第8話
うちの社宅に若夫婦が引っ越してきた。脇田さんって新婚夫婦。菓子折り持って挨拶に来てくれたよ。
奥さんはまだ大学生?ってくらい若くて可愛いの。
「マリちゃん、私まだ子どもいないし、仕事も辞めたし、暇だからいつでも遊びに来てね」
って言ってくれたよ。
あたしに優しくしてくれる大人がいたって嬉しかった。
でね、脇田さん夫婦が帰って、すぐに母さんがこう言ったんだよ。
「マリ!あんたの人見知りと社交性のなさを直す絶好のチャンスが来たわよ!」
そして翌日から、みかんやら、バームクーヘンやらを持たされて、脇田さんの家のチャイムを押す羽目になっちまったよ。
脇田さんの奥さんはね、そりゃ最初は優しくて、アポなしのあたしをちゃんと迎え入れてくれたよ。家に入れてもらい、何を話すでもなく、どうすりゃいいんだろうとあたしは黙っていた。
きっと奥さんは、あたしが母さんに無理やり行かされてるってーのが分かったんだろうね。いつも憐れむような眼をしていた。
ただね、それがあんまりたび重なるとさすがに嫌になったんだろう。ある時、迷惑そうな顔をされちまってね。だから母さんに言ったんだよ。
「もう脇田さんの所へ行きたくない。毎日毎日もう嫌だ!」
「どうしてよ!」
母さんにはいくら子どものいない専業主婦といえども決して暇ではない、毎日近所の子どもに来られたら迷惑だという事が分からなかった。
「昨日迷惑そうな顔をされた。だから行きたくない!」
「だっていつでも遊びに来てって言ってくれたじゃない!」
母さんには、社交辞令ってーのが分からなかった。
「とにかくもう嫌だ!行きたくない!嫌だ!嫌だ!」
母さんは、必死に抵抗するあたしに無理やりモナカの詰め合わせなんぞを持たせ、力づくで家を連れだした。そして強引に脇田さんの家のドアの前に立たせる。悲しくて、嫌で、振り返って母さんの顔を見る。母さんが階段の下から「心を鬼にして」キッと睨みつけ、首を横に振る。さあ行け、という指令が下された訳だ。仕方なくチャイムを鳴らす。
…家に入れてくれても全然嬉しくなかった。こんなんで人見知りや社交性のなさが直るなんて思えなかった。脇田さんも困ったような、気まずそうな顔をしていたよ。
二人でテーブルを挟んで、ただ黙ってうつむいていたよ。モナカなんて食いたかねーよ。脇田さんの顔にはそう書いてあった。
あたしと脇田さんは一言も話さず、じっとモナカを見ていた。
姉ちゃんが誕生日プレゼントとして、好きな歌手のレコードを母さんに買ってもらった。毎日毎日飽きもせずそれを聞いている。母さんもご機嫌で、歌いながら踊ったりしている。
ふと思った。こいつらを、ぎゃふんと言わしてやりたい。姉ちゃんばかり優遇されて許せない。母さんの楽しみも奪ってやりたい。
だからそのレコードを隠してやった。姉ちゃんはないないと騒ぎ、当然のようにあたしを疑った。父さんと母さんもあたしを疑った。あたしはとぼけ続けた。
母さんは半狂乱であたしを揺さぶりながら、レコードを返せと言い続ける。
「あんた、神様に誓って自分じゃないって言いきれる?」
だと。知るか。神様がいるなら、なんであたしはこんなに毎日いじめられるんだよ!
そしてしまいにゃ、あたしが学校で使う笛を隠しやがった。返してほしければ、レコードを返せとまた交換条件を掲げてくる。根負けしてレコードを差し出したら、笛も返してくれたけど、あっという間に元に戻った。
母さんはご機嫌で歌いながら踊っている。いいオバサンが、バッカじゃない?心から軽蔑した。
姉ちゃんは
「またマリに隠されないようにしなきゃ」
と言って自分でどこかへ隠していた。
父さんは言った。
「また何か無くなったらマリを疑えばいい」
母さんがにやにやしながら、あたしを指さして言う。
「この家に、泥棒が、ひとーり」
あたしは家の中でますます孤立していった。
父さんの弟一家が横浜からうちに遊びに来た。
従姉妹のなっちゃんとよしこちゃんは、玄関できちんと挨拶をし、リビングでもお行儀が良い。
外面の良い姉ちゃんも負けずにきちんと挨拶をし、父さんは叔父さんとその奥さんとお酒を飲んで機嫌が良い。母さんは出前の寿司を振る舞い、果物を振る舞い、なかなか忙しい。
例によってきちんと皮を剥かない母さん。よしこちゃんが言う。
「おばさん、ここに皮が残っているよ」
母さんが言う。
「これくらい残っていてもいいの」
よしこちゃんが言う。
「じゃあ何の為に皮剥くの?」
「農薬が付いているからよ」
「じゃあこの残った皮に農薬付いているんじゃないの?」
「だからこのくらいいいのよ」
母さんが涼しい顔で言う。あれえ、いつかあたしとまったく同じ会話したよねえ。外部の人の前ではキレないんだねえ。家族の前ではすぐにキレるくせに。
…と思ったら、よしこちゃんは自ら残った皮をきれいに剥いてそれから食べた。ああそうすればいいんだねえ。よしこちゃんは賢いねえ。
みんなが帰った後、後片付けをあたしにさせながら、母さんが何回も言う。
「なっちゃんとよしこちゃんは、ちゃんと挨拶出来るけどねえ」
あたしにもきちんと挨拶しろと言わんばかりだった。皮の事は何も言わない、自分は悪くないと信じきる母さん。
いいねえ、ストレスたまらないだろうねえ。
横浜にある叔父さん一家の家に遊びに行った。
玄関で父さんと母さんと姉ちゃんが挨拶している間、あたしは照れくさくて黙っていた。
通されたリビングでもそわそわしていた。
出された料理を食べようとしてこぼして洋服汚すし、飲み物飲もうとして倒してテーブル滅茶苦茶にするし、散々だった。
叔母さんは、果物の皮をきちんと剥く人だった。この人は中途半端な事をしない賢い主婦だ。さすが!だからなっちゃんとよしこちゃんもきちんとした賢い子に育つんだねえ。うちとエライ違い。
食後、なっちゃんとよしこちゃんがトランプしようと言ってくれ、姉ちゃんは愛想良く応じていたが、あたしは何だか気が乗らず、その辺にあった雑誌を読んで過ごした。
…家に帰ってから母さんが半狂乱でわめく。
「あんた、ちゃんとしなさいよう!」
またキチガイ沙汰だ。もううんざり。
「挨拶しないし、料理は食いっこぼすし、飲み物は倒すし、なっちゃんやよしこちゃんがせっかく誘ってくれたのにひとりで雑誌見てるし、汚れた洋服で電車に乗る羽目になるし、あたし今日またあんたのせいで恥かいたわ!もう嫌!本当にあんたって恥ずかしい!!大嫌い!!」
母さん、あんただって恥ずかしい母親だよ。今日はいつかみたいに出された酒に酔って醜態さらさなかっただけいいんだろうけどさ。
「うちでおかしいの、あんただけよ!何で出来ないのよ!挨拶くらい!行儀くらい!トランプくらい!何で出来ないのよ!何でよ!ああ恥ずかしい!!」
…そりゃ、すいませんでしたねえ。
学校の友達がうちに何人か遊びに来た。みんなお菓子を持ち寄ってくれた。遊んでから、帰っていくみんな。
その後ろ姿を見ながら母さんが言う。
「あんた、今日来た子たちはみんな悪い子だから付き合うのはやめなさい」
何でだよ。みんなあたしの大事な友達だよ、しかも数少ない、って思ったら勝ち誇ったようにこう言った。
「何故かって言うとね、話す内容をあたしは聞いていたけど、みんな勉強も出来なそうだしテレビや男の子の話ばかりだし」
…いちばん腹の立つ言い草だった。
友達がうちに何人か遊びに来た。
が、母さんが友達の前であたしを怒る。
「あんた、今先生から電話あったよ。休みの間の宿題まだ提出していないんだって?出していないのあんただけだって?」
…何も友達の前で言う事はないだろう。友達も気まずそうにしている。
「分かったから、あっち行っててよ」
と言うが、まだ引き下がらない。
「早くやりなさいよ。遊んでいる場合じゃないでしょ」
友達に「もう帰ってくれ」と言わんばかりだ。
…友達は気を使って帰って行った。
満足そうな顔の母さん。
母さんは友達の前であたしに恥をかかせた。
別の友達が何人かうちに遊びに来た。
が、また母さんが友達の前であたしを怒る。
「あんた、今先生から電話があったよ。掃除さぼって友達と遊んでいたんだって?何でそんな事するのよ!」
と、声を荒げる。今言わなくてもいいのに…。
「分かったから、向こう行っててよう」
友達の前でかっこうが付かない。
「今から学校に行って先生に謝って来なさいよう!」
母さんがキレている。
「自分の撒いた種、自分で刈り取りなさい!」
友達が見ている前で、あたしの腕を掴んで玄関へ引きずって行き、両手で押しやり、抵抗するあたしを足で何度も蹴ってまで外に出そうとする。
…友達はそそくさと退散して行った。
母さんはまたしても、友達の前であたしに大恥をかかせた。明日学校へ行ったらきっと変な目で見られるのだろう。悪い噂も立てられるのだろう。
家も居たたまれないけど、学校も居たたまれない。
友達のうちへ遊びに行く事になった。お菓子を買わなくてはいけないのでお金を頂戴と言った所、母さんが大げさに驚いて言った。
「あんた、この前もお小遣い渡したじゃない。どうしたの?」
「あんなのとっくに使っちゃったよ。友達とアイスクリーム食べたから」
「あんたが奢ったの?」
「だって、いつも奢ってくれる人だから」
「ほら!」
何がほら!だよと思っていたら鬼の首を取ったように鼻息荒く言う。
「あんた!たかられているのよ!」
「そんな人たちじゃないよ!友達だよ!」
「あんたは馬鹿だから分からないのよ。あんたの友達はみんな、あんたの財布を狙っているのよ!」
「そんな人たちじゃないよ!いつも奢ってもらって悪いから、奢ったんだよう!」
「あたしには分かる!あんたは完全にだまされているのよ!」
泣いて違うと訴えるあたしの話を、母さんはどうしても聞いてくれなかった。
「泣き落とそうったってそうはいかないわよ!」
だと。自分だって年がら年中、人を泣き落そうとするくせに!
「あんたも今回よく分かったろ?自分が騙されているって」
って何回も言うし。
…結局この日、お金をもらえなかったあたしは手ぶらで友達の家に行った。みんながスナック菓子をひとつずつ持ち寄る中、ひとりだけ手ぶらで惨めだった。出されたお菓子にどうしても手を出す気にならなかった。
笑いさざめくみんなの中、ほんの少しも楽しくない時間を過ごした。
友達の誕生日会に招待された。クラスでも人気のある子なので、呼ばれるのは光栄な事だった。
プレゼントを買わなくてはいけないのでお金を頂戴と言ったら、母さんが言った。
「100円のノート一冊でいいじゃない」
「それじゃあ格好がつかないよ。みんなもっといいの持ってくるし」
と言ったら、父さんも不満そうに言う。
「鉛筆1ダースでいいじゃないか」
「もっとかっこ悪いよ」
父さんが言う。
「出血大サービスだな。その友達はお前に何してくれるんだよ」
母さんが言う。
「あんた、男に貢がされるようになるよ」
二人でせせら笑ってやがる。
何でそう悪く悪く考えるかねえ。ってか、珍しく夫婦で意見が合っているけど。
誕生日会の当日、どうしてもお金をもらえなかったあたしは、下手なりに自分でマドレーヌをたくさん焼き、アルミホイルでひとつずつくるみ、家にあったリボンを付けてプレゼントにした。
もうひとつ、母さんが
「失敗作」
と言って放り出した母さん自作の造花のイヤリングを拾い、小さな紙袋に入れてそれもプレゼントにした。
みんなが可愛いハンカチや、小ぶりのぬいぐるみを持参する中、お金のかかっていないプレゼント、ましてや「失敗作」で恥ずかしかった。
俯いて、渡した。
母さんが家計簿を前に「唸って」いる。
また心配になり、つい声をかける。
「母さん、うち大丈夫?」
大丈夫と言って欲しかったが、こんな答えが返って来た。
「あんた、これ覚えておきなさい。お給料ってのは我慢料よ。毎日どのくらい我慢したか、会社はそれを見て給料を我慢料として払うのよ。向こうはなるべく払いたくないと思っているんだからね」
答えになっていない。我慢ばかりしていたら病気になっちまう。それに我慢ばかりして働いても楽しくないだろう。今もつらいが、大人になって働くようになってもつらいのか?
つらいばかりの人生ならもう嫌だよ。楽しい人生なら生きるけど、大人になってもつらいばかりなら、もう今死んじまいたいよ。我慢料なんて、冗談じゃない。
それに父さんも母さんも変な所すごく我慢強いけど、すべき我慢していない気がする。遠慮なく当たり散らして、家族を不幸にしているよ。何が我慢料だよ、あたしに我慢料払ってくれよ!
母さんがまた言っている。
「あたしは夫選びに失敗したわ」
それって父さんの事も否定しているし、姉ちゃんやあたしが生まれた事も否定しているよ。
母さんって何で父さんと結婚したんだっけ?JELだからだよね?自分の言葉と選択に責任持とうよ。
夕飯の支度をしようとして、うっかり油をこぼしてしまった。拭いても拭いてもまだ床がギトギトしている。
忙しい母さんに代わって家事をしているというのに
「自分の撒いた種は自分で刈り取りなさい」
だってさ。いいねえ、その考え方。母さんもそうしなよ。自分の撒いた種、自分で刈り取りなよ。恩着せがましく
「あたしはあんたたちの為に、気の合わない夫とやっているのよ」
とか言っていないでさ。
ねえ、母さん!自分の撒いた種、自分で刈り取りなよ!
生理が始まった。最初何だか分からず、あれえまたウンチ漏らしたかいな?って思った。
母さんに言ったらめんどくさそうに生理用品をどっちゃり用意して
「使い終わったナプキンはこの汚物入れに捨ててよ」
とトイレ内の箱を指さしながら言った。
…つい忘れて、トイレからナプキンを持ったまま出てしまい、洗面所にあるごみ箱に捨てちまった所、母さんが激高した。
「ここに捨てないでよ!臭いから!臭い嗅いでみなさいよ!」
と捨てたナプキンを、あたしの顔に強引に押し当てた。
自分のとはいえ、汚れたナプキンを顔に押し当てるなんて、人間扱いしてくれていない。汚くて、嫌で、顔を背けているのに、あたしの髪を掴んでまで顔にナプキンを当て、しつこく臭いを嗅がせ続ける母さん。気持ち悪くて涙が出る。吐きそうだ。
この人は、本当に人として最低だ。
夕飯時、母さんは毎日こう言う。
「今日、給食、何だった?」
仕方なく、給食のメニューを答える。会話はすぐ止まっちまう。
すると今度はこう言う。
「何か変わった事ない?」
んーな、毎日毎日ある訳ねーだろ。首を横に振る。
「今日、学校どうだった?」
そんな漠然とした言い方をされても困る。
「別に」
としか言いようがなかった。
何か会話しながらワイワイ楽しく食べたいのは分かるが、毎日同じ事を聞かれて辟易する。どうせ毎日同じ事を聞いているって認識ないんだろうし。
それに母さんは例え「こういう事があった」と相談したって、涙の出る嘘泣きするか
「さあ、どうしたらいいかねえ?あたしにはそういう経験ないから分からないねえ」
と言うかどっちかだし。だから言ってもしょうがないんだよ。最初から口出しするなよ。
…ある日もうたまりかね、給食の献立表の紙を母さんの席に置いた。
その日は
「今日、給食何だった?」
とは聞かれず、ほっとした。
ああ、黙っていてくれ。そう思いながら、まずい食事を腹に詰め込んだ。
「今日、給食何だった?」
と言えなくなった母さんと二人で、黙って食事をしていたらこう言われた。
「食事はお喋りしながら楽しくするものよ」
だったらてめえが何か言えよ、と思っていたら更に言う。
「何か喋りなさいよ」
今日の給食は何だったか、と聞かれるよりはましだった。仕方なく話題を探し
「朝、友達におはようって言ったけど無視された」
と言ったら
「それはあんたがその子に何かしたからでしょう」
という答えが返ってきた。今から、あたし何かしちゃったかなあ、と言おうとしていたのに何も言えないよ、と黙ったらまた言われた。
「何よ、黙っちゃって。何か言いなさいよ」
だから別の話題を無理に探す。
「調理実習があったんだけど、みんなバラバラだった」
「それはあんたが協調性ないからでしょう。あんたがみんなをまとめたらいいじゃない」
何を言っても否定されるのか、また黙った。
「何よ、何か喋りなさいよ」
母さんがまた切り口上で言う。また仕方なく別の話題を無理に探す。
「この前キヌコちゃんから聞いたんだけど、キヌコちゃんの親って子どもが困っている時だけ助けてやるって考え方なんだって。マリ、尊敬したわ」
母さんが黙り込む。何だろうと思っていたら、急に大口を開けて泣き顔を作り、両手を顔に当てる。
ああ、まただ。母さんの最初に泣き顔を作ってから無理やり涙を出す「涙の出る嘘泣き」が始まった。
大声で泣き続ける。
「あはーーーーーん、あはーーーーーーーーーん」
小さい子どもみたいな泣き方。今に始まった事じゃない。あたしは黙って食事を続けた。母さんはまだ涙の出る嘘泣きを続けている。
「あはーーーーーーん、あああああああああああああん」
いつまで続けるんだろう、この人。親のくせに、まず自分が子どもになってこっちに甘えてくる。どっちが親だか分かりゃしない。またどうせ修羅場を起こしたいんだろう。いつも修羅場を望み、実際修羅場になるとエキサイトするんだから、もう分かっているよ!
どうにも接しようがないし、黙って食事を続ける。
昼寝をしていた父さんが、母さんの泣き声に起きたらしく、襖を開けてやって来た。
寝ぼけ眼の父さんが、母さんに言う。
「どうしたの?」
母さんが幼稚園児のように、しゃくり上げながら言う。
「マリが、マリが、あたしの全存在を否定した」
「マリが?」
父さんが不思議そうに言う。
「そんなつもりで言ってないよ」
と、苦手な反論をしたけど
「でもそうなんでしょう」
と言う。
「だから何か喋れっていうから、話題を探してキヌコちゃんの話をしただけじゃん」
と言ったが
「でもそうなんでしょう」
と何回も何回も言う。
「じゃあ、あたしの今までの人生は何だったの?何だったのおおおおお?」
って、絶叫してやんの。
「死んだ方がましよ!」
とも吠えていた。おーおー死ねよ、静かになって嬉しいよ!呆れて黙るしかなかったよ。
母さんは、あたしが誰かの悪口を言えば、自分が褒められたような顔をし、あたしが少しでも誰かを褒めれば、自分がけなされたように騒ぎ立てる人だった。全然そんなつもりなかったのに、もう何も言えないよ。
そしてその日から、
「まあ、あんたはどこかに尊敬している人がいるんだろうけど」
だの
「あんたはあたしの全存在を否定しているようだけど」
だの
「あたしはあの時のあんたの言葉を一生忘れない」
と言うようになった。
「マリ、あんたはもう小さいうちに死んだものと思っているからね」
と言い続け、あたしの全存在を否定したのは誰だよ。
「あんたがあたしの理想とする良い子にならなきゃ、絶対うちの子として認めない!」
とか。
言うのは良くて、言われるのは我慢ならないなんて、おかしいよ。相変わらずあたしの頭の上には、疑問符ともうひとつ、怒りのマグマが乗っていた。
自分の部屋にいると、またリビングで父さんと母さんの喧嘩している声が聞こえてきた。
慌てて飛び出し、二人どっちかの拳が、流れ弾みたいに飛んでくるかも知れないと思いながらも止める。
「やめてよ!」
あたしの声は、叫びは、切ない心は、二人に届かない。二人は喧嘩をやめない、やめてくれないと分かっていながらも叫ぶ。
「やめてよう!」
父さんが母さんを、リビングの隅まで追い詰め、壁を殴る。
…正確には母さんを殴ろうとして、母さんに避けられ、壁を殴る羽目になっていた。
何回もそれが繰り返される。
「もうやめてよう!」
ああ、母さんに当たるんじゃないか。ひやひやしながら何とかやめさせようと、父さんの右腕にしがみつく。
母さんが言う。
「だって本当の事じゃない、何が悪いの?」
喧嘩の原因は分からない。何が本当で、何が嘘か、まったく分からない。ただひとつだけ分かるのは、この喧嘩を止めなくてはいけない、という事だけだ。
「あたしは何も間違った事を言っていないし、していないわよ」
お願い、母さん、黙って。
あたしの腕を振り払った父さんが、またひとつ壁を殴る。
ああ母さん、この一発は避けられたけど、次の一発は避けきれないかも知れないよ。
だから
どうか
黙って。
学校から帰ると、また父さんと母さんが喧嘩している。リビングの入り口で、じっと見ていた。
…ようやく言い争いが終わる。今日は暴力沙汰にならなかった。ほっとして、やっと荷物を肩から降ろす。
母さんが言った。
「何、あんた。帰っていたの?」
帰っていたら、悪いかよ。
部屋にいると、パンッ!と蚊でも叩くような音が聞こえた。直後にまた、パンッ!と聞こえる。続いて母さんの悲鳴。ああ、蚊ではなく母さんを殴っているんだ、と慌ててリビングへ行く。
父さんが母さんに馬乗りになって殴っている。恐ろしい光景だと思いながら、父さんの右手にしがみつく。
「父さん、やめてよ。やめてよお!」
振りほどかれ、また母さんが殴られる。
パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!母さん、ここまで激高させる前に、黙れば良かったのに。原因は分からないけど、そう思わずにいられなかった。
朝起きると、また父さんと母さんが喧嘩している。朝ごはん、と言える空気ではない。ってか、食欲などない。壁を背に二人が罵り合う声をじっと聞いていた。
…ようやく喧嘩が終わる。母さんが台所へ歩いてきて、やっとあたしの存在に気付いた。
「何、あんたそこで何しているの?」
「…気になるから…」
そうとしか言えなかった。
母さんが満足そうな顔をする。この子はあたしをかばわずにいられないんだわ、と言わんばかりだった。
「かわいそうな象」の話が嫌いだ。自分のようで、嫌だ。
そう、あたしはあたしが嫌い。誰に嫌われてもつらいが、自分に嫌われるほどつらい事はない。
本当に、あたしはあたしが嫌い。自分の人生も嫌い。こんな人生いらない、あたしなんて死んでしまえばいい。本当にあたしなんか死ねばいい。
家にいると、父さんと母さんの喧嘩、ってか、戦争に巻き込まれて、めげてめげて毎回死にたくなる。いつ空襲があるか、焼夷弾が降って来るか分からず、常にビリビリと緊張している。あたしもその物語に出てくる飼育員のように、空に向かって叫びたい。
「戦争をやめてくれ、戦争をどうかやめてくれえええええええええええええ!!」
学校の帰り、車道をちょこちょこ走っている子猫を見つけた。今にも車に轢かれそうだ。道路に飛び出して子猫を助ける。あたしが車に轢かれなかったのは奇跡だ。
そのまま家に連れて帰る。すごく可愛い。ぜひとも助けてあげたい。母さんに必死に頼む。
「この子猫ちゃん、飼ってもいいでしょう?可哀想だよ、飼ってあげよう」
「えー?猫お?」
母さんは、さもめんどくさそうにしている。
ミルクを飲ませた途端、猫は下痢便を撒き散らした。
「嫌だ!そこにもここにもウンチがついている!あんた拭いてよ!」
母さんが金切り声を上げる。猫だって、知らぬ家に急に連れて来られて緊張しているんだろう。下痢くらい、仕方ない。空き箱にハンカチを引き、猫を入れた。
「ここが君の家だよ」
そっと撫でてあげる。
猫がおびえた眼差しであたしを見上げる。
翌日、学校から帰ると猫がげっそりしている。ミルクを飲ませようとしたら母さんに止められた。
「下痢しているのにミルクなんか飲ませてもしょうがないじゃない」
そんな、猫が空腹なのは一目瞭然だ。ミルクを飲ませた途端にまた下痢便をした。
「ほらっ!だから言ったじゃない!」
母さんがまたキレている。
猫が救いを求める目であたしを見上げる。
さらに翌日、猫が心配だが学校へ行く。授業中も猫が気になってたまらない。
授業が終わり、すぐに走って家に帰る。
猫がもっと痩せている。このままでは死んでしまう。
ミルクを飲ませようとしたら、母さんに後ろからひっぱたかれた。
「勿体ない!下痢してるのにミルクなんか飲ませてもしょうがないでしょ!」
「死んじゃうよう!」
必死に猫を守ろうとした。猫は少し飲んで、すぐ吐いた。胃が受け付けなかったらしい。そして下痢もした。
「ほらあ!もう、捨ててきてよう!」
母さんがいよいよキレている。
また次の日、いてもたってもいられないが学校へ行く。
「行ってきます」
と言うあたしを、母さんが冷ややかな目で見る。とてつもなく嫌な予感がする。
…急いで帰ってきたら猫がいない。
「猫は?」
母さんは黙っている。
「猫はどうしたの?」
母さんを揺さぶって聞く。母さんがあたしをうるさそうに振り払う。
「捨てて来たよ。しょうがないじゃない」
「どこに?どこに捨てたの?」
「公園」
慌てて家を飛び出す。
公園のどこを探しても猫はいない。自分でどこかへ行ったのか?それとも親切な人に拾われ、今度こそ温かく栄養のある食事を食べさせてもらっているのか?張り裂けそうだった。
猫はどんなに探してもいなかった。暗くなるまで探したが、どうしても見つからなかった。へとへとになり家に帰ったあたしに、姉ちゃんが言った。
「マリ、あの猫ね。父さんが可哀想に思って母さんが捨てに行った後、公園に行って拾って、そのまま駅前まで行ったんだって」
いつも意地悪ばかり言う姉ちゃんが、珍しく真摯な口調で言う。
「それでね、なるべく優しそうな人を探して、この猫をもらってくれませんかって聞いてもらってもらったんだって。会社員風の女の人だったってよ」
良かった。猫は助かったんだ。あの父さんがよく猫を拾いに行ったな。ましてよく知らない人にもらって下さいと頼んでくれたなと感心した。
父さんにしては快挙だよ。初めて父さんを良い父親だと思ったさ。
これに関しては、姉ちゃんも母さんを責めた。
「母さん、ひどいよ。マリが学校に行っている間に、勝手に捨てるなんて」
たまにはあたしの味方をしてくれるのか、姉ちゃんいいとこあるじゃん。
母さんは開き直って言ったよ。
「何よ、あんたたち。あたしひとりを悪者にして。あたしに何のミスがあるのよ。あたしは何も間違った事をしていないし言っていないわ」
じゅうぶん間違っているだろう。
母さん、あんたこそ公園に捨ててやりたいよ。
猫を失ったさびしさに耐えられない夜、窓を開けたらお琴の音色が聞こえてきた。どこから聞こえるんだろう。素敵な音色だなって思った。
何と同じ社宅の人が、自宅でお琴教室を開いていたのだった。是非とも習いたい。ピアノやバレエやオルガンや水泳、母さんに決められた習い事はどれも続かなかった。あんな素敵な音色を自分で奏でられたら、どんなに良いだろう。
それはあたしが初めて「自分から始めたいと思った習い事」だった。お金もかかるだろうし、母さんは何て言うか心配だったけど、思い切って言ってみた。
「母さん、あたしお琴を習いたい」
「お琴?」
じっと顔色を見る。母さんはしばらく考えてから言った。
「ちゃんと練習する?」
頷く。
「ちゃんと勉強する?」
また交換条件かよ、と思ったがこの際仕方ない、と頷く。
「じゃあいいよ」
ぱあっと嬉しくなって笑う。
母さん、いいとこあるじゃん。
お琴は楽しかったよ。好きで始めた事だもん。先生も優しかったしね。
あたしは生まれて初めて「自分の意志で何かを始めた充足感」に満たされていた。
勿論、発表会にも出たよ。着物を着て(母さんが着せてくれた)緊張しながら弾いたもんさ。バレエやピアノでは一度も発表会なんて出なかったけど、お琴は何回も出た。お客さんから拍手喝采を浴びてさ、あたしの大事な思い出だよ。
ただね、母さんは来る日も来る日も言ったよ。
「マリ、練習しなさい、練習!あと勉強もね」
もううるさいっつーの!
そしてテレビでお琴の演奏が映っていると、必ずテレビを指さしてこう言ったよ。
「マリ、ほら、お琴」
分かっているよ、もう言わないでくれよ。
それは毎日続いた。
「マリ、ほら、お琴」
必ずテレビを指さして言う。もううんざりだ。いい加減にしてくれ。
思い切って言った。
「ねえ、テレビを指さして、マリ、ほら、お琴って言うの、やめてよ」
「だってあんた、習っているじゃない」
あたしはテレビやら何やらでお花を見たって
「母さん、ほら、お花」
なんて言わないのに。
母さんはそれからもテレビを指差して言い続けた。
「マリ、ほら、お琴」
話しかけようと、母さんの方を向いて言った。
「今日ね…」
次の瞬間、母さんが蚊でも追い払うように手を振りながら声を荒げる。
「ああっ!興味ないっ!」
…黙るしかない。
ひどく疲れた。ひとりで黙って過ごしていたい。
機嫌良さげな母さんが、勝手にあたしの部屋に入って来て言う。
「今日、学校どうだった?」
今は黙っていたいんだ。話しかけて来ないでくれという思いを込めて首を横に振る。
「何よ、あんた。あたしは忙しいのに娘を気にかけてやっている、健気な母親なのよ」
したり顔で言う母さん。
何が健気だよ、今は黙っていたいんだ。どうか分かってくれ。
「何よ!人の好意を無にして!何か喋りなさいってば」
ああしつこい。何て鬱陶しい人だ。どうか、黙っていてくれ。どうか、こっちにも黙って過ごさせてくれ。
「ほら!ほら!笑いなさいよ!」
あたしを無理やりくすぐる母さん。ああ、やめてくれ。あなたを骨折させてしまいそうだ。
神様、どうか理性を保たせてください。
母さんは、一事が万事、それだった。徹底的に人の神経を逆撫でし、来る日も来る日も情けなくて惨めな思いをさせた。
ああっ悔しい!あたしは常にそう思いながら、ぐっと堪えていた。
そんなあたしに母さんは嗤いながら言った。
「あたしの人生の最大の失敗は、父さんと結婚した事と、父さんそっくりのあんたを生んだ事よ」
母さんは完全にあたしを自分の「所有物」と思っている。あたしゃ物じゃねーよ。ましてやあんたの持ち物じゃねーよ!人格を持ったひとりの人間だと思っていたら、こんな扱いしねーだろ。
汚れたナプキンを強引に顔に押し当てたり、猫捨てたり、気分次第でコロコロ変わるし。
「最大の失敗」の父さんは父さんで、毎日キレて暴力ばっかり振るうし。
二人ともよくそんなに怒るネタがあるなって思ったよ。
「ここは俺の家だ!出てけ!」
「口で言って分からないなら体で分からせる!」
そればっかり。それでいてしばらくして落ち着くと
「マリ、さっきは殴って悪かったな」
とか言って謝ってくるし。
だったら最初から怒るなよ、怒鳴るなよ、殴るなよってーの。
猫の件で、ああ良い父さんだなって思ったのもつかの間、豹変するなよ、もーおーお。
「腫れていないか、どうだ、傷を見せてみろ、見せてみろ」
見せたらこの痣が治るのかよ、腫れが引くのかよ。と思いながら黙っていると
「ほら、見せてみろ、見せてみろ」
と、しつこく言うんだよ。どういう思考回路になっているのか知らないけど。
「何だよ、お前、俺が見せてみろって言っているのに!」
って、またキレてまた殴るし。
この前なんて、あたしが自分の事を「マリが」と言っただけで
「あたしって言え!」
って殴られた。
「痛い!マリ何も悪くない!」
って言ったら
「言う事を聞け!」
とまた殴られた。
正しいと思わないから言う事を聞かないんだよ。もう嫌だよ。それに父さんの言う事聞いていたら父さんみたいになっちまうんだろ!それも嫌だ!
ましてそのテレビで教育評論家の人が
「子どもは褒めた方向へ伸びます」
と言うのを聞いて
「褒めたらそれでいいって思うじゃないか」
って、テレビに向かってツッコミを入れているし。
「あたしもそう思うよ」
と言ったら、あたしの顔を見て
「お前のどこを褒めろって言うんだよ。親に口答えする、勉強できない、言葉遣い悪い、誰が褒めるか、褒めたら自信持つだろ、自信持ったら努力しないだろ」
だってさ。
「お前、誰のお陰で学校行ってる?誰のお陰で何不自由ない生活出来る?」
とも言っていた。
学校行けて有り難いなんて思った事ねーよ!義務教育だし公立だし!それに不自由だよ!すげー不自由!
食事の時は、毎度毎度自分の分をテレビの前のちゃぶ台へ運んで、テレビを見ながらひとりで食っているし。
「こっちへ来てくれるな」
だって。誰もあんたの近くになんぞ行きたかないよ。加齢臭ひどいし。
テレビが恋人かよ、テレビが家族かよ、テレビと結婚すれば良かったんだよ。テレビに映ったディスコに釘付けになって
「ディスコ行こうか?」
とか姉ちゃんに言っているし。
姉ちゃんが黙っていたら
「ディスコ行こうか?行ってみようか?」
だって。自分が行ってみたいだけだろ!母さんがまた烈火のごとく怒り狂う。
「中学生の娘にディスコ行こうかなんて馬鹿じゃないの?」
うん、あたしもそう思うよ。
そうかと思えば麻雀の本を買ってきて、また母さんに怒られてるし。
「ただ本買っただけだもん」
だって。ええおっさんが「だもん」とか言って言い訳するなよ、どあほ。
「本買うって事はやろうとしてるって事じゃない」
母さんは追及の手を緩めないし。年がら年中喧嘩ばかり。何であんたら結婚したんだい?もういい加減にしようよ!
もう嫌だよ、こんな家。
もう嫌だよ、こんな親。
もう嫌だよ、こんな人生。
過干渉も、過支配も、過剰反応も、所有物扱いも、交換条件も、脅しも止まらない。
ああもう嫌だ。
もう限界だあああああああああああああ!!!!!
その頃、母さんは夕飯時によくこう言ってた。
「父さんと母さんは、性格の不一致で別れる事にしたからね」
あたしは黙って頷く。姉ちゃんも黙っていた。そうしてくれて良かった。心からほっとする。
もうこれで喧嘩を見なくて済む。生活がどうなる、なんてのは、もうどうでも良かった。
母さんは「何よ、もっと動揺するとか泣いて止めるとかしなさいよ」と言いたげな顔をしていた。誰が止めるかよ、お前らの離婚を。
そして翌日、また夕飯時に言った。
「あたしはあんたたちの為に、離婚を思いとどまったからね」
何だよ、別れりゃいいじゃん。黙ってまずい夕飯を口に運んでいると、また不満満タンって顔をしていた。
「何よ、もっと喜びなさいよ」と言わんばかり。誰が喜ぶかよ、お前らの復縁を。
それは一回や二回じゃなかった。離婚する、と聞くたびに少し嬉しく、思い留まる、と聞くたびに物凄く残念だった。家族で囲む食卓は、苦痛で、居たたまれず、たまらなく不幸な時間だった。
そして相変わらずこう言った。
「あんた、やるって言ったじゃない」
こっちは
「母さん、離婚するって言ったじゃない」
なんて言わないのにさ。
姉ちゃんは受験勉強とか言って、食べっぱなしで自分の皿ひとつ下げずに、部屋に引っ込んじまった。
ちょっとでも音を立てると
「うるさい」
って言うし。この前なんて、歯磨きするシャカシャカ言う音に反応して
「うるさい」
と言いやがったよ。受験生がそんなに偉いのかよ。
ダイニングテーブルにも台所にも、汚れた食器や鍋が山積みだ。取り込んだままの洗濯物が、山のようにソファに積んである。風呂掃除も部屋の掃除もまだだ。あたしがやるしかないんだろう、と立ち上がったら母さんが言った。
「あたしは父さんが大嫌いだけど、あんたたちの為に離婚せずに我慢しているんだからね」
さあ感謝しろってか?我慢しているのはこっちだよ。
「ねえ、聞いてる?あたしはあんたたちの為に我慢してるって言っているのよ!」
母さんがあたしを揺さぶる。皿を洗う手が止まっちまう。うぜー母親だ!
「この家はね、あたしの我慢の上に成り立っているのよ、本当よ!あたしはこんな地獄のような結婚生活を、あんたたちの為に我慢してやってる、凄く可哀想な、良い母親なのよ」
何言ってるんだよ、ムカついて、ムカついて、思い切って言ってやったよ。
「じゃあ最初から結婚しなきゃ良かったじゃん」
「でもそうしたらあんたたちだって生まれてこなかったじゃない」
「じゃあいいじゃん」
これは父さんと同意見だ。父さん、珍しく意見が合ったねえ。
「でも、現にあたしは我慢ばかりしてるのよ!大変なのよ!」
「だからそういう事言うなら、最初から結婚しなきゃ良かったんだよ。そうすればもっと良い家にあたしも生まれたかも知れないじゃん」
「もっとひどかったかも知れない」
「もっとましだっかも知れない」
「もっとひどかったかも知れない」
母さんは何回もそう言った。
うちよりもっとひどい家ってどんなかねえ。想像もつかないよ!
厄介な事にね、うちは傍目には立派に見えたらしいんだよ。みんながみんな、親の職業を聞いただけで
「じゃあ、あなたの家はお金持ちなのね」
だの
「立派な家なんだろうね」
と、のたまった。
「お父さん、パイロット?」
と聞く人も多かった。パイロットじゃないよ、事務職だよと答えるとそれでも、へえ、と感心した顔は変わらなかったよ。
「お父さん、偉いんだ」
とかね。いやいや、職業と人間性は別物だよ。それに一流企業に勤めていたって薄給じゃしょうがないよ。家計は火の車だよ。
父親は一流企業に勤めているのに、母親はお花の先生で、綺麗で礼儀正しいのに、どうしてあなたはそんななの?みんながみんな、疑問に思ったようだ。
あたしはそれこそ疑問だった。どうして実情を分かってくれないの?あたしのこの姿は、助けを求めている姿なんだよ!
父親は強引にあたしの裸を見るし、母親は強引に汚れたナプキンを顔に押し当てるし!毎日何かしらで引っぱたかれて悔し涙を拭うあたしは、昔見たサーカス小屋で団長に殴られて涙と鼻血を一緒に拭いている人たちのようだった。
ああ神様、どうしてこんなつらい人生をあたしに与えたんですか?
みんなは楽しそうにしているのに、あたしばっかり毎日体罰や罵詈雑言や追い出しでもう嫌です。
つらいだけならもう死にたいです。殺してください。そうすれば楽になれる…んでしょう?
そして気が狂いそうな毎日の中で、精神のバランスを取る為にあたしはひとつの方法を編み出しちまった。それは学校で、自分より弱そうな子を上手に見つけて、いじめる事だった。蟻ではなく、友達をターゲットにした。
いじめに関してはずっと被害者だったあたしが、加害者に転じた瞬間だった。
加山さんは手の甲にいぼのある女の子だった。
本人もそれを気にしていて隠そう、隠そうとしていたよ。あたしはそこを見逃さなかった。
あたしは加山さんをいじめたよ。
いぼ、いぼって言ってね。すっとしたよ。
金井さんはぼんやりした女の子だった。
当時としては珍しいひとりっ子でね。おっとりしていたよ。
あたしは金井さんをいじめたよ。服装や髪形に、なんやかんやといちゃもんをつけてね。楽しかったよ。
小山さんは独り言を言う癖のある女の子だった。
あたしは小山さんをいじめたよ。
ひとりで喋ってんじゃねえよ!ってね。
気持ち良かったよ。
木本くんは母子家庭だった。
両親が離婚して、お母さんは懸命に働きながら木本くんと妹さんを育てていた。
あたしは木本くんをいじめたよ。汚い母親!だの、あんたの妹あんたそっくりでちっとも可愛くない!とか言ってね。
胸のつかえがおりた気がしたよ。
里中さんは体臭の強い女の子だった。
みんな遠慮して言わなかったが、あたしはずけずけと言った。
「くっせーんだよ!あっち行けよ!シッシッ!!」
心の檻から出たような気がした。
金井さんと加山さんと小山さんと木本くんと里中さんは、不思議だったと思う。何も悪い事をしていないのに、何であたしなんかにいじめられなきゃいけないんだろうってね。
みんな最初「何かの間違い?」って顔をしていた。だけどいじめが度重なると、その顔は一変した。
「またかよ」という顔になり段々「もうやめてくれよ」という顔になった。
「沖本さん、そのいじめ、その意地悪やめてくれ」と色々なサインを、友達はあたしに送ってきた。悲しそうな顔をしてみせるとか、すっと避けたりとか、ほかの友達を通して「いい加減にしてくれ」とメッセージを送ってきたりね。
けど、あたしはいじめをやめなかった。
父さんに滅茶苦茶に殴られた翌日、学校で誰かにいちゃもんをつけて滅茶苦茶に殴ったよ。
父さんは必ずこう言った。
「お前が悪いんだ!お前が!」
母さんに罵詈雑言を浴びせられた翌日、学校で誰かにいちゃもんをつけて滅茶苦茶に罵詈雑言浴びせたよ。
母さんは必ずこう言った。
「あんたが悪いのよ!あんたが!」
だからあたしも友達を殴ったりののしった後、必ずこう言った、
「あんたが悪いんだよ!あんたが!」
そして冷たい背中を向けて立ち去りながら、心の中でこう叫んだよ。
「いいね、あんたたちは、親に愛されているんでしょ!」
よく加害者はどこかで被害者だったりする、というが、当時のあたしがまさにそれだった。
あたしの心はどんどん荒れすさんでいったよ。
そしてね、あたしはね、今も覚えているよ。
ってか、忘れられないよ。
自分がいじめた子たちの、あたしを恨む目を…。
その頃、来る日も来る日もあたしは家族にいじめられた。
我ながらよく耐えられるなって思いながら。
そしてその頃、来る日も来る日もあたしは友達をいじめたよ。
よく我慢してくれるなって思いながら。
あたしは中学生になっていた。
母さんはあたしには決して
「制服着ると立派に見えるね」
とは言ってくれなかった。
「もしあんたが不良になったら、あんたを殺してあたしも死ぬからね」
とは言ったけど。
「煙草やシンナー吸う子は凄いアホな顔になる。だからすぐ分かる!」
とも言っていた。
そういう事をしないでくれと言いたいならストレートにそう言えばいい。もしくは良い事をしよう、とか。何故ここまで神経を逆撫でするのか分からないよ。アホ面してるのは母さんだよ。
…ってか、なんか予感があったのかねえ。
あたしがグレそうって…。
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