第9話

 あたしはね、じいちゃんって知らないんだよ。 

 あたしが生まれるずっと前に戦争で死んじゃっているらしくてね。まあ、その時代にそれは珍しくも何ともなかった。

 父さん方のばあちゃんは、さすが11人も子どもを産んだだけあって、いかにも頼もしげな感じ。

 年を取っていよいよ動けなくなったら、父さんのいちばん下の妹(あたしからすると叔母さん)の家で暮らしていた。

 でね、叔母さんの旦那さんの稼ぎだけで3人の子どもと叔母さんと、ばあちゃんまで養うのは大変だし、叔母さんがばあちゃんの介護をしてるってーのもあって、父さんを含む男兄弟5人が少しずつ金を出し合う事になったんだよ。叔母さんだけに大変な事を押しつけて申し訳ないって気持ちもあったんだろう。

 それがまた父さんと母さんの喧嘩の種になっちまってさ。母さんは凄い勢いでまくし立てたよ。

「男だけでなく、女のきょうだいも協力すればひとりずつの負担は少なくなる筈じゃない。どうして男ばかりに押し付けるのよ」

 父さんはテレビから目を離す事無く言った。

「女は稼ぎがないだろう」

「うちはどうなるのよ」

 …結局、男兄弟だけでお金を出し合う事に話がまとまり、父さんが母さんに渡すわずかな生活費はいよいよ少なくなった。

 母さんは自分の稼ぎはたいした事ないし、染料やら刷毛やら布といった材料費はかかるし、化粧品やらスーツを買うのに忙しく、生活費を捻出するほどの力はなかった。

 だからだろうねえ。

「節約!節約!!」

と一日中言うようになったよ。

「もうおかずなんかも、あんまり良いの出来ないからね」

というのも毎日言っていたしね(元からそんないいもん食わしてくれてねーだろ!)。

 ああ、うちは貧乏なんだ、ものすごく貧乏なんだ、とつらかった。

 母さんは、あたしが歯を磨いていればすかさず洗面所に来て、歯磨きクリームをどのくらい使ったか毎回チェックしやがった。

「1ミリでいいのよ!1ミリで!」

  もともと少なかったお小遣いも更に減らされたよ。

「文句があるなら父さんに言えばいいわ」

だって。

 ああ、あたし中学を出たら働こう。そうすれば少しは家計の足しになるもんね。

 夕飯時に、父さんがご飯をおかわりしようとすると、母さんはこう言った。

「駄目よ、あんたのせいでうちは逼迫してるんだから!」

「だっておなかすいて我慢できないもん」

  父さんは強引におかわりして食べ続けた。母さんは不満そうな顔をやめない。

 ああ母さん、一日中働いて疲れて空腹な父さんを、せめて気持ちよくお腹いっぱい食べさせてあげて。あたしは心の中でつぶやいた。

 …勿論あたしは、どんなに足りなくても、おかわりなんて出来なかったよ。中学を出たら絶対に働く。揺るぎない決意にみなぎっていた。


 母さん方のばあちゃんは、おとなしくて優しい人だったよ。あのばあちゃんから、何であんな猛々しい母さんが生まれたのか、よくわかんねーよ。

 父さんと母さんの生まれ故郷である、九州の福岡でひとり暮らしをしていたんだけどね。すげー広い家だったってのは覚えている。でっかい庭に池があり、鯉が泳いでいたのも。

 母さんが子どもの頃、家にお手伝いさんが何人もいたんだって。漫画みてえ。

「おばあちゃま、長生きして下さい」

って何回も言わされたし、手紙にも書かされたさ。当時は「ナガイキ」って何だろうなって思っていたけどね。

 でね、母さんが父さんと結婚する時の「条件」てのが「ばあちゃんと同居する事」だったらしい。結局かなわなかったけどね。

 ただ、一度だけ母さんが言っていたのを聞いたけど、ばあちゃんの妹(母さんからすると叔母さん)が、ばあちゃんを相当いじめたらしい。姉にやられるならまだしも、妹にいじめられてじっと耐え忍んでいるなんて、と歯がゆかったんだと。

 母さんはその頃の事を話すと、つらかった記憶が蘇るらしくて、あたしにすがりついて号泣するんだよ。

 あーもー大迷惑!誰も話してくれなんて言っていないのに、勝手に話して、勝手に興奮して、勝手にしがみついて、いつまでも泣いてくるんだから。

 あたしゃ小さな相談員かよ!おーおーまた泣くかよ。まだまだ泣くのかよ。もういい加減にしてくれよ。そんなに悔しかったならそれをばねにすりゃいいだろーが!叔母さんも、そこまでやるって事は誰かにいじめられてたんじゃないの?

 きっと母さんはそこで「人をいじめたり罵詈雑言を浴びせる事」を学習しちまったんだろうな。


 姉ちゃんもあたしも、小さい頃からばあちゃんの家に何回も遊びに行ったり、ばあちゃんがうちに泊まりに来たりしていた。

 ただ父さんと折り合いが悪くてね。居心地は悪かったと思うよ。

 だってさ、ばあちゃんが湯上がりに冷蔵庫のビール飲むと、父さんがわざわざばあちゃんの所へ行き、こう言うんだよ。

「俺のビール飲みました?」

 そんな事を言われたら、そりゃばあちゃんだってビールも何も飲むのを遠慮するようになるよ。父さん、ケチすぎるよ。

 まあね、父さんはケチっていうか、大人げないっていうか、あたしにもよく言っていたよ。

「マリ、俺のまんじゅう食べた?」

  食ったさ、食ったさ。さも残念そうに立ち去る大人げない父さん。

 ばあちゃんの立場で考えてくれよ。いいじゃん、ビールくらい。

 親に言われるのと、娘の亭主に言われるのとじゃ、違うだろーが。

 父さん、そんな事言わないでくれよ。ばあちゃんが可哀想だよ。

 見るに見かねて、母さんにお金を頂戴と頼んだ事があるよ。

「どうして?」

と聞くから

「おばあちゃんにビール買ってあげるの」

と言ったら、その時だけはすげー褒めてくれたよ。

「マリ、あんた優しいねえ」

だってさ。普段からもうちょっと褒めてくれよ。

 あたしは受け取ったお金ですぐビールを買いに行ったよ。

「おばあちゃんのビール」と紙に書き、くるっとそのビールに巻いて輪ゴムで止めて冷蔵庫で冷やしたさ。ばあちゃんの喜ぶ顔を見たくてね。あたしの数少ない楽しい思い出のひとつだよ。

 ただ、煙草を吸う人だったんだけどね。あたし臭いから煙草って嫌いでさ。ばあちゃんが吐く煙を手で扇いで「プーッ」って自分の息で煙を飛ばしたさ。吸いたくなかったからね。ばあちゃんは悲しそうにしてたよ。

 でね、次からは家の中でなく、公園で吸っていた。あたしに気を使っていたんだろうねえ。あはははは。悪かったさ。

  一度ばあちゃんと母さん、姉ちゃんとあたしで美術館に行った時の事、歩くのが遅いばあちゃんに焦れて

「おばあちゃん歩くの遅い」

と言っちまったんだよ。

 そしたら母さんが、また凄まじい勢いで怒ったさ。

「おばあちゃまは年を取っているんだから歩くの遅いなんて当たり前じゃない。あんたはなんて酷い子なの!最低だね!あんたは最低のカスだよ!人間じゃないよ!人間以下!」

 …その発言だけを怒ってくれるならまだしも、最低とかカスとか、人間以下とか、否定しないでくれよ。少しも楽しくなかったさ。

 ばあちゃんもつらそうにしてた。これが教育なのかねえって思った。

 食事中にばあちゃんの前を横切ったら横切ったで、また母さんが激高する。

「あんた!目上の人の前を横切るなんて、何て礼儀知らずなの!ごみ以下だよ!」

  そりゃあ横切ったのは悪かったけど、その行為を怒るならいいけど、ごみ以下なんて。つらくて嫌で聞こえなかった振りをしようとしたら、あたしの両耳を引きちぎらんばかりに掴んで耳元でがなり立てた。

「親の話、聞きなさいよ!」

  ああ鼓膜が破れる!そんな事するからますます聞かなくなるんだよ。言う事聞かないからこうするんだとか言うんだろうけどさ。

 これも教育なのかねえ。ばあちゃんも聞いてられないって顔してた。


 ばあちゃんはだいたい一泊か、長くて二泊しかしなかったよ。そりゃ居たたまれないわな。娘は孫にがなり立てるわ、父さんは自分を疎むわ。

 ばあちゃんが福岡へ帰る時、母さんは必ず空港まで見送りに行っていたよ。

 …ある時、家に帰るなり、すごい勢いで怒鳴ったよ。

「おばあちゃま、分かれ際に泣いてたわよ!」

「…だから?」

「だから泣いていたのよ!」

「だから何なの?」

「だから帰る時に泣いていたって言っているじゃない」

 泣いていたら何なのさ?さあ、ばあちゃんを可哀想と思え、もっといたわれ、同居しろってか?

 その前に、同居しているオマエの亭主と娘を、もうちょっといたわれよ。


 でね、そのばあちゃんが倒れたって知らせが入ってさ。きょうだいのいない母さんが看病に行く事になったんだ。

 嬉しかったね。ヤッター!ってなもんよ。誰がさびしがるかよ。てめーのような鬼母の不在を!

 ばあちゃんの具合がどうとか、そんなのはどうでも良かった。あたしはひたすら母さんが家を空けてくれるのが嬉しかったよ。


 病人の看病ってーのはなかなか大変らしいね。母さんは毎日電話をかけてきて、これ聞こえよがしにすすり泣いて、大変だ、大変だと愚痴を言い続けた。

「今日は何を食べたの?」

というのも毎日言っていた。もうウルセーよ。毎日同じ事聞くんじゃねーよ。買ってきた弁当やパンの方がまだうまいよ。テメーの下手過ぎる料理よりずっといい。

 あたしはカップ麺を食ってうまいと思った事は何回もあるけど、母さんの料理を食っておいしいと思った事は一度もねーよ。

 …って言ってやりたかったさ。言えなかったけどね。


 母さんのいない家は静かで居心地が良かった。

 母さんさえいなければ、夫婦喧嘩は成り立たないからね。

 父さんは会社帰りに弁当とパンを買って来る。それを夕飯と翌日の朝食にした。全然不便も不自由も不満も感じなかったよ。むしろこれがずっと続くと良いなとさえ思ってた。

 父さんはあたしに食事の支度を押しつけなかった。料理から解放されたあたしは嬉しくてたまらなかったよ。ごみ捨てと掃除と洗濯さえやればいいし。

 ああ快適だな、母さんなんてもう帰って来なければいいな。

 あたしは生まれて初めて自由を味わったよ。解放感と幸福感に満ち溢れちゃって幸せだったぜ。二度とあんなカカア帰ってくるなよ!って毎日念じていたわさ。

 自由を満喫し過ぎて、友達と学校ずる休みしたしね。あはははははは。

 …あっさりバレて、父さんに学校から電話が来たさ。父さんがそれを電話で母さんに言うし。言わなきゃいいのに。そしたら母さんから父さん宛てになげーなげー(本当に読むのが嫌になるほど長かった)手紙が来たんだよ。

 父さんが

「お前、これ読めよ。母さんが心配してるぞ」

と無理やり押し付けて来た手紙には、ばあちゃんの看病がいかに大変か、くどくどと並べてあり、最後に家をよろしく、特にマリには愛情を注いでやってくれ、学校をずる休みするなんて不良の始まりだ、と書いてあったよ。わざとらしく字がにじんでいた。泣きながら書きましたっていわんばかり。

 まったくわざとらしいね。いつもいつも芝居がかってるんだから。誰もその手にゃ乗らないよって。そんな手紙ざっと「斜めに読んで」すぐごみ箱に捨ててやったよ。それに愛情を注ぐってーのは、何も干渉する事じゃないしね!

 父さんは、ごみ箱に捨ててある手紙を見て、またハーハーため息ついていたよ。

「お前、誰のお陰で学校行ってる?誰のお陰で生活してる?」

 他に言う事ないのかね!鬱陶しくて、わざとらしい夫婦!いい勝負だよ。

 学校の先生は先生で、

「沖本さんが無断欠席なんてしたのは、お母さんが家に居なくてさびしかったからなんでしょう?」

って何回も何回も言って、しかも勝手に納得しちゃっているし。

 ちっがーーーーーうよ!ぜんっぜん、ちっがーーーーーうよ!むしろ嬉しいんだよ!あのババアは干渉し過ぎだから居なくなって幸せだから無断欠席したんだよーーーー!!!

 って、誰も分かってくれなかった。

 あたしは「母親が不在でさびしい子」って一言で片づけられちまった。んん、無念だぜ。


 日曜日、父さんと姉ちゃんと近くのスーパーに買い物に行く。弁当やらパンやらトイレットペーパーを買い、帰ったら社宅の前に民生委員のおばさんがいた。

 3人で会釈すると馴れ馴れしく話しかけてきた。

「あらあ、親子でお買い物?いいわねえ」

 父さんが適当にやり過ごしてうちに入ろうとすると、しつこく言ってくる。

「あれ?お母さんは?」

 姉ちゃんが答える。

「おばあちゃんの看病に行っています」

 おばさんの目がきらりと光る。

「どこへ?」

 姉ちゃんが言う。

「福岡です」

 おばさんの目がもっと光る。

「あらあ、しばらく帰って来ないの?」

 姉ちゃんが頷く。

「そう、沖本さんち、お金持ちだから」

そう言っておばさんが高らかに笑う。

 何でそんな事言うんだろう。福岡へばあちゃんの看病に行ったのと、どうつながって金持ちとか、そんな事言うんだろう。関係ないじゃん。それにうちは金持ちじゃないし。

 おばさんは軽やかな足取りで立ち去った。

 …何か違和感が残る。


 翌日、事件は起きた。


 学校から帰り、うちの鍵を「開けよう」として何故か「閉めて」しまった。

 …あれ?…って事はずっと「鍵は開いていた」って事…?

 恐る恐るドアを開ける。もしかして泥棒がいるのか?いるなら逃げてくれ。そう思いながらでっかい声で何回も言う。

「ただいまー!ただいまー!ただいまー!」

 頼むから逃げてくれ、あたしひとりでどうにも出来ない。そろそろとうちの中に入る。もし泥棒が入って来るとしたらベランダに通じる窓だ。そう思いながら、さっとカーテンを開ける。


 …があああああああああああああああああああああああああああん!

 割れたガラス窓、飛び散っているガラスの破片、鍵の開いた窓。心臓が口から飛び出そうになった。もしかしてまだうちの中に犯人が隠れているかもと思うと、恐ろしくて生きた心地がしなかった。


 慌てて外に出ると、ちょうど姉ちゃんが帰って来た所だった。

「ねえ、泥棒が入ったよ」

 泣きそうになりながら言う。

「えっ」

 姉ちゃんがうちの中へ入って行く。

「ほんとだ、怖い」

と言いながら出てきた。

 二人で隣の人に助けを求める。

 隣りの奥さんは慌てながらも、うちの状況を確認した上で警察を呼び、父さんの会社にも電話をしてくれた。

 警察の人が4人来た。うちの中の押し入れを全部開けて、中に犯人がいないか確かめている。婦警さんがあたしに事情を聞く。学校から帰って、うちの鍵を開けようとして閉めてしまった事、朝学校へ行く時には確かに閉めた事を一生懸命話す。

 …父さんが会社を早退して帰って来た。警察の人と父さんが話している。家族3人の指紋を取られ、何かの書類に父さんがサインしたり、うちの中を指紋採取したり、何だかむやみに忙しい。

 その後、父さんがお隣の奥さんにお礼を言い、ガラスの業者に電話をして割れた窓を直しに来てもらったり、ガラスの破片を掃除したり、する事は多く、目まぐるしく時間は過ぎ、気がついたら夜の8時になっていた。食欲などまるでないが、3人で弁当を食べる。

 不幸中の幸いで、現金も通帳も印鑑も無事だった。

 母さんが「万一に備え」押し入れの天袋の襖の内側に、大事なものをポーチに入れ、張り付けて隠しておいてくれたお陰だった。母さん、たまには機転がきくじゃん!泥棒もまさかそんな所に現金やら通帳があるとは思わなかったんだろう。何も取らずに(取れずに)玄関から逃げて行ったらしい。だが「泥棒が入った」事自体はショックだぜ。

 3人で一言も話さず黙って弁当をつつく。


 更に翌日、朝の8時にうちのチャイムが鳴った。

 代休を取って家にいた父さんが玄関を開けると、一昨日も会った民生委員のおばさんが立っていた。

 おばさんが凄い勢いでまくしたてる。

「おたく、泥棒が入ったんですって?」

 父さんが不審そうに聞く。

「どうして知っているんですか?」

 おばさんが口から唾を飛ばしながら言う。

「この町の事なら何でも知っていますよ。で、被害状況は?」

 父さんは勿論、学校を休んでいた姉ちゃんとあたしの頭の上に疑問符が浮かぶ。

「どうしてそんな事聞くんですか?」

 父さんの問いにおばさんが言う。

「あたし、心配してるんです!あたし、力になりたいんです!」

 …全然そんな風に見えないよ。

 父さんが言う。

「あなた、家内が福岡へ行っていて、うちが留守って誰かに言いましたか?」

 おばさんが大げさに言う。

「いいえー」

 威張っているみたいだ。

 父さんが聞く。

「あなた、一昨日うちが金持ちとか大声で言っていたけど、営業所とかに帰ってそれを誰かに言いました?」

 おばさんがもっと威張って言う。

「いいえー。守秘義務がありますから」

 全然守秘義務守っているように見えないよ!

 もっと不信感が湧く。

「どうして今日ここに来たんですか?」

 父さんが聞く。

「だからおたくが大変な事になっているって聞いたから、とるものもとりあえず駆け付けたんです!」

 おばさんが鼻息荒く言う。

 父さんも姉ちゃんもあたしも呆然とする。

「で、被害状況は?」

 おばさんがまた言う。

「どうしてそんな事聞くんですか?」

 父さんが聞く。

「だからあたし心配してるんですっ、あたし力になりたいんですっ」

 だからそんな風に全然見えないってば!

「で、被害状況は?」

 おばさんの鼻息がもっと荒くなる。

「どうしてあなたにそんな事言わなきゃいけないんですか?」

 父さんが不信感満々で聞く。

「だからあたし、心配してるんですっ!力になりたいんですっ!あたし、沖本さんの味方なんですっ。で、被害状況は?」

 父さんの頭の上の疑問符がいよいよ大きくなる。

「悪いけど、帰ってください。あなたに話す事は何もありません」

 強引にドアを閉める。おばさんが靴を挟んで邪魔しなくて良かった。

 3人で腑に落ちないまま、よく回らない頭で懸命に考える。

 一昨日、あのおばさんが来て母さんが留守という情報を聞き出した。その時点で、自宅で造花教室をしている母さんがいなければ、うちは日中誰もいなくなる事が丸分かりになった。昨日、泥棒が入った。今日あのおばさんが血相を変えてうちに来て、被害状況を聞き出そうとしてる…。

 …バラバラのパズルが一致しちまった。

 うちでいちばん頭の良い姉ちゃんが言う。

「あのおばさんがやったんじゃない?」

 あたしも頷く。

「きっとそうだよ」

 姉ちゃんが更に言う。

「うちが留守って聞きだしたのは、あのおばさんだもん。実行犯は他にいるかも知れないけど、やれって指示したのは、本当の黒幕はあのおばさんだよ」

 父さんがやっと腑に落ちたような顔で頷く。

「そうかも知れないな」

 誰より頭脳明晰な姉ちゃんが、理路整然と言う。

「だっておかしいじゃん!あのおばさんが来た途端に泥棒入ったんだよ!うちは金持ちとか言っていたし。狙われたんだよ」

 父さんが言う。

「証拠がないじゃないか」

 姉ちゃんが食い下がる。

「うちにお金とかなくて、何も取るものがなかった。その実行犯の話と被害者であるあたしたちの話が一致するかどうか聞こうとしたんだよ。だからあんなにしつこく被害状況は?って聞いたんだよ。実行犯とあのおばさん、ぐるなんだよ。で、あのおばさんが紹介料をもらってるんだよ。今回、何ももらえなかったから確かめようとしてるんだよ!」

 そう考えれば色々と一致する。

 さすが姉ちゃん!頭よし子!

「父さん、警察に言ってよ」

 父さんが困った顔になる。

「何て…言えばいいのか…分からないよ」

 確かに父さんが言っても要を得ないだろう。

「もういい、あたしが言う」

 姉ちゃんは勇んで警察に電話をかけ、事情を説明する。大人の父さんより、高校1年生の姉ちゃんの方がこう言う事にかけてうわてだ。

 だが警察の担当の人は一応話を聞いてくれたが、やはり証拠がないのでそれだけで捕まえる訳にはいかないようだった。腹の虫のおさまらない姉ちゃんは、お隣さんに相談した。お隣の奥さんは姉ちゃんの言い分をきちんと聞いてくれ、こう言った。

「実はさっき、あの民生委員のおばさんがうちに来て、この何日か気が付いた事ないか?って聞いてきたの」

って事は、あたしたちのうちに来た後、お隣のチャイムも鳴らしていたのか。

「沖本さんの家に泥棒が入った日、多分マリちゃんの声だと思うけど、ただいまー、ただいまーって声が何回か聞こえたっていうのは話したけど」

 奥さんが言う。刑事でもあるまいし、あのおばさんは聞き込みをしていたのだ。守秘義務を全然守っていないじゃん!

 お隣の奥さんは、その場で区役所に電話をかけて相談してくれた。区役所の人はこう言ってくれたそうだ。

「あり得ない話ではないですね。この近辺異常に空き巣被害が多いんですよ」

 もしかして、全部そのおばさんの手引きで行われているんじゃないのか?そんな気さえしてくる。民生委員という立場を利用し、あちこちで情報を集め、泥棒に入らせているとしたらとんでもない!

 お隣の奥さんは頑張ってくれた。

「少なくとも担当は替わってください。その人には辞めていただきたいんです」

 怒っていても、お上品な人は違うなあ。母さんとエライ差!妙に感心したさ。


 その日の夕方、性懲りもなくというか、民生委員のおばさんがまたうちにやって来た。

 玄関先で泣きそうな顔で言う。

「あたしの軽率な言動の為に本当にご迷惑をおかけしました。あたし、もともと声が大きんです。沖本さんの家がお金持ちって言うのを誰か悪い人が聞いていたのかも知れません。あたしのせいで大変な被害に遭わせてしまってすみませんでした」

 言い訳がましい!さすがに、「で、被害状況は?」とは聞かないけど。

 おばさんが大声でべらべら言う。

「以前、おたくの奥さんがこの辺をうろついている男を相手に怒鳴りつけたらしいんです」

 そんな話、聞いた事ねえよ!まるでその男が犯人だと言わんばかりだ。

 父さんと姉ちゃんとあたしの顔には「あんたが犯人でしょ」と書いてあるらしい。おばさんは散々言い訳しまくった後、居たたまれないように帰って行った。

 お隣の奥さんが「こいつだ」という顔をして、自分の家の窓から見ている。

 おばさんが立ち去ってから、今度はお隣の奥さんが来た。おーおー、一昨日、昨日、今日と千客万来だね。

 奥さんが言う。

「また来たんですね?」

 父さんが頷く。

「おかしいですよ、確かにおかしいです!やっぱりあの人が犯人じゃないんですか?」

 父さんがウンウンと頷く。何か言えってんだ!

 奥さんが言う。

「すぐに担当替わってもらいましょう。ここにももう来ないで下さいって言った方がいいですよ。あたしが言ってあげましょうか?」

 父さんがうちの電話を指さしながら言う。

「お願いします」

 その奥さんの素早い事。次の瞬間、靴を脱いで上がり込み、その場で役所に電話をかけてくれた。番号を暗記しているってーのが凄いね。担当の人に、またおばさんが来た事、言い訳がましかった事を告げ、二度と来ないようにしてくれと頼んでくれた。

 奥さんは受話器を置くと、勝ち誇ったように言う。

「困った時はお互い様ですよ。ではまた」

 そして靴を履いている。姉ちゃんが

「これを召し上がってください。色々お世話になった御礼です」

と言いながら、お菓子を渡す。あ!それはうちでいちばん良いお菓子!と思ったが仕方ない。

 奥さんは

「あらいいのよ」

と言いつつも、結局受け取ってくれた。

 奥さんは帰って行く。

 これで一件落着…するといいなあ。

 確かにその民生委員のおばさんは二度と来なくなった。

 うちはまた母さん不在の日常に戻ったよ。福岡の母さんから電話がかかって来て、泥棒が入ったと父さんが告げた途端に

「お金は?通帳は?印鑑は?」

とわめく声が、離れていても聞こえた。

 ああ家族に怪我がなかったか、そっちは心配じゃないんだねえ。


 …話を戻そう。母さんの懸命なる看病も虚しく、ばあちゃんはどんどん衰弱していった。そしていよいよ余命宣告ってーのをされちまい、父さんと姉ちゃんと三人で福岡へ行ったんだよ。

 病院に行き、もはや動けず、よく喋れもしなくなったばあちゃんを前にした時、何でか自分でもよくわかんねーけど涙がボロボロ出てきちまってさ。

 体のどこが痙攣しても分かるように裸(胸と股間はタオルで隠してあったが)にされているし。

 母さんはあたしが悲しんでいると勘違いして、満足満面になった。

 なんやらウワウワ言ってるばあちゃん。

 母さんが通訳する。

「あんたたち、親の言う事をよく聞いて、たくさん勉強しなさいって言っているのよ」

 死にそうな時にそんな事を言うかねえ?本当は今まで有難う、とか、元気でね、とか何とか言っているんじゃないの?

 母さんは、自分にだけは分かる、とばかりに「変な通訳」を続けていた。

「マリ、忘れ物をせず、もっと勉強しなさいって、おばあちゃまは言っているわよ」

 ホントかねえ?信じらんねーよ。現にばあちゃんの口の動きや長さと合ってねーよ。

 父さんは父さんで、ばーちゃんの裸でさえ嫌らしい舐めまわすような目で見ているし。

 ああ、ドスケベだねえ。例え婆さんでも、女なら、裸なら、反応するんだねえ。


 福岡には3泊したよ。JEL系列のホテルに母さん以外の3人で泊まり、朝も昼も夜もパンばかり食べていた。父さんは有休を取り、姉ちゃんとあたしも学校を休んでいた。

 でね、父さんが、そんなに長く会社を休めないとか言い出し、4日目に東京に帰る事になったんだよ。

 その時に、父さんが

「空振りだった、空振りだった」

と、何回も母さんの前で言うんだよ。

「何が空振りよ」

 母さんはカンカンになって怒った。

「あたしの大事なお母さんなのよ!死ねば良いって言うの?」

 父さんと母さんはどっちもどっち、言っても良い事と悪い事の区別がつかない似た者夫婦だったよ。


 ばあちゃんが亡くなったのはその5日後だった。その前日に電話をかけてきて

「逝きそう…」

と呟いていた母さん。返事のしようがなくて黙っちまった。

 父さんと姉ちゃんとあたしは再び飛行機に乗り、福岡へ飛んだ。

 父さんが

「タイミングが悪い、仕事に差し支える」

と何回も言うから、また喧嘩になるんじゃないかと心配でたまらなかったが、実際福岡へ着いたら、母さんは葬儀屋の人との打ち合わせやら、会葬者さんへの対応やら、なんやらでバタバタ忙しく、喧嘩をする暇もなかった。別の意味でほっとしたよ。


 通夜も告別式も終え、ばあちゃんの家に戻った時は感傷的な気分になったね。

 もうばあちゃんはこの家のどこにもいない、世界中のどこを探してもいない。ああ、ばあちゃんは死んだんだって、その時に初めて実感した。

 ばあちゃんがいなくなった家はただっぴろく、仏壇にばあちゃんの遺影やら果物やらなんやらが飾られ、ばあちゃんの友達の多さを物語っていたよ。

 母さんは泣き続けながら遺影を撫でている。

「お母さん、お母さん、どうしてあたしを置いて逝っちゃったの?」

って何回も何回も言うんだよ。ほんと、何回言えば気が済むの?って言いたくなるくらい。

 だから

「さあ、ひとりずつお焼香しましょう」

と言った時は、やれやれ、やっと終わったかって、ほっとしたさ。

 で、母さん、姉ちゃん、あたし、と順々にお焼香したよ。母さんはずっと鼻をズーズー言わせながら

「おばあちゃま、この子たちを見守って下さい」

なんて白々しく言ってるしね。

 あれ、父さんはどこかな?と思ったら、庭の池の鯉なんぞ見ている。

 母さんが苛立った口調で言ったよ。

「あんた、お焼香してよ」

 次に振り返ったら、何と!

 父さんは、喪服のスーツの上は着てたけど、ズボンを脱いで、つまり下はパンツ姿で立っていた。

 母さんが烈火のごとく怒る。

「あんた、何よ、その格好!ちゃんとズボン履いてよ!」

「嫌だ、ズボンがしわになる」

それを聞いて、父さんて大人になりきれていない人だと思った。母さんも大人になりきれてないけど。

 ズボンがしわになるからパンツ姿になっているんじゃなくて、要はお焼香したくないんだろう。

「ちゃんと履いてよ!あたしのお母さんに失礼よ!」

 この時ばかりは、母さんが正しいと思ったね。母さんの凄まじい勢いに押され、父さんはしぶしぶズボンを履き、しぶしぶ焼香した。ばあちゃんの冥福なんぞ祈っていない事は、その後ろ姿でよく分かった。

 情けない父さんに、ヒステリックな母さん。ばあちゃんもさぞかし不安だろう。死にきれないだろうよ。

 でね、その時にもうひとつハプニングがあったんだ。母さんのスカートに、ろうそくの火が燃え移っちゃった事。姉ちゃんがびっくりして

「母さん、火が付いている!スカート燃えてる!」

と言った。

 母さんが慌てて自分でもみ消し、びっくりしたまま父さんに言ったよ。

「あんた、何で助けてくれないの?」

「熱くて消せるか」

「あんた、あたしが火だるまになっていても助けないの?」

「知るか」

 その会話聞いていて、結婚なんてしてもしょうがないって思ったよ。まったく愛情のない夫婦ってのはこういうもんだって、毎日見せつけられてるんだから。


 東京に帰り、元の生活に戻るかな、と思ったけど…戻れなかったよ。

 母さんがさ、もううるさいのなんのって。毎日毎日、朝も夜もギャーギャー泣くんだよ。

「お母さんっ、ああ、お母さんっ、どうして逝っちゃったの?」

って、何時間でも言い続けるし。その根気を別の事に使ってくれよ。誰も慰めたりしないよ。そっと陰で泣いているならまだしも、うるさくてこっちも気が狂いそうだった。

 わざわざあたしや姉ちゃんの部屋に、ばあちゃんのアルバムを何冊も何冊も持って来て、めくりながら泣いてやんの。

「あたしの悲しみは、20年後30年後のあんたたちの悲しみよ」

って何回も何回も言うし。もーおーおー、うるせーよ。ひとりで泣いてくれよ。知らん顔してると滅茶苦茶に怒るし。

「何よ!あんたたち!あたしは泣いている時は慰めて欲しいのっ!」

って啖呵まで切るし。

 なんて我ままなオバサンだろうねえ。そんなに元気に怒鳴っているなら大丈夫だよ、じゅうぶん立ち直っているよ。

 しかも、部屋にいられずリビングに行こうと襖をぴしゃりと閉めるとピタッと泣きやむんだよ。で、襖を開けるとまたヒーヒー泣きだすの。

 つまり、人がいない、聞いていないと思ったら泣かず、家族の誰かがいる、聞いている、という時しか泣かないんだよ。面白いから何回も試してやったさ。

 本当に開けると泣く、閉めるとピタッと止まるの。おーおー、いい大人が嘘泣きかよ。バッカじゃん!いつもいつも修羅場を望んで、本当にアタマ悪過ぎだろ!!

 父さんは父さんで、母さんが自分を相手にギャーギャー言い始めると黙って俯いて何分でもじっとしているし。

 父さんは徹底して「ハプニングに対応できない人」だった。何かあると、暴力で無理矢理ねじ伏せるか、その嵐が過ぎるのをじっと待って、終わったと思ったらテレビの前に座って「ああやっと解放された」って顔しながらテレビ見てるか、どっちかで、父さんが何かに対応してるの見た事なかった。これでよくJELで働けるなあと、何度目の感心をせざるを得なかったよ。


 そしてもうひとつ、バトルが繰り広げられる事になった。相手はばあちゃんの妹だった

「叔母さんがおばあちゃまの財産をよこせと言っている、あたしは闘うわ」

 母さんは弁護士だ、何だと連絡を取り始め、

「強く出れば良いわ。強く出れば。そうすれば叔母さんはひるむ筈」

とか言って、本当に強く出てた。

 母さん、ただでさえ強く出てばかりなんだからさ、たまには優しくいきなよ。

 結局、裁判の判決は、ばあちゃんの妹がばあちゃんの家を相続し、母さんは家財道具を相続する事、と出た。裁判費用がどうなったのか、よく分かんねーよ。すげー金かかったらしいけど。

 でね、ばあちゃんの家をもらえなかったのがよっぽど悔しかったんだろうねえ。母さんはばあちゃんの妹とそれっきり断絶しちまった。もともと仲良くなかったらしいからいいんだろうけど。

 ただね、母さんはばあちゃんの家からもらえるものは何もかもうちに送っていたよ。着物や家財道具や食器はまだしも、下着まで自分が履いちゃっていた。気持ち悪くないのかね。

 母さんは何でもかんでも「徹底的にモトを取る」人だった。亭主も、産んだ娘もモトを取るのかね。庭の池の鯉だけは要らなかったらしく、送って来なかったけど。

 父さんは毎日母さんが炊くお線香の匂いが臭い、臭い、と文句ばっかり言うし。

「ああ、臭い、へどが出そうだ」

だって。出してみろよ、へどとやらを。

「仏壇なんてただの木の箱だよ。神様なんていないよ」

とも言っていた。

 母さんが父さんに悪態をつく。

「あんた、あたしが八面六臂の大活躍している時に何もしてくれなかったね」

 八面六臂とか、大活躍とか、自分でいうこっちゃねーだろ。これじゃあ殴られるのもしょうがないわな。

 ああ、もう限界だよ。

 二人とも、どっか行ってくれよ。


 …ああ、またリビングで父さんと母さんが喧嘩している。

 原因は分からない。

 暴力も始まったようだ。

 母さんの悲鳴。

 もううんざりだ。どうせ母さんが修羅場を仕掛けたんだろうが。いつもいつも修羅場を望み、家族全員がガーっと自分の感情出してくるとエキサイトするんだよねえ。実際修羅場になると被害者づらして悲劇のヒロイン気取るし。

 知らん顔して、自分の部屋で漫画を読み続ける。誰が止めるかよ、お前らの喧嘩を。止めたって、どうせやめてくれないんだし。

 …ああ、やっと終わったようだ。母さんが腫れ上がった顔のまま、あたしの部屋に来て言う。

「あんた、何で止めてくれないの?」

「…どうせ無駄だから」

「あんた、気になるって前に言っていたじゃない」

「…もう気にしない」

「何でよ、あたしが殴られててもいいの?」

「…原因作っているの母さんだから」

「どうしてよ、どうしてよ、どうしてよ」

 母さんは自分に原因があるとも、非があるとも、全然思えない様子だった。もうばかばかしくて、それ以上言う気になれなかった。 

 …そう、本当にばかばかしくなった。こんな親、かばうことない。現にあたしが止めなくても、喧嘩終わったじゃん。もう喧嘩なんて二度と止めない。勝手に殴り合ってりゃいいじゃん。あたしゃもう知らないよ。止めない方が楽だしね。

 あたしは母さんに冷たい背中を向けて、漫画を読み続けた。母さんだって、あたしに何度も何度も冷たい背中を向けたしね。

 母さんはしばらく突っ立っていたが、あたしがいつまでたっても知らん顔しているから、あきらめたように立ち去ったさ。

 …ほっとした。


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