第10話

 中学は勉強も難しくなるし、部活もあるし、やはり小学校とは違った。まあ、勉強は元々好きじゃなかったけどね。

 ただ小学校と違って「格付け」みたいなものがあってさ。そりゃあ出来る人は気持ちいいだろうよ。けど出来ない奴にとっちゃあいたたまれないよ。

 部活は演劇部を選んだよ。運動はとことん苦手だったし、演劇部なら楽かなと思ったからさ。芝居なんざ全然やる気ないから、役なんてもらえなかったけど。あたしは部活でも決して活躍できなかった。

 ただ、数学だけは好きだったよ。その時にちょこっと思ったのが、姉ちゃんの家庭教師も悪くはなかったのかなって事。ほかの教科はまだしも、数学だけはいつもまあまあの成績をおさめていられた。ドンピシャリ!と合う瞬間がたまらなく好きだったさ。

 数学担当の先生も、可愛がってくれたしね。他の教科は、まあ何とか付いていけてるって感じ。

 母さんは

「数学はもういいから他の教科を勉強しなさい。得意なものは苦手なものを克服してからやればいいのよ」

って言っていたけど、苦手なものって楽しくないからやりたくないんだよね。好きなものならやっていて楽しいからいくらでもやるけど。

 あたしはその頃、漠然とだけど「好きな教科を究めれば、後の教科は何とか付いていくものじゃないのかな」って思っていた。母さんには通じなかったけどね。


「ノックもせずにいきなりあたしの部屋の襖、開けるのやめてよ」

そう言ったあたしに母さんが言う。

「じゃあこれ付けて」

 何のおまけか知らないけど、襖に掛かるよう紐の付いた札を出してくる。表に「勉強中」と書いてあり、裏に押し花がされてある。勉強なんてしねーからさ。いつも押し花の方を向けていたら、また母さんがいちゃもん付けて来る。

「あんた、気を付けて見てるけど、勉強中にならないじゃない」

  …する訳ねーじゃん。どうせ死ぬんだから。どうせあたしゃ生きた死体なんだから。

 勉強して欲しいなら、死んだものと思ってるからねって言うのやめればー?


 通っていた中学は、家から歩いて10分程度だった。別に苦になる距離じゃなかったけど、ある朝登校しようとしたあたしに父さんがこう言った。

「お前、学校行くなら送っていこうか?」

  何とまあ、珍しい事。たまにはその親切に乗ってやらあ。

 父さんの運転で学校の前まで送ってもらい、じゃーねー、と言って降りた。

 振り返らず学校前の坂を駆け上がる。後ろで急ブレーキとドスン!という音が聞こえたが、まさかうちの車じゃないだろうと気にせず教室に入った。

 後から登校してきた男子が、目を真ん丸くしてあたしに言ったよ。

「お前の親父さんの車、事故に遭っていたよ」

「え?」

  何の事か分からない。

「だからお前が降りた後にすぐ別の車と衝突していたよ」

 そうだったの?急ブレーキとドスン!という鈍い音を思い出す。分かったような、分からないような、フワフワした気持ちのまま過ごす。


 家に帰ると、父さんが首にムチ打ちのギブスを巻き、右腕にも右足にも包帯を巻いた姿でいた。入院していないって事は軽傷で済んだって事かな、と思いながら

「父さん、大丈夫?」

と声をかける。そして返ってきた言葉に驚愕した。

「お前を送って行ったりしなければ良かった。そうすればこんな事にならなかった」

 絶句したよ。親なら他に言う事あるんじゃないの?

「事故に遭ったのが、お前が降りた後で良かった」

とか、何とか。

 不満満面で立ちすくんでいると、父さんも不満満タンって顔で言う。

「本当の事じゃないか。お前のせいで、俺は酷い目に遭っている。お前のせいでな!」

 父さんはどこまでいっても子どもだった。48歳の子どもだった。母さんは母さんで、ぶつけられた車の修理代の心配ばかりしていて、父さんの怪我の心配は一切していなかった。43歳の子どもだった。

 この亭主あって、この女房あり、だった。


 でね、その直後にもうひとつ事件が起こった。

 住んでいた社宅のベランダに置いていた粗大ごみを、いい加減捨ててくれとお隣さんから苦情が来たのだ(苦情が来た事自体は事件ではなかった)。地震や火事等の非常事態にお互い避難が出来なくなるから、というお隣さんの言い分は正しかった。

 だが父さんは怪我が治りきっておらず力仕事が出来ない。勿論、母さんも姉ちゃんもあたしにも無理。 

 で、便利屋に頼もうという事になった。費用は掛かるがお隣さんに迷惑をかけるし、非常事態がいつ起きるか分からない。

 父さんが電話帳を見て便利屋を探し、電話をかける。電話に出た便利屋が、父さんから名前、住所、電話番号等、ひと通り聞きだした後こう言ったそうだ。

「もうキャンセル出来ませんし、キャンセルしてもお金だけはもらいます」

 そんなのおかしいだろう。その時点で電話なんか切っちまえばいいものを、浅はかな父さんはこう思ったそうだ。どっちにしてもお金を取られるなら頼んだ方がいいだろう。もう名前も住所も知られてしまったし、何かされたら困る。父さんはその便利屋に粗大ごみの撤去を依頼しちまった。


 翌日、男の人が二人来てものの3分くらいで粗大ごみを片付けて行った。玄関で父さんがお金を払っている。2万3000円。…随分、高いな。

 便利屋が

「領収書です」

と言いながら父さんに紙を渡した。父さんはちらっとしか見ず、受け取った。二人の便利屋は帰って行く。父さんが紙を食卓の上に置き、財布をしまっている。

 何気なくその領収書を見てあれっと思う。そこには作業時間が「二時間」となっている上に領収書の金額の所に「×印」がしてある。…普通2万3000円、と書いてある筈。おかしいだろう、と思っていたら、電話が鳴る。父さんが出たらその便利屋からだった。

「うちの若いのがちゃんと仕事しましたか?」

そう聞かれたらしい。

 父さんが答える。

「はい」

 電話は切れた。

 …また何か、違和感が残る。


 その3日後、一枚の払込票がうちに郵送されてきた。その便利屋からだった。払込票には「2万3000円」の数字が並んでいる。あれ?この前その場で現金で払ったじゃん。

 母さんが騒ぐ。

「詐欺よ、詐欺!詐欺に引っかかったわ!!」

 父さんが混乱している。

「俺、払ったかどうか分からなくなった」

 でもあたしは父さんがお金を払ったのを確かに見ている。

「父さんは間違いなくお金を払ったよ」

 一生懸命言うが、父さんは首をかしげるばかりだ。

 母さんが勢いづいて言う。

「警察に言おう!闘うのよ!!」

 父さんが困り果てた顔で言う。

「そんな事したらやくざが出てきて何されるか分からない。もう1回払おう」

「冗談じゃないわよ!何で詐欺に、お金どんどん払わなきゃいけないのよ!」

「うちの会社で、やくざと喧嘩して顔を切られたのが二人いるんだよ。やくざは怖いよ」

「そんなの関係ないでしょ!」

「その二人、今も顔に傷残ってる。治ってない。やくざは怖いよ、払おうよ」

「嫌よ!払わない!」


 闘う姿勢満々の母さんが、区でやっている無料の弁護士相談に申し込んだ。家族4人でぞろぞろ行く。父さんは杖を突きながら歩く。

 母さんが弁護士相手に一生懸命説明する。便利屋に雑用を頼んだ事、電話で名前や住所、電話番号を言った後でもうキャンセル出来ないし、してもお金だけはもらうと言われた事、ものの3分くらいで作業を済ませておいて作業時間2時間と記入してある上に、確かにお金を払ったのに領収書の金額の所に×印がしてある事、払込票の支払い期限が一週間後である事。

 まるで造花教室で生徒さん相手に講義を行なっている時のように、凛としている母さんは正しかった。

 老いた男の弁護士は眼鏡をズリ上げながら、はあはあと相槌を打ちつつ聞いている。

 横から父さんが口を挟む。

「うちの会社でやくざと喧嘩して、顔を切られたのが2人いるんですよ」

 母さんが言う。

「あんた、関係ない話をしないで」

 父さんが混ぜ返す。

「だって同じやくざじゃないか」

「この便利屋は悪徳業者であって、やくざではないでしょう」

「やくざだよ、同じやくざだよ」

「違う、払う事ない!」

「嫌だよう。怖いよう。じゃあお前、俺が殺されてもいいんだな!」

「殺しはしないでしょ」

「やくざは殺すよう。誰が俺を守ってくれるんだよう。どう守ってくれるんだよう。警官がずっとうちの前に立っている訳にいかんだろう。俺、会社行く時とかに突然切り付けられたらどうするんだよう。本当に殺されるよう」

「大丈夫よ」

「どうして断言できるの?どうして?どうして?俺、脅されてるんだよう!」

「脅されてる訳じゃないでしょう」

「脅されてるよう!殺されるよう!怖いよう!」

 老弁護士の前で、見苦しい夫婦喧嘩が繰り広げられる。どうやらこの爺さんは役に立たなそうだ、というのはあたしにも分かった。

 爺さんが言う。

「すぐ隣が警察です。被害届け出したらどうですか?」

「そうします!」

 母さんが間髪入れずに答え、見るともう立っていた。このジジイは使えないと思ったんだろう。

 母さんがその足で警察に向かう。何をも顧みずに真っすぐに突き進むその姿は、まるでジャンヌダルクのようだった。父さんと姉ちゃんとあたしは、母さんの勇ましい背中を見ながらぞろぞろ付いて行った。

 警察でも母さんは雄弁だった。若い婦警さんがメモを取りながら対応してくれる。この人は使える人なのか、どうなのか、と思っているとこう言われちまった。

「すぐ隣で弁護士相談やっています。行ってみたらどうですか?」

 …こいつも使えない奴だ。母さんが怒りを堪えながら言う。

「今、行ってきました。そこで警察に届けろって言われたんですけど…」

 てめえら!たらいまわしにする気か!と言いたげだった。婦警さんは一応受理してくれた。が、あまり役に立たなそうな気もした。


 家に帰ってから、母さんが凄い勢いで父さんをなじる。

「あんたが悪いのよ!あんたが!そんな便利屋なんかに頼むから」

「だって俺は怪我していて力仕事なんか出来ないから、しょうがないじゃないか」

「キャンセル出来ないし、してもお金だけはもらうって言われた時点で電話切れば良かったのよ!」

「今更そんな事言ってもしょうがないじゃないか。俺はとにかくやくざが怖いんだよう」

 居丈高な母さんに情けない父さん。

 姉ちゃんもあたしも聞きたくなかった。

「俺、やっぱり払う。その払込票返してくれよう」

「嫌!お金がもったいないから!」

「怖いよう。仕返しが怖いよう。俺は脅されてるんだよう」

「だから脅されてる訳じゃないでしょうが、もうしつこいねえ」

「脅されてるよう。怖いんだよう。払おうよう。殺されるよう」

「駄目ったら駄目!払ったらもっともっと、ってお金を要求されるよ!全財産むしり取られるよ!借金してまでお金払わされるよ!だったら今闘うのよ!」

「これ以上要求されたらそれは断る。だから今回だけ払おう。仕返しが怖いんだよう」

「それを断るならこれも断るべきよ!今闘うのよ!勝つのよ!!」

「怖いよう、怖いよう」

「じゃああんた、払ったらおさまると思うの?」

「うん!おさまると思う!」

「おさまる訳ないでしょ」

「おさまるよう!お前、俺が殺されてから涙流したって遅いんだぞ」

「あら、あたし涙なんて流さないわ」

 薄情かつ強気な母さんは払込用紙をどこかにしまい、決して父さんに返さなかった。支払い期限までの一週間、怖い怖いと吠え続ける弱々しい父さんと、消費者センター等、あちこちに電話をかけて相談しまくる母さんに辟易した。


 その消費者センターの相談員の人だけは、きちんと対応してくれたよ。どうすればいいか、理路整然と教えてくれたし。便利屋に何度も電話して、今後は沖本家に直接電話せず、自分を窓口にするように言ってくれた。それで父さんの恐怖はかなり軽減されたようだった。

 だが、父さんの自筆で「自分は二度目の支払いには応じません」と書いて書留で送るよう指示された時は抵抗した。

「そんなツケツケ書いたら俺、刺されるよう」

だって。

 ツケツケ書けよ。刺されろよ。そう言わんばかりに母さんは強引に書かせ、コピーを取り、原紙を郵便局から簡易書留で便利屋に送った。

 事故で右腕と右足を負傷している父さんは、気弱に吠えるばかりで暴力さえ振るえない。ああ、事故も悪くないな、なんて思ったさ。

 でね、スゲー矛盾してると思ったんだけど、うちは玄関の鍵を掛けないんだよ。出掛ける時は一応掛けるけど、誰か家に居る時は開けっ放しなの!普通に考えると危ないよね。ましてや泥棒に入られた事があるってーのに。

「玄関の鍵くらい閉めた方がいいんじゃない?」

って言っても

「だって、お前たちが出入りする度に開け閉めするの面倒だし」

だって。

 父さんが何より恐れているやくざが入ってきたらどうするんだろうねえ、相変わらずよくものを考えないんだねえ。怖がるばっかりで危機管理出来ないんだよねえ。

 あたしが鍵を掛けて家にいると、学校から帰って来た姉ちゃんが

「鍵なんか掛けんなよ!」

ってののしるし。何で鍵掛けて怒られなきゃいけないんだよ。

 学校から帰って来たあたしが、今日は鍵かかってるのか?と思いつつドアノブひねると開いている時も多かったけど、かかっている事もあった。で、鞄から鍵をもぞもぞ取り出すと、中からアホ面した母さんが、誰か確かめもせずに親切ぶって開けて来るし、鍵を取り出す手間が無駄になるからほっといてくれりゃあいいのに!それに、もしそれがあたしじゃなくてやくざだったらどうすんだよ!やくざ相手にドア開けんのかよ!

 もう!3人とも!やってる事おかしいだろ!


 そして支払い期限当日、父さんの興奮と恐怖は最高潮に達していた。

「お前、頼むから払込用紙くれ。今日払わないと俺、本当に殺されるよ!」

 甲高い声でキャンキャン吠える。弱い犬ほどよく吠えるってこの事だね。

 母さんが無言で首を横に振り続ける。ああそうだよね、父さんが在職中に死んだら1億円入るんだもんね。そりゃあ願ってもない事だよね。棚からぼた餅ってこの事だ。

 父さんが1オクターブ声を張り上げて言う。

「顔切られたらどうするの?」

 母さんが平然と言う。

「形成外科に行って縫ってもらおう」

 父さんが2オクターブ声を上げて言う。

「お腹刺されたらどうするの?」

 母さんがもっと平然と言う。

「誰かが救急車を呼んでくれる」

 父さんが3オクターブ高い声で言う。

「殺されたらどうするの?」

 母さんが身じろぎもせずに言う。

「犯人捕まるでしょ」

「だって、逃げちゃったらどうするの?俺、俺、俺、死に損じゃん」

 オレオレって、どもるなよ。

「俺は酷い目に遭っている」

とか

「やくざへの対応で頭がいっぱい」

とか

「マリのせいで事故に遭って、怪我して力仕事出来ないからこんな事になった。マリのせいだ。マリのせい!本当にそうじゃないか。どうしてくれるんだよ!」

とか、もう聞きたくないよ。そんなに酷い目に遭ってねえだろ!人のせいにしてばっかり!そんなに言うなら、いっそもっと酷い目に遭えよ!死ねよ!

 前に、日本の警察は優秀だから悪い事したらすぐ捕まるとか言っていたくせにさ。だったら例え殺されても犯人はすぐ捕まるだろうが!安心して殺されろよ!


 そして夜は更け行く。12時を過ぎる頃、俺の命は終わった、とばかりに父さんは布団の上に崩れ落ちた。

「俺は殺される」

そう言って気絶するように寝ちまった。おーおー、殺されろよ、確実にその心臓止めろよ、静かになるからよ。1億円入るし。ウハウハだよ!


 だからさ、翌朝父さんが起き上がった時に思わず言いそうになったよ。

「あれ、生きてんじゃん」

って。真っ青な顔で食事もせずテレビを見続ける父さん。ああ、食欲はなくてもテレビだけは見るんだねえ。


 でね、しばらくしてから知った事なんだけど、父さんはジャンヌダルクのごとく闘う母さんと、あたしたちの為に色々教えてくれた親切な相談員の人を裏切り、自ら便利屋に電話をかけて自分の会社に払込用紙を送ってもらい、それで二度目の支払いをしたそうだ。

「仕返しが怖い」

 それが父さんの言い分だった。

「俺もケンメイに生きている」

とも言っていた。懸命と賢明、どっちのケンメイだろうねえ。あはははははは。

 それで母さんは滅茶苦茶に怒ったが、父さんは譲らなかった。母さんも譲らない人だったけど。

「高い授業料だったわねえ。高いわねえ、高いわねえ」

って何回も言っていた。もううるさいよ、しつこいよ。そう言えば払った2万3000円が少しずつ戻って来る訳でもないんだし、言えば言う程悔しくなるなら言わなきゃいいのに。

 父さんは前に、あたしが友達にいじめられた時に

「お前も同じ事やり返せばいいだろう」

って平気で言っていた。同じ事を言ってやりたかった。

「やり返せばいいだろう」

って。どうして言いなりになるんだろう。

「俺の目の前で会社の奴がやくざに顔を切られた。目の前だった、目の前だった」

とかそんな事ばかり言って怖がるばっかりで、馬鹿丸出しだよ。要は甘えてるんだろうけど。自分の娘がいじめられているのに助けてくれず、あんなに偉そうに言っていたくせに、ふざけんなバーカ!


 その便利屋が3度目の請求をしてこなかったのは、消費者センターの人のおかげだったんだろうな。そいつらは、こっちが二度目の支払いをするのがどんなに嫌だったか、父さんがどんなに怖がっていたか、悩んだか、母さんがどんなに悔しかったか、うちがどんなに迷惑したか、分からないんだろうなあ。考えもしないんだろうなあ。その人たちはこういう目に遭わないんだろうなあ。

 13歳にして、詐欺に遭っちまったよ。うちは、ようやく少し静かになったさ。静かなのは短期間だったけどね。

 次の事件まで間もなかった。


 中学生になって初めての夏休みの事だった。

 姉ちゃんの帰宅時間が急に遅くなっていた。しかも浮かれていた。意地の悪いこの人でもウキウキする事があるんだ、なんだろなって感じ。

 ほどなく男がいるという事が、ご近所さんの目撃情報で判明した。ただ、相手が問題だった。

 何と、通っている学校の先生。独身ではあったけど40歳くらいの人だった。

 父さんと母さんは大騒ぎしたよ。

「とんでもない!とんでもない!!」

 キンキン声でわめく母さん。

「結婚出来ないような体になるぞ!断言する!!」

とハイテンションな断言父さん。結婚できない体ってどんなんだろうねえ。

 帰ってきた姉ちゃんを2人でふんづかまえて、延々と問いただしたり、説教をこいていた。

「友達に泣かれちゃってさあ。だから帰るに帰れなくて遅くなったんだよ」

 下手な嘘をこく姉ちゃん。

「じゃあその友達の名前言ってみてよ」

 強引な母さん。

 無理やり言わされる気の毒な姉ちゃん。

 本当にそうなのか、わざわざ電話して確認するイヤラシイ母さん。

 色々な人を巻き込み、迷惑をかけ、姉ちゃんはますますその先生にのめりこんでいったよ。


「先生の話を聞いているだけだ」

 嫌そうに言う姉ちゃん。

「嘘、絶対に嘘」

 嫌らしいものを見る目で言う母さん。

「大人の男の人の考え方とかを聞きたかった」

 踏ん張る姉ちゃん。

「じゃあ父さんの話を聞けばいいじゃない」

 こんな時ばかり、父さんを立てるずるい母さん。そりゃ姉ちゃんだって、こんな大人げなく女々しい父さんの話なんか聞きたかないよねー。リビングで延々続く押し問答が、嫌でも聞こえる。

「とにかくもう野沢先生には会わないで」

 頑張る母さん。

「分かったよ」

 返事だけして部屋に退散する姉ちゃん。

 あたしにはこんな家と親に耐えられず、「外の人」に救いを求める姉ちゃんの気持ちが分かったよ。


「マリ、野沢先生に会う?」

 いつもあたしをいじめてばかりの姉ちゃんが、珍しく優しく囁いてきた。

 姉ちゃんの好きな人ってどんな人だろう。興味が沸き、姉ちゃんにくっついて喫茶店でその人に会った。

「妹です」

 姉ちゃんが紹介してくれた。この人かって、にやりとしながら会釈だけした。

「野沢先生」

 嬉しそうに言う姉ちゃん。あ、姉ちゃんって、こんな顔するんだって思った。

 野沢先生は、普通のおじさんだったよ。

「こんにちは。よろしくね」

って笑顔で挨拶してくれた。何だか緊張して、注文したコーラが喉を通らない。このコーラの代金は300円。ポケットの上から財布を握り締める。

 何を話したかなんて全然覚えていない。ただ、姉ちゃんやるじゃん。大人の男を相手にするなんてって思ったよ。

 帰る時、先生が伝票を持ち支払いをしてくれた。お、さすが大人の男。二人分600円の飲み物代を、いとも簡単に奢ってくれちゃったよ。

「ごちそうさまでした」

それだけ言って先に帰った。何となく二人だけにしてあげたかったからね。

 振り返ると二人が仲良く本屋に入っていくのが見えた。好きな本でも一緒に選ぶのかなって思った。


 家に帰ったら、父さんと母さんが姉ちゃんの部屋を「がさ入れ」していた。まったくもう、2人とも。親といえども娘のプライバシーを侵害していいって事はないだろう。

「何か手掛かりがあるに違いない」

とか言いながら、引き出しの中のメモやらノートやら、中身まで見てやんの。見苦しいねえ、やめたら?って思っていたら

「あったわ、あった!有力な証拠よ!」

とか言いながら、興奮した顔で姉ちゃんの日記を見ていた。

 …あたしも見せられたよ。

「先生の車で海へ行った。こんな事が学校にばれたら俺は懲戒解雇、お前は無期停学かな、と言われた」

「先生とキスをした。キスってこんなんだって思った」

「家も学校ももううんざり。何もかも投げ出したい。こんな人生まっぴら」

「早く死にたい。先生、私を殺してください」

「私は人と違うのだろうか。目に見えないカタワ者なのだろうか」

等、書いてあった。

 父さんと母さんは、驚愕した顔を見合わせ、更に読み進めていたよ。人の日記を勝手に読んで、人の心を勝手に覗き込むなんて、最低じゃん。前にあたしの日記も勝手に読んで、書いてある内容についてとやかく言っていたけど。いい加減にしなよって思っていたら、当の姉ちゃんが帰ってきた。

 母さんが自分は何も間違っていない、という空気をバンバン出しながら姉ちゃんに詰め寄る。

「あんた!これ、どういう事?!」

 姉ちゃんは日記を盗み読みされた、恥ずかしさやら怒りやら悔しさやらで、ゆでだこよりも赤くなった。

「酷い!」

 一言だけ言って、外に飛び出して行った。

 あたしは姉ちゃんが正しいと思った。


 夜の9時。

 まだ姉ちゃんは帰って来ない。

 父さんと母さんがブチ切れている。

 やっと電話が鳴る。

 飛びつく母さん。

「あんた、今どこ?!」

 姉ちゃんからかかってきたらしい。

「何、あんた、鍵まで持っているの?」

 どうやら姉ちゃんは、先生のアパートにいるらしい。

「野沢先生に代わりなさい!」

 母さんが憤然と怒鳴る。姉ちゃんは、先生はここにいないと言ったようだった。父さんが母さんから受話器をひったくる。

「警察に言うぞ!警察に!未成年者誘拐罪で逮捕だ!マスコミにも取り上げてもらう!」

 興奮している割にそんな冷静な言葉が、まあよく出てくる事。

「今すぐ帰ってこい!でないと本当に警察に通報する!」


 帰ってきた姉ちゃんを、父さんが遠慮会釈なく殴る。

「お前!野沢とはどういう関係だ!」

 殴られながら姉ちゃんが言い訳する。

「何でもない」

「男と女だろう!」

 何とまあ、いやったらしい言い方をするんだろうねえ。あたしは見ていられなかったよ。母さんが、これ見よがしに父さんを止める。

「あなた、やめて、やめて」

 いつも誰より暴力振るって暴言吐くくせに、こんな時ばかり良い母親ぶってんじゃねえよ!って思っていたら電話が鳴る。

 飛びつく姉ちゃん。

「もしもし」

 電話の相手は野沢先生だったようだ。

「先生?先生、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、先生」

 泣きながら謝っている哀れな姉ちゃん。親に初恋をブチ壊されるなんて、どんな気持ちだろう。

 受話器をひったくる父さん。

「おい、貴様!うちの娘に何をしたんだよ!言えよ!」

 先生はきっと何でもないと言って、姉ちゃんをかばおうとしていたんだろう。父さんには通じない。

「うちの娘もいずれは嫁にやるんでね。そんな時に40オトコと付き合いがあったなんて知れたらまずいんですよ、分かりますか?あんた」

 失礼を極める父さん。

 痛くて泣いている姉ちゃん。

 ヒロインになってエキサイトしている母さん。

 どうしようもないあたし。

 変な、あたしたち一家に侮辱され、ひたすら耐える野沢先生。

「とにかくもう二度とうちの娘に近づかないでくれよ!」

 電話を叩き切り、姉ちゃんをもう一発殴る。

「お前!二度と野沢に近づくな!」


 初めての恋を親に踏みにじられた姉ちゃんは、さびしい悲しい眼差しの少女になった。満たされない心を埋めようと、勉強ばかりしていた。だが成績が上がれば上がるほど、空虚な顔つきになっていったよ。学年トップだって。すげー。

 父さんと母さんは満足そうだった。

「あんた、二度と馬鹿な事しないでよ」

だの

「お前、野沢と会っていないだろうな」

と、しつこく聞いてはいたけど。そんな蒸し返すような事を言うなってーの。

 あたしにまで

「お姉ちゃんが誰と会ってるとか、教えてね」

とか猫撫で声出して、味方につけてスパイにしようとするし。

 別の高校の教壇に立つようになった野沢先生と姉ちゃんが会っていないのは、姉ちゃんを見れば分かった。あたしは遠い目をした無口な姉ちゃんが可哀想だったよ。

 うちはしばらく、野沢菜さえ食卓に乗らなかったさ。


 それからしばらくして、あたしの友達が3人うちに遊びに来た時の事。

 ちょうどあたし以外の家族が居なかった事もあり

「沖本さんの家を探検しよう」

という事になり、家のあちこちを3人は見て回った。

 そして姉ちゃんの机の引き出しを開けた時、ガラス箱の中に短い髪の毛がひとたば入っているのを見つけた。

「やだ、お姉さん髪の毛なんか取ってある」

「ほんと、やーねー」

「変な趣味」

 友達は気持ち悪そうに言ったが、あたしはそれが野沢先生の髪だと分かったので、何も言わずに引き出しを閉めた。侮辱して欲しくなかった。


 姉ちゃんにとって、それはたいせつな人の忘れ形見だった。

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