして全然幸せじゃないから嫌だ」

と断った途端に物凄くいじめてきたひと回り年上の人もいた。

 この人は私に振られた事を逆恨みしてアパートの窓ガラスを割って侵入しようとしたが、補助錠が外せずに窓を開けられないというお粗末な結果を生んだ。

 私はちょうど不在で恐ろしい思いをせずに済んだのは不幸中の幸いで、まして貯金があった為、すぐ引っ越し出来てもっと良い部屋に住めるようになったのでかえって良かった。 


 私のやる事なす事気に入らず、何を言ってもしても否定する人もいた。

 この人は最初、職探しをしている私に

「もしどこも雇ってくれなかったら、専業主婦に雇ってあげる」

と言ってくれ、その時は多少嬉しかったが、異常に嫉妬深く、束縛ばかりし、同窓会にさえ行かせまいとする人で一緒にいて疲れた。

 嘘ばかりつき、言い訳ばかりして(嘘や言い訳というのは、言っている本人だけが納得するものであり、聞いている方は少しも信じていない)、自己満足に浸っている上、クリスマスプレゼントと称して指輪を選んでくれたはいいが、安物しか買えないのが悔しいのか

「はい、安物」

と投げるようによこしてきた。間髪入れず

「安物ならいらない、この指輪もあなたも」

と投げ返し(その人の顔に命中してしまった)、不快でたまらず、すぐアパートから追い出した。

 その人が顔を押さえ、痛がりながら帰って行く様子を窓から見ながらせいせいした。


 孫までいながら、私を食事に誘い、開口いちばん

「実は今、女房とうまくいっていないんだ」

と、不倫相手になってくれと言わんばかりの「随分元気なお爺さん」もいた。

 その人は私がまだ食べ終わっていないのに

「もう行こう」

と立ち上がった(早くホテルへ行きたい一心だったのだろうし、それしか用事がなかったのだろう。勿論私はホテルなど決して行かなかった)。


「俺、本当に誰か好きになった事、一度もないんだ」

と言いながら迫って来た人もいた(その人は私の事も決して好きではなかった。ただの自己満足者だと思い相手にしなかった)。


「俺、たくさん恋して来たけど、あなたくらい好きになった人いない」

と、私以外の女にも言っていた人もいた。この人は当時50歳を過ぎていたがナイスミドル気取りの不倫ばかりしているナルシストで

「俺ならもっと若い女に相手にされると思う」

と仲間に吹聴し(私の耳にも入って来た)私の後輩に手を出し、すぐに振られ、慌てて私の所に戻ろうとして私にも振られ、その上妻にも離婚され、随分な醜態をさらした。

 当時私が住んでいたアパートに何度も押しかけてきて、ドアの郵便受けから中を覗き

「開けてくれー」

と大声でわめき、近所の人に通報され、

「マリ、助けてくれ」

と言いながら警察官に引きずって行かれ、パトカーに押し込まれ、連行され、本当に見苦しかった(その後どうなったか知らない)。


 質問に質問で返答し、まるで会話が成り立たない上に、普段左側に置いてある箱を右側に置いておいただけで、ないないとパニックになり騒ぐ人もいた(その姿を見てすぐ醒めた)。この人は最初

「幸せにする自信がある。俺を信じろ」

と言ったが、つまらない事ですぐに切れ、暴力で自己表現するしかなく、しかも暴れた後毎回泣いて謝る人で手を焼いた(俺を信じろという男ほど信じてはいけない男はいない、とはこの事だと学んだ)。

 顔だけは映画俳優になってもいいくらい二枚目だったが、性格が悪いが為にその端正な顔を年中醜く引き歪めていた(その顔を見てますます醒めた)。


 二枚目も不細工も、3回で慣れる。

 性格の良い人は何度会っても飽きない。

 頭の良い男は何度会っても勉強になる。

 男は星の数ほどいるが、自分と縁のある人は滅多にいない。

 何より、私に恋してくれる人が、愛してくれるとは限らない、恋と愛は違う、趣味が合っても価値観が合わなければうまくいかない、例えお互い好きでも「縁がなければどうしようもない」と、もう勘弁してくれと言う程学んだ。


 何故か、私を軽んじる人が多かった(私が私を軽んじていたのかも知れない)。

 そして私をいじめる人も多かった(私が自分をいじめたかったのかも知れない)。

 私を嫌いながら交際する人もいた(私が私を嫌いだった。誰に嫌われてもつらいが、自分に嫌われるほどつらい事はない)。

 まれに私をたいせつにしてくれる人もいたが、私は何故かその人を選ぼうとしなかった(幸せになってはいけないと、私が私に罰を与えたかったのかも知れない)。

 そう、嫌われたり馬鹿にされたり、軽んじられるほどしんどい事はなく、たちまち酒の量は増え、恋人も友達も失い、人の信頼も、自己信頼も、仕事も、金も、次々に失った。

 私は惨めさと闘いながら、何故自分は男性からも仕事からも人生からも、そして何より、自分自身からも愛されないのだろうと、もがき苦しむ日々を送った。

 今度こそ、今度こそと同じような男を相手にし、わざわざ大変な仕事にトライし、ことごとく失敗した。

 あまりにも長い挫折期間に音を上げ、どの企業からも相手にされず、男性からも相手にされず、就職とはどうすれば出来るのか?恋人とはどうすれば出来るのか?と頭の上に大きな疑問符を乗せながら生きた時代もあった。

 恋愛の仕方も、仕事の仕方も、人間関係の取り方も、何もかも分からなくなった。私にはもうこんな仕事しかないのか?こんな男しか残っていないのか?とさえ思った。

 だがやはり不幸な結婚も就職も人生も嫌だった。絶対に幸せな結婚と就職と人生が良かった。絶対に。

 だがなかなかそれは叶わず、毎日がつらくて情けなくてたまらなかった。

「見えない檻」の中に閉じ込められているような、がんじがらめの束縛を常に感じていた。この檻から出たい、出たい、そう願った。そう、光の園に居た頃のように。

 囚われの身から自由の身になれたと思ったのに、見えない檻の中にいるのでは、何も変わらないではないかと自分の不運を呪った。変に自虐的になり、わざわざ傷つき、その傷によって前の傷を忘れようと、おかしな行動を散々した。自分は目に見えぬカタワ者ではないかとさえ思った。


 だがそのひどい経験から学んだ事は多かった(つまり必要な経験だった)。

 それは自分を不幸な檻の中に閉じ込めているのは、他ならぬ自分自身だという事。

 幼少期の心の傷を断ち切れずにいるのは、親の責任ではなく、自分の責任だという事。

 何か嫌な事があって逃げても、次に行って同じような嫌な事が待っているという事。

 例えばAという困難から逃げても、次に行った所でそのAがひと回り大きくなって追いかけて来る。そこからまた逃げても、次で更に大きくなったAが待ち構えている。そのAを克服すれば、二度とAは現れない。現れたとしてもどうすれば乗り越えられるか学習しているので対処法が分かるという事。

 ただしBという課題は突き付けられるという事。だがAを超える事が出来たという自信がBに立ち向かわせてくれるという事。

 更にCという課題はやって来る事。つまり次から次へと神様は「私が乗り越えるべき課題」を突き付けてくれた。


 人は何から逃げようとも、自分の人生からは逃げられないし、誰の目をごまかせても、騙しても、たったひとりだけごまかせも騙せもしない、本当はどうだったのか知っている人がいる。それが他ならぬ自分だという事も学んだ。

 また、10代で道を踏み外して軌道修正するよりも、20代で転落してから軌道修正する方が、余程骨の折れるという事と、何もなさそうに、すべてうまくいっていそうに見える人でも、よく聞けば自分がその立場だったら耐えられるだろうかと思う程の、重い十字架を背負っているという事も学んだ。

 せめて30代では転げ落ちるまい、誰も祝ってくれなかった30歳の誕生日に、自分自身に誓った。


 31歳の時、転機が訪れた。誰かから何か特別なものを与えられた訳ではない。自分の内部で、稲妻のようにひらめきがあったのだ。

 神様が私に渡そうとしていたバトンのひとつを受け取った。


 まず私が私を愛そう。私が大事に思っていない私を誰も愛せない筈だ。

 誰か私を幸せにしてくれと願うよりも、私が私を幸せにしよう。

 私が私の喜びを何倍にもしよう。そして私が私の悲しみを、半分にも100分の一にもしよう。

 私が私のたいせつな人になり、運命の人になり、未来を切り開こう。

 安心していて大丈夫だよ、私の事は私が守るから。私が私の為に、あらゆるものと闘っていこう。

 何があっても100%、私は私の味方でいよう。

 他力本願ではなく、自力本願でやっていくんだ。

 もう二度と、人のせいにも過去のせいにもしないし、影響もされない。もう誰の顔色も見ないし機嫌も取らない。

 私の責任は私が取り、私がして欲しい事を私にしよう。駄目な私も許し、私が私の尻拭いをし、私が私の信頼回復をし、私が私の人生の最高責任者になろう。

 今度こそ、これからこそ、私は私の為に生きよう。そう思った時、人生はまた私の味方をしてくれるようになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る