第7話
母さんが得意気に言う。
「昔話でパンドラの箱を開けちゃったってのがあるのよ。その箱にひとつだけ残っていたものって何だか分かる?」
分からず首を傾げたら、胸を張りこう言った。
「人の心を見抜く事、なのよ。だから人は、他人の心を見抜くことだけは出来ないのよ」
そうなのかあ、とやっぱり不思議で不思議で、あたしの頭の上は相変わらず疑問符が所狭しと並んでいた。
母さんがまた得意気に言う。
「年上女房ってのは亭主を大切にするのよ」
「何で?」
と聞いたら、もっと得意気に言う。
「逃げられたら困るから」
そうかなあ?その奥さんが元々優しい性格とか、その旦那さんが大事にする甲斐のある人だからとか、ほかに理由があるんじゃないのかなあ?
母さんは父さんより年下だから、父さんを粗末にするのかなあ?だけど、仮に母さんが父さんより年上でも、粗末にするような気がする。実の娘も粗末にするくらいだし。
母さんは相手が誰でも粗末にするんじゃなのかなあ。役に立たないと思った友達も、見下して粗末にしていたし。
母さんが更に得意気に言う。
「結婚式場で働く人って儲かってたまらないわね。結婚する人はいなくならないし、人間そういう時にはお金におしめ付けないし」
…それを言うなら「お金に糸目付けない」だろうが!「糸目」と「惜しまない」が混ざったんだろうが、それに気づかないアホ面母さん!
おしめとは何だ!おしめとは!
母さんくらい堂々と言いきっちまえば、間違った事でも正義になるのかなあ。
あたしは大人になってから知ったんだけど、「負けるが勝ち」って、それを言うなら「逃げるが勝ち」であり、パンドラの箱にひとつだけ残ったのは「希望」だった。
また、災害や事故は避けられないけど、人は別の意味で避けられないし、容赦なく傷つけてくる場合もあるから怖いんだ、という事も知った。
そして当時から夫婦間の暴力に警察は対応してくれたし、夫の暴力に苦しむ女性を保護する施設も、数は少ないものの一応あった。
母さんが何故、そんなものは絶対にないと言い切ったのか、よく分からない。何も分かっていないのは母さんだった。
だが、もしそれを知っていても、母さんはなんやかやと理由をつけて拒否したような気もする。母さんにとって日常を変えようと闘うよりも、安全な所へ逃げるよりも、姉ちゃんとあたしの前で殴られて、可哀想と思え!とアピールしている方が良かったのかも知れない。悲劇のヒロインになりきれるからね。
まったくもう、母さんの思い込みのおかげであたしゃ色々な所で随分恥をかいたし、負けて悔しかったし、自分を駄目な奴だと思い込んで、一切の自信も自己肯定感も持てずに生きる事になっちまったよ。
歩くときは真下を向き、つまり自分の靴を見ながら歩くような子どもになっちまったさ。
よく友達に
「沖本さんって下向いて歩くんだよね」
って言われた。
しょうがないじゃん。ユウレイなんだからさ。
学校から帰ったあたしに、父さんが開口いちばんのたまう。
「お前、俺の小遣い取ったろう」
「知らないよ」
「じゃあ誰がやった」
「だから知らないよう」
「俺は知らん、お姉ちゃんがそんな事する訳ない。絶対にお前だ、断言する!」
よく断言するねえ、と思っていたら、母さんがひょいと顔を出して言った。
「あ、この前集金が来て、ちょうどお金足りなくて、あたしがあんたの財布から払ったの」
…絶句する父さん。不満げに見ていてもエヘヘと笑ってごまかすばかりで謝りもしない。いつかテニスラケットが無くなった、お前がやったんだろうと言った時と一緒で。
「マリに謝ってよ」
と言ったが、ヘラヘラしながらテレビの前に座り、いつも通り座椅子の形通りになって知らん顔で見てる。
こっちが絶句したい。
勉強しようとしないあたしに焦れた母さんがわめく。
「あんた、勉強しなさいよう!あんたが壁にぶち当たるのよう!!」
父さんも言う。
「な、お前、親の言う事に万にひとつも間違いはない。だから俺らの言う事聞け」
苦手な反論をする。
「だってこの前、俺の小遣い取ったって間違えたし、母さんだってしょっちゅうなんかしら間違えるじゃん」
母さんが間髪入れずに言う。
「親だって完璧じゃない。親だって間違う事ある」
じゃあ子どもはもっと完璧じゃないし間違うよ。それに死んだ身なら勉強したってしょうがないじゃん。
うちの親は相反する事ばっかり言うねえ。もう疲れるよ。
きっと、諦めてしまえば良かったんだろうね。サイレントベビーみたいにさ。
ただそうするのは、あまりにも不便で物理的に困った。頼んだ事はちゃんとやってほしかったし、親同士は仲良くしてほしかったし、あたしにも優しくしてほしかった。
どうすれば親は変わってくれるのかなと考え、一心に家事を手伝ったり、肩を叩いたりサービスに努めた。
が、駄目だった。親は変わらなかった。
間もなく母さんはあたしに、休む間もなく家事をさせるようになる。
部屋にいると母さんがノックもせずガラリと襖を開け、仏頂面をしてあたしを睨みながら一枚の紙を放り、すぐ閉める。
拾い上げたその紙には「トーフの味噌汁、たまご焼き、ほうれん草のおひたし」と書いてある。
あたしは台所に立ちながら思った。母さんってさぞかし便利だろうな。だって紙に書いて無言で放り込めば、自動的にそれができあがっているんだもん。お茶淹れて、と言えばお茶飲めるしさ。
それは来る日も来る日も続いた。
朝起きると、ダイニングテーブルのあたしの席にやっぱり紙が置かれてある。「洗濯、風呂ソージ」
あたしは洗濯機を回し、風呂掃除をしながらまた思った。母さんって何の為にあたしを生んだのかな。家事をさせる為なのかな。
学校に行く前に家事をするのは、あたしの日課だったし義務だった。
食事の支度から後片付けからごみ捨て掃除から洗濯から買い物から、何から何まで。
特に冬なんて、洗濯物を干す時に手がかじかんでつらかった。大量の洗濯物をやっと干し終え、いざ登校しようとすると玄関にゴミ袋が置かれている。「捨ててから行け」という事だ。
あたしは黙ってゴミ袋を持ち、ドアを開けた。ダストボックスにゴミを押し込んでいる所を、クラスの男の子に見られて囃し立てられた。
「やーい、ゴミ漁り、ゴミ漁り」
恥ずかしくて、ゴミ捨ては苦痛だった。
ここまでさせられている子はいなかった。
帰宅後、ダイニングテーブルのあたしの席に、メモと1000円札が置いてある。「もやし、鮭、キャベツ、ミソ」そのメモと1000円札を握り締め、とぼとぼとスーパーへ向かった。
帰ってからこれを調理させられるんだろうな、と思いつつ。
一度だけ母さんに文句を言った。
「なんでマリばっかり」
母さんは憤然と言ったよ。
「女の子だから。当然でしょ」
苦手な反論をする。
「お姉ちゃんだって女の子じゃん」
間髪入れず、得意な反論をする母さん。
「だってお姉ちゃんは勉強してるから。あんた、勉強しないじゃない」
姉ちゃんが勉強してるのは、早く自立して、早くこの家を捨てようと思っているからだよ。それに勉強している間は、出ていけとも家事を手伝えとも言われないからだよ。
…って言ってやりたかった。言えなかったけど。
小学生のあたしに分かっている事が、母さんにはまったく理解できていなかったからね。
母さんは来る日も来る日も言う。
「お手伝いして」
さあ、苦痛な時間のスタートだ。
「料理して」
「後片付けして」
「全部の部屋、掃除して」
「玄関掃除して」
「車の掃除して」
「洗面所掃除して」
「窓ガラスと網戸の掃除して」
「買い物して」
「靴磨きして」
「ごみ捨てして」
「風呂掃除して」
「トイレ掃除して」
「洗濯して」
「干して」
「取り込んで畳んでしまって」
1分たりとも休む事なく、労働させられる。なになにして、と言われるのは、もううんざりだ。へとへとになって、やっと座ろうとすると次の命令が来る。
「肩揉みして」
もう嫌だ。家事なんて、手伝いなんて、大嫌いだ。女中じゃねーよ、ふざけんな。
「暇ならやってくれたっていいじゃない。どうせ勉強しないんだし」
だの
「こんなうまい話ないわ。家の中に家政婦がいるなんて」
だの
「言われてからやるのが嫌なら、言われる前にやれば?そろそろ言われるってタイミング分かるでしょ?自分からどんどんやんなさいよ」
だの、本当に人間扱いされてねーよ。何が家政婦だよ。無休で無給で、駄洒落じゃねえよ。
そう思いながら、あたしは母さんの言うままに家事をこなし続けた。母さんは、有難うの一言もない。
「あんたのワイシャツの洗い方が悪いから、父さん会社で恥かいたってよ。ちゃんと洗いなさいよ、袖口の汚れ、人に見られて恥ずかしかったって言ってたよ」
だの
「あんた、子どものくせに手が荒れているわね。きっと苦労する人生ね。可哀想に」
だの。実の娘に言う言葉かよ。ってか、それ前にも言ってたよ。どうせ前に言った事も忘れているんだろうけど。
だったらゴム手袋をさせるとか、ハンドクリームを塗るとか、何とかしてくれよ。してやってるのに文句ばっかり、もうへとへとだよ。
親の顔色を見ながら家事をし続けるあたしは、まるで芸をすれば餌をもらえると思って空腹を堪えながら芸をし続ける「かわいそうな象」だ。
母さんはやり方が気に入らないと文句ばかり言い、餌をくれるどころか、鞭をくれるばかりだった。
確かにあたしは元々勉強なんて出来なかったが、家事で多忙を極め、成績は更に悪化の一路をたどっていた。
そんなあたしの成績表をパタリと閉じて母さんは言った。
「マリ、勉強しなさい、勉強!あんたが今に壁にぶち当たるのよ!」
そして泣き崩れた。
「マリ!あんたそんなに母さんを苦しめたいの?そんなに苦しめたいの?」
唐突過ぎて、何の事だかよく分からず慌てるあたしに、母さんは髪をかきむしりながら続ける。
「あんたが宿題をしないと、成績が悪いと、あたしは苦しいの!死んじゃうの!あたしを殺す気なの?!ねえっ!ねえっ!!」
どう接すればいいか分からなかった。どう慰めればいいのかも。
「マリが勉強しないなら、あたし死ぬ。本当に死ぬ。今すぐ死ぬ」
死んでみろよ、ほら死ねよ。そうすりゃ、「なになにして」と言われなくても、夫婦喧嘩見なくても済むから。
…ああ、また始まった。母さんがこれ見よがしに両手を広げ、壁につかまりながら段々崩れていく。これ聞こえよがしに大声で泣きながら、段々膝を折りしゃがんでいく。さあ慰めろと言わんばかりに。
それもう見飽きたよ。何回やりゃあ気が済むんだよ。家事で体が疲れ、母さんの狂言とわざとらしいパフォーマンスで、精神が疲れ果てていた。
おかしいだろう、こんな毎日。
普通の子どもが良かった、とか言っているけど、普通の親じゃないじゃん。うちは普通の家庭じゃないじゃん。
子どもは姉ちゃんだけで良かったんだろう。あたしは死んだものと思っているんだろう。生み外したんだろう。ここにいるあたしはユウレイなんだろう。
なら勉強なんてしたってしょうがないじゃん。努力なんてしたってしょうがないじゃん。だって死んでいるんでしょ?
大体どうして死んだあたしに家事をさせんだよ。何回あたしを殺すんだよ。何回も生き返らせて、また殺すのかよ!
「あたしは教えているつもりだけどねえ」
とか平気で言っているし。紙に書いて放り込むとか、そんなん人にものを頼む態度じゃないよ。こんなん教えてるって言えないよ。おかしいだろう、おかしいだろう、ものすごくおかしいだろうが!
そしてその日の夕飯時、母さんは目から鱗が落ちたような大声を出した。
「そうよ!お姉ちゃん、マリに勉強教えてやってよ!」
姉ちゃんは迷惑満面って顔をしてた。
「お姉ちゃんがマリの家庭教師になればいいのよ!」
母さんは世紀の大発見のように意気揚々としちゃってる。
そしてその日から、姉ちゃんがあたしに勉強を教えるようになった。
ただね、優しく教えてくれるんならともかく、ずっと罵倒し続けるもんだから、あたしはいよいよ勉強なんか嫌いになっちまったよ。
だって
「マリ、あんたこんなのも分かんないの?」
だの
「バッカじゃない?あんた何年生?」
だの
「敬語使えよ、バーカ」
だの、
「何?あんたこんな漢字も読めないの?頭も目ん玉もおかしいんじゃない?」
だの、そんな事ばっかり言うんだもん。
尚更苦痛な時間が増えて、勉強見てくれて有り難いなんて、これっぽちも思えなかったよ。
母さんは
「こんなうまい話ないわ。マリ、今日からお姉ちゃんを先生って呼びなさい」
なんて、きょうだいの中で上下関係まで作るし。
いいねえ、うまい話が家の中にいくつも転がってて。
それでいて造花教室の生徒さんの前では、誇らしげにこう言っていたよ。
「私は自分の子どもたちに、勉強しなさいなんて、ただの一度も言った事はありません」
生徒さんたちの尊敬の眼差しに囲まれながら、母さんは美しく華やいでいた。
その足元で踏みつけにされているあたしの悲鳴に気付いてくれる人は、ひとりもいなかった。そう、世界中に、ただのひとりも。
みんながあたしに言う。
「沖本さんのお母さんって綺麗ね」
「お母さん、美人だね」
だがあたしは、母さんが美人かどうかなんて、そんなのどうでも良かった。そりゃ汚いより綺麗な方が良いけど、それよりあたしに優しいか優しくないか、そっちの方が大事なんだよ。
「美人のお母さん持って、マリちゃんっていいね」
「あんな綺麗なお母さんいないよ」
周りはみんな言う。
「マリちゃんって、お母さんそっくり」
という人もいた。似たかねえよ!あんなオニババに!
うちの電話に出れば
「レイコさん?」
って掛けてきた相手が、あたしと母さんを毎回間違えるし、
「お待ちください」
と言って母さんに代わると
「お嬢さんと声がそっくりですねえ」
という声が離れていても聞こえた。顔も声も似たかねえよ!こんな意地悪ババアに!
母さんって、きっと面倒くさがりやだったんだろうな。仕事と顔の手入れだけは一生懸命やっていたが、それ以外の何かをするのは面倒で面倒でたまらなかったんだろう。
大変なのに、忙しいのに、疲れているのに、色々してやっている、それなのに文句を言うなんてとんでもない。よくそう言っていた。
だったらいっそ、子どもなんて生まなきゃ良かったじゃん。姉ちゃんもあたしもう生まれてきちゃったよ。今更ひっこめらんないじゃん。
勝手に生んでおいて
「生んでやった、育ててやった、大変だった」
と、毎日毎日恩着せがましく連発し、
「親孝行したい時に親はなし、って言うよ」
と言って、じいっとあたしの顔を見ていた。
さあ親孝行せよ、と言わんばかりだった。
親孝行って何だろう?
黙って殴られる事なのかな?
暴言に耐える事なのかな?
なになにして、と休む間もなく家事を手伝わされる事なのかな?
姉ちゃんを家庭教師にされ、家の中でいちばん低い身分になる事なのかな?
あたしには、どうしても、どうしても、ああどうしても分からなかった。
学校の帰りに別のクラスの男の子たちが大声でくっちゃべってるのが聞こえた。
「親孝行しようと思ったら自殺するしかねえよ!」
だって。
ん、そうかもな。うちの親は死ね死ねって言うし、死ねば金かからないし、だからいちばんの親孝行は死ぬ事なんだろうなあ。
ああ楽に死ねる方法ないかなあ。
あたしは1カ月も姉ちゃんの家庭教師に耐えられなかった。
分からない問題を前に、あたしの頭や顔を臭い足で蹴り続ける姉ちゃんに、
「もう嫌だ。勉強見てくれなくていい。見てくれない方がいい」
と、死ぬほど苦手な反論と抵抗をし、投げ出した。
姉ちゃんは怒って
「じゃあもう見てやらない!ひとりでせいぜい頑張りな!」
と部屋に行っちまった。
母さんがわめき散らす。
「あんた、どうするのよ!お姉ちゃんに謝って教えてもらいなさい!先生に謝りなさい!」
どうしても嫌だった。
「あんた、落ちこぼれよ!おしまいよ!本当におしまいよ!」
怒鳴りまくる母さんに言ったよ。
「じゃあ落ちこぼれでいい。おしまいでいい!勉強出来ないままでいい!」
それがあたしの精一杯の叫びだった。あたしにもプライドがあるという事を、母さんも姉ちゃんも、どうしてもこうしても何しても分からなかった。
母さんがまた切れている。
「あんたはもう死んだものと思っているからね!」
もうそれ何千回も聞いたよ。まだ言い足りないのかよ。
苦手な反論をする。精一杯、精一杯、反論する。
「じゃあ勉強しなくていいじゃん」
そしたら母さん、あたしを指さしながらこう言ったよ。
「そうはいかないよ。あんた、現に生きているじゃない」
生きててわりーかよ。
「あたしはあんたを認めない。うちの娘として認めない。沖本家の一員として認めない。絶対に」
と、自信満々で言いきった。
じゃあ何しててもいいんでしょ、勉強しなくてもいいんでしょって思った。
「あんたが落ちこぼれなら、うちの敷居をまたがせない」
敷居なんて、どこにあんだよ、そんなもん。うちは社宅だろ!社宅で敷居なんて聞いた事ねーよ!その日の締めくくりの言葉はこれだった。
「あたし、落ちこぼれの娘なんて要らない!あんたなんか要らない!」
こっちだって要らねえよ!
姉ちゃんの家庭教師を「蹴った」あたしは家の中でますます孤立していった。
家事をやる以外、家にいられる理由はなかった。だからあたしはずっと家事をやっていた。ってか、やらざるを得なかった。
ただね、母さんは来る日も来る日も何かしら嫌味を言ったよ。仕事で忙しい自分に代わって家事をやってくれて有難う、なんてただのいっぺんも言ってくれた事なかった。
だからあたし、専業主婦の人が不満に思う気持ちが小学生にして分かった。
「あんたなんて家事をやって当然よ!役立たず!」
って毎日言うし。しかもせせら笑いながらね。
役に立ってるじゃねえか、家事をしてるんだから!
散らかったリビングを片付けていた。
その時、ブラウン管に映しだされていたのは、外国のサーカス小屋のような場所だった。舞台の上で直立不動の男の人たちが、団長のような人に次々にビンタされていく。それを見て観客が笑っている。まったく無抵抗の人たちを、その団長は容赦なく殴っている。それを見て観客は更に笑い転げる。
…人が殴られているのを見て、どうして笑うんだろう、何がおかしいんだろう。不思議に思っていたら、母さんが言った。
「マリ、この人たち、どうしてこんな仕事しなきゃいけなくなったか分かる?」
そんなもん、分かる訳ない。首をかしげる。
母さんが勝ち誇ったように言う。
「この人たちはね、勉強をしなかったの。だからこういう仕事をせざるを得ないの」
そうかなあ?ほかに理由があるんじゃないのかなあ?
「マリ、あんた、こういう仕事したいの?」
したい訳ないじゃん。
「マリ、あんた、こういう仕事したいの?人に殴られて、笑われる仕事、したいの?」
返事なんてするまでもないだろう。
画面では、舞台裏で殴られた人たちが、涙と鼻血を拭いている様子が映っている。
「マリ、あんた今のままじゃこういう仕事をしなきゃいけなくなるよ。いいの?」
母さんがしつこく聞き続ける。うるさくて、鬱陶しくて、もうリビングにいられない。
片付けを中途半端でやめ、自分の部屋に逃げ込むあたしの背中に、母さんが大声で叫ぶ。
「マリ、勉強しなさい!勉強!!じゃなきゃあんな仕事するようになるよ!!」
あたしにそういう殴られる仕事して欲しいのかよ。イライラさせんじゃねーよ!
その日の夕方、つけっ放しのラジオから、人を殺して逃げていた犯人が5年ぶりに捕まった、というニュースが流れてきた。
夕飯を作りながら聞き流していたあたしに、母さんが言った。
「犯罪なんてやって逃げていても、ろくな仕事に就けないのよね。男はヒモ、女はホステスくらいしかないのよね」
そうかなあ?捕まった人って、たいていどこかの建築会社とか介護職でおとなしく働いている場合が多いじゃん。現に今捕まった人だってそうじゃん。
それにヒモって貢いでくれる女の人がいなきゃ成り立たないし、ホステスは雇ってくれる店がなきゃ出来ないし、おかしいじゃんって思っていると更に得意げにこう言いやがった。
「マリ、あんたヒモなんて持ちたいの?犯罪者と一緒になりたいの?」
そんな訳ないじゃん。そう思いながら黙っているとこう言ったよ。
「マリ、ちゃんと勉強しなさい。勉強を!!でないとヒモ持つようになるよ!」
関係ないと思うけどねえ。
自分の部屋で雑誌を読んでいた。その雑誌はマンガの部分と参考書の頁が交互に載っているものだった。
ノックもせずにいきなり入ってきた母さんが見咎め、怒鳴る。
「マリッ、またあんたマンガなんか読んでっ」
次の瞬間、さっと参考書の頁を開いて読んでいるふりをした。
単純な母さんは、自分が見間違えたと思ったらしい。
「あ、参考書読んでいるの?やっぱりあたしの子」
とぬかしやがった。
何だよ、マンガ読んでたら他人の子で、参考書読んでりゃあ自分の子かよ。
誰が勉強なんかするかよ。誰がてめえの喜ぶ事するかよ!
学校から帰ると、母さんが食卓を指さしてこう言った。
「マリ、ケーキがあるよ」
喜んで食べようとしたあたしの右手を、力づくで押さえ込む母さん。
「マリ、このケーキ食べたかったら、母さんの言う事を聞きなさい」
目の前に食べたいケーキがあるのに、何なんだよ!振りほどこうとするあたしの手に、更にしがみつく母さん。
「マリ!マリ!このケーキ食べさしてあげるから、だから母さんの言う事、聞いて!」
もう食いたかねーよ!ふざけんな!変な交換条件しやがって!空いた左手で思い切りケーキを皿ごと投げてやった。
壁と床にべちゃりと崩れるケーキ。皿が割れなかった事を幸いに思え!
「何すんのよ!勿体ない!いくらしたと思っているのよ!」
そのケーキが何万もしたのかよ!バーカ!お前がわりーんだろが!自分の部屋に入ろうとするあたしに、母さんが叫ぶ。
「マリ!宿題と勉強しなさい!じゃなきゃ夕飯食べさせない!」
また交換条件かよ!そんな事言われて誰がやるかよ!!じゃあめしなんかいらねーよ!めし抜きなんて今に始まったこっちゃないしね!
夕飯時、部屋にこもり空腹と悔しさをまぎらわせながらビスケットなんぞかじっていたら、姉ちゃんがいきなり襖を開けて入って来て、箪笥の中を勝手にかき回す。
「あたしの下着、ないと思ったらここにあるじゃん」
「姉ちゃんの下着なんか着ないよ。気持ち悪い」
って言ったら
「ここにあるって事は着るって事じゃん」
と言いながら、つかみ取った自分の下着を持って出ていく。
…姉ちゃんが母さんに言いつけている声が聞こえる。
「母さん、マリなんてね、部屋でビスケットなんか食べているんだよ」
母さんが遠慮会釈なく襖を開けて入って来る。
「あんた、何ビスケットなんか食べてんのよ!食事抜いた意味ないじゃない!」
と、箱ごとビスケットを取り上げ、食べかけのさえ手から奪い、それを自分の口に入れ、あたしを睨みながらボリボリ食う卑しい母さんが、冷たい背中を向けて出て行く。
…何だよ、めし食わしてもらえねーならビスケット食うしかねーじゃん。
悔し涙がまたボタボタ落ちる。
「マリ、あんたあたしの言う事、全然聞かないから今日もご飯抜きよ!水を飲みなさい」
母さんが言う。仕方なくコップに水を汲み、喉なんかちっとも乾いていないけど、それでも飲む。
「もっと飲みなさい」
何杯も何杯も水を飲み続ける、惨めなあたし。
食卓では姉ちゃんが、知らん顔をしてご飯を食べている。
あんた、いいねえって思った。
仁王立ちの母さんが言い放つ。
「はい、あと一杯」
…これが今日の夕飯か。
「食べるの遅いねえっ」
母さんが苛立ち、声を荒げる。
だって、量が多すぎるんだもん。こんなに食えるかよ。
「さっさと食べなさいようっ!」
母さんの金切り声が響き渡る。
だったらもっと少なくしてくれよ。食べ盛りだからとか言って、でかい丼にてんこ盛りにするか、めし抜きか、どっちかなんて、極端だよ。
父さんが置時計をあたしの前にドンと置く。
「みんなより5分遅れるごとに一発ずつ殴るかなっ!」
そしてじっとあたしの食べる様子を見ている。そんなにイライラするなら見てなきゃいいじゃん。なおさら焦って食えねーよ。どうすりゃいいんだよ。5分ごとに本当に拳で殴るし、余計食欲落ちるよ。
自分は何しても許される、自分の子ならどんな仕打ちをしても良い、とでも思ってんのかね。
「早く食べ終えてみんなでテレビを一緒に見よう」
とか何とか、プラスの言い方は決してしてくれない人たちだった。いつもいつもマイナスの言い方をし、罰則を設け、脅すばかりだった。
家族で囲む食卓はほんの少しもおいしくも、楽しくも、幸せでもなかった。
好きな漫画をたいせつに並べていたら、急に部屋に入って来た母さんが、瞬間激怒症よろしく滅茶苦茶に投げ始めた。
「こんなものがあるから、あんた勉強しないのよ!」
ヒステリックにわめき散らす。
「捨てなさいようっ!」
と漫画につかみかかる。
またキチガイ沙汰だ!捨てないでくれ!捨てないでくれ!
「勉強するから!勉強するから!」
必死に叫びながら漫画をかばう。母さんがあたしを睨み続けている。
漫画をまずは引き出しにしまい、それからやる気もないけど教科書を広げる。仁王立ちのままあたしを監視し続ける、醜い母さん。
教科書のどのページを見たって、何にも頭に入ってこないよ。
母さんはその日から、毎日言い続けた。
「あんた、勉強するって言ったじゃない!」
友達と交換日記を始めた。
日記をたいせつにしていたら、また母さんが切れた。
「そんな事している暇ないじゃないっ!」
と、日記につかみかかる。
またキチガイ沙汰だ。
「交換日記、やめるからあ!」
必死に日記をかばいながら、教科書を広げる。
仁王立ちのまま、あたしを監視し続ける鬼母さん。
睨まれたあたしは、やはり教科書のどのページも頭に入ってこない。
…交換日記は密かに続けていた。
母さんが毎日言い続ける。
「あんた、交換日記やめるって言ったじゃない」
おやつを食べていたら母さんがまた言う。
「おやつなんか食べるからご飯が入らなくなるのよ。おやつ食べるならご飯食べなさいよ」
ご飯とおやつは違うだろう。
「ちゃんとご飯食べるから」
と答えた。
…食事の時間、嫌味かってくらい大量のご飯をデカい丼に盛った母さんが言う。
「ほら!全部食べなさい!あんた、ちゃんとご飯食べるって言ったじゃない」
話の流れで友達の悪口になった。
「加藤さんって意地悪なんだよ。もう付き合わない」
母さんが、ふうんと頷く。
…翌日、学校の帰りに加藤さんと会い、しばらく立ち話になった。
家の窓からそれを見ていた母さんが、帰って来たあたしに言う。
「あんた、加藤さんとは付き合わないって言ったじゃない」
もう何も言えないよ。母さんはあたしが何か言うと、いちいちそれを覚えていて
「あんた、なになにって言ったじゃない」
と蒸し返してくるから。本当にもう何も言えないよ!
ひたすら母さんが鬱陶しくて、鬱陶しくて、たまらないよ!
気が付くと、父さんが切れている。
原因は分からない。本当に、本当に、分からない。
父さんの手がスローモーションのように近づいてくる。
凄まじい痛みと共にふっ飛ばされるあたし。
自分の鼻血のしぶきが、写真のように見えた。
壁に叩きつけられ、一瞬で景色が変わる。
畳が上で、天井が下に見える。
父さんがわめいているのが遠くに聞こえる。
何を言っているのか分からない。
どうしても分からない。
最後の一言だけようやく聞き取れた。
「お前さえいなければ」
気が付くと、母さんが切れている。
原因は分からない。本当に、本当に、分からない。
母さんが滅茶苦茶にわめきながら、あたしを壁まで追い詰め、頭をがんがん砂壁に打ち付ける。
胸ぐらをつかみ、畳に引き倒され、蹴って蹴って蹴りまくる母さん。
頭が、顔が、腕が、足が、尻が、背中が、腹が、痛い、痛い、本当に痛い。
母さんがわめいているのが遠くに聞こえる。
何を言っているのか分からない。
どうしても、どうしても、ああどうしても分からない。
…暴れ疲れ、やり過ぎたと思った母さんが、戸棚からチョコレートを取り出し、倒れているあたしの前に、まるで餌のように置き、こう言った。
「愛の鞭だから」
これのどこが愛の鞭なんだろう?
この凄まじい暴力の代価が、ここにある一枚のチョコレートなのか?
チョコレートなどいらないから、暴力をやめてくれ。
気が付くと、姉ちゃんが切れている。
理由は分からない。
本当に、本当に、分からない。
鉛筆の尖った方をあたしに向け、威嚇している。
ああ、刺される…。
恐ろしくて、恐ろしくて、息が止まる。
体のすべての動きも止まる。
感覚も止まる。
永遠に、何もかもが、止まったように感じる。
…この後どうなったのか、何故か覚えていない。
どうしても、どうしても、ああどうしても思い出す事が出来ない。
…すっと、意識が戻って来た。
あたしは部屋で、ただひとりで座っていた。
右手首の内側がひたすら痛く、折れた鉛筆の芯が食い込んでいた。
…すっと、鼓動が戻って来た。
左手で、懸命に芯を取り去る。
だらだらと、手首から血が流れる。
だらだらと、心から血が流れる。
どうせ母さんは手当てをしてくれないんだろう。
震える左手でベランダのアロエをむしりながら、落ちた記憶を拾い集めようとする。
多分、
きっと、
姉ちゃんにやられたんだろう…。
おもちゃのブロックで小さな家を作った。
透明の窓を取り付け、そこから中が見えるようにした。
外で蟻を捕まえてきて、その中に閉じ込める。
蟻は出口を探して必死に動き回っていたが、だんだん元気がなくなり、しまいに死んでしまった。
何回も蟻を捕まえて同じ事をした。
学校の帰りに蟻の集団を見つけると、必ず足で踏みつぶした。
蟻が死んでいくのを黙って見ていた。
自分の心がすさんでいくのを感じながら。
あたしは
自分より
弱い蟻をいじめた。
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