第2話 嵐の夜のできごと ~ Shadow City

 一年前のあの日は、強い雨が降っていた。


 わたしと智明くんはカンテラの灯るウッディな内装のカフェのテーブルに向かい合って座っていた。わたしは、しばらく使い道のなかった智昭くんのスマホを覗き込んでいる。スマホから、ゆるく気だるく、そしてオシャレなボサノバが流れていた。


「わあ、まだちゃんと動くんだ!」

「ここのソーラーパネルがまだ生きていてね。スマホの充電もできたんだ。でもアンテナがないから、ライブラリに入っていた曲を聞くしかできないけどね。明子、コーヒー、飲む?」

「見下ろせば、知り尽くした、都会は雨、かあ。わたし、この曲好き。カッコいいよね。しかし、音楽をゆっくり聴いたの、久しぶりだわ」

「明子がこんな渋い曲、気に入るとは思わなかったよ。父さんのライブラリに残っていた曲なんだけど、再生してみた。しかし業務用のソーラーパネルは耐久性が高いし、今日みたいな雨の日でも発電できるんだな。助かったよ。それより、コーヒー、飲みな」

「あ、う、うん。ミルクある? ……ないよね。そんなもの、とっくに」

「ごめん、ミルクはさすがに。でも、砂糖なら少しある」


 智昭くんは立ち上がって、ふらりとよろめきながらカウンターの向こうにお湯を沸かしに行った。ここ数日、夜遅くまで何か作業をしていたから、さすがの智昭くんも疲れ気味なのかしら、とわたしは少し心配になる。


 わたしと智昭くんは幼少のころからの幼馴染だ。一緒に逃避行を始めてもう一年になる。わたしの脳裏にここ一年のできごとがよみがえっていく。


 一年前の冬の終わりくらいから、世界の各地で極端に局所的、集中的な雷雨が増加していた。時雨量二百ミリを超える大雨と暴風、それが数時間続いた後の巨大な落雷。最近冬なのにゲリラ豪雨がすごいよねー、と中学校でのん気にクラスメートたちと話していたわたしたちは、まだその時、この自然現象の恐ろしさに気づいていなかった。

 数日おきに来る暴風雨と落雷。その落雷は稲光が発光するのと同時に、周囲数キロメートルの範囲にいる人間の一部をのが分かったのは、しばらく後の話だった。死体も残らずに稲光とともに消え去っていく人たち。


 そしてゴールデンウィーク明けのある初夏の日、日本全国大荒れの暴風雨となり、日本中をほぼ同時に巨大な落雷が襲った。いや、それは日本だけではなかった。地球上のあらゆる範囲に落雷し、実に全人類の八十パーセントが消え去った。

 これが、未曽有の自然災害、グレート・ヴァニシング・フラッシュだったと知ったのは、数か月ほどたって、かろうじて繋がった智昭くんのノートパソコンからのネット情報からだった。

 世の中は、恐怖と絶望で大混乱に陥る。わたしと智昭くんは国立天文技術研究所で働いていた智昭くんのお父さんが残した観測データをもとに、智昭くんがノートパソコンで解析して、次のヴァニシング・フラッシュがどこに落ちるかを先読みして逃げ回った。

「みんなに知らせた方がいいんじゃないの?」と聞くわたしに、智昭くんは「いや、みんなに知らせても、みんなが逃げ切れるわけじゃない。逃げるなら一人で逃げろ、と父さんに言われたんだ」とわたしだけの手をひいて、ひたすら雷の轟音から逃げ回った。智昭くんの家族も、わたしの家族もどうなったのか、もう分からない。しかし、数百万人の人口を誇ったこの都市でも、落雷が治まった数日後にはすれ違う人がまったくいなくなっていた。


 それ以来、智昭くんはいつも的確に危険地域を避けてヴァニシング・フラッシュから逃げ回った。わたしはただ彼の後ろをついて歩くだけでよかった。わたしが今日まで生きながらえていられたのも間違いなく智明くんのおかげだ。彼がいなかったら、間違いなくわたしもグレート・ヴァニシング・フラッシュからの一年の間に「消え去った人間」のうちの一人になっていただろう。

 智昭くんは紙一重のところでヴァニシング・フラッシュを避け続ける。わたしたちの移動手段はほとんど徒歩だけ。生き延びた人間はわずか二十パーセント。それも月に一回から二回発生するヴァニシング・フラッシュの稲光がするたびに、残った人たちも少しずつ、確実に数を減らしていっている。

 そして智昭くんとわたしはこの古い木造のカフェに流れ着いた。「しばらくここは安全だ」という智昭くんの言葉に、わたしたちはこのカフェを根城にしていた。


 外は強い風雨になってきている。ログハウス風のカフェの屋根に雨音のスネアロールが広がる。わたしは条件反射で少し怯えた。


「明子、心配いらない。ここは大丈夫だよ」


 智昭くんは鍋をキャンプ用の携帯コンロにかけるとマッチで火を付けた。カンテラのオレンジ色の光に群青の透明な炎の光が混じる。暴風雨のクライマックスに鳴る雷鳴。それとともに閃く稲光。

 ああ、またどこかで誰かが消え去っているのね。でも、あの音の大きさだと雷心地は五十キロぐらい離れたところかしら。ここは大丈夫そうね。

 最初のころはかなり遠くの雷鳴でも、耳を塞いでがたがたと震えていたわたしだったが、悪い意味で慣れてしまっていた。ヴァニシング・フラッシュで人が消え去るのは、雷心からせいぜい二十キロぐらい。これだけ離れていればほぼ安全だ。

 ただ、雷心は常に動いている。風上に行くときもあるし、風下に流される時もある。


 ヴァニシング・フラッシュは避けようのない自然現象。もし、仮に一瞬の稲光で消え去るのがわたしであっても、それは自然の脅威に抵抗できないちっぽけな人類が一人消え去るだけ。

 大自然はその脅威的な力で稲光のたびに、死体すら残さずに人間を確実に消し去っているのだった。人類はある意味極限まで公平に裁かれていた。


 わたしが、この一年にも及んだ逃避行を思い出していると、智昭くんはコーヒーをすすっておもむろに話を続け始めた。


「ただ、これの次のヴァニシング・フラッシュは、かなり、いや、これまでのものとは比較にならないぐらい、大きなのが来るんだ」

「え? じゃあ、すぐ逃げなきゃいけないじゃん。明日の朝にでも出発する?」


 智昭くんはあちこちへこんだアルマイトのマグカップに口を付けてコーヒーをすする。切々とした表情で話を続けている。


「……逃げ切れないんだ、こんどのやつは。これまでとはケタ違いにでかいのが、三日後に来る。去年のグレート・ヴァニシング・フラッシュ以上なんだ。雷心地はタクラマカン砂漠の真ん中だけど、影響距離が半径六千キロメートル。それさえしのげれば当分、一年ぐらいは、大きなヴァニシング・フラッシュは来ないはずだ」

「半径六千キロ!」

「でも、安全なところまで転移させる観測ロボットが完成したんだ。これだよ」


 智昭くんはカウンターの裏からロボットを引っ張り出してきた。なんともユーモラスなペッパーくんにキャタピラをつけたようなロボット。智昭くんが背中のスィッチを入れると、ロボットの瞳が二度青く光り、おもむろに喋り出した。


「諸回路オールブルー。起動に、成功、シマした、デス。ワタシに名前を、付けて、クダサイ」

「君は、……トミーだ。そしてこれが君の主人、明子だ。君はこれから彼女を何があっても護らないといけない」

「ワタシはトミー。ミッションを、認識シマシタ。ご主人サマ、早急にセーフティエリアに退避が必要デス。スグに次元転移しマス」


 ロボットはころころとキャタピラを動かしてそばに寄ってきて、わたしの手を取った。


「待って、智昭くんは? 次元転移するって、どこかにワープするんでしょ? 智昭くんはどうするの?」


 智昭くんは、安堵と諦めが混ざった切ない表情でまっすぐわたしをみて、静かに告げる。


「僕はもう体力が持たない。それに次元転移に使う電力は、一人分充電するので精一杯だった。だから、明子だけで逃げてくれ」

「そんなのイヤよ! 一緒じゃないとイヤ! ここまで一緒に逃げてきたのに! 今度のヴァニシング・フラッシュをしのげればいいんでしょ?」

「明子、君は生き延びろ。生きていつか地球に再び繁栄が戻るのを見届けてくれ。トミーがそれまで君を護るから」

「イヤイヤイヤ! 一人にしないで! 一緒に行って! でなければ、わたしもここに残る! わたしだけ生き延びても、意味ない!」


 智昭くんはわたしの手を握って、正面を向くと、そっと唇を寄せてきた。

 彼の息遣いに、わたしの声は出所を失う。背中に回された腕がわたしを包み込む。

 ゆっくりと顔を離した智昭くんの顔はわたしの涙が邪魔してゆらめいて映っていた。

 わたしの手をロボットが再び握ってきた。


「さあ、トミー、行ってくれ。明子、絶対に諦めないで生き延びるんだ」

「智昭くん……」

「次元転移装置発動しマス。セーフティエリアに退避しマス」


 智昭くんはわたしから離れた。

 まばゆい光がわたしとロボットを取り囲む。

 視界がにじんでくる。

 スマホから流れるけだるいボサノバが、最後のフレーズを流していた。


「明子、大丈夫だ。明子は、きっと、逃げ切れる」

「ともあきくーーーーん!!」






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