ミミズ千匹三段俵締め
目が覚めて最初に目にしたのは、ハルの胸だった。持ち込んだメイド服用のエプロンは家事用の物よりも小さく、下など完全に丸出しになっている。寝室に窓を付けていなくて良かった。
「おはようございます、ご主人様」
「服を着ろ」
「ミミズ千匹三段俵締め」
魁の耳元でぼそりと呟いた。昨夜を思い出して顔が赤くなる。
「調子に乗るのは家の中だけにしてくれよ」
「心得ておりますとも」
何度洗濯しようと、未だ血の跡の残るエプロンを畳み、ハルは村で手に入れた麻のワンピースを着る。日本から持ち込んだ服では目立つため、これが普段着となった。魁も麻の上下に羊毛のベスト、そして職人らしく皮の手袋を調達してある。
この村に滞在を始めてから五日が経った。睡眠時間は伸び、薬物も断ち、武器の訓練で適度な運動。おまけにこの世界独特の『加護』とやらのお陰で健康そのものだ。課題と趣味の工作に没頭していた学生時代よりも、健全な生活である。もうサラリーマンには戻れないだろう。
麦粥の簡単な朝食を終えると、自転車に乗って走り出す。フレームやチェーンは鉄で、タイヤは革で作った。やや地面が硬いが、獣脂でグリスアップしたペダルは滑らかに動く。同様の物を物々交換で売りさばいたり、あるいは日用品や家屋の修理を依頼されたり、スキル持ちは村の者から大いに頼られている。
「いってらっしゃいませー、ご主人様」
ハルは留守番だ。スキル製の品物を取りに来た客の応対を任せてある。午後からは魁も自宅兼工場に詰めての仕事だが、今日の午前中は村長と訓練をする予定になっていた。
利きの悪いブレーキを滑らせ、自警隊の詰め所に自転車を立てかける。エイリーク村長や村の若者が、既に試合形式の訓練を始めていた。一人が円陣の中心に立ち、他の全員が順番にぶつかっていくものだ。木の棒で鎧をガンガン叩いて凹ませているが、エイリークが即座に直すので、怪我以外一切気にする必要はない。
「おはようございます!」
魁が挨拶すると、鎧姿のエイリークが手を振った。
訓練終了。自家製の、エイリーク製のそれと比べて不格好な鎧を脱ぐと、分厚い綿の詰まった内衣の下は青痣だらけだった。間違いなく、この場で最弱の人間は魁だ。
膝を壊して引退したと自称しつつ、エイリークの動きは雷光めいて鋭い。十年前から傭兵を廃業して村長をやっているという話だが、いったい年齢はいくつなのだろうか。魁よりも少し年上、三十代前半程度に見える。
「俺は八十四歳だな。……もうちっと老けて見えるか?」
年齢を尋ねると、思いもよらない答えが返ってきた。
「俺が知っている八十代は、完全に老人の範疇です。俺の認識だと、人間はせいぜい百歳までしか生きることができません。違うんですか?」
「そりゃ二千年前までの話だ。契約により加護を受けた人間は、長くて二百歳まで生きるようになった。聖書の一番重要な部分だろうが」
このディオスクリア世界の人間が口をそろえて言う加護とはこのことだったのだ。
「寿命に体力、あっという間に傷を治す薬草……加護によって得られたものはキリがねえ。代償に、魔族と戦争をするという宿命も負っちまったが」
周囲の人間と話をすれば、ほとんどが魁よりも歳上だ。百を超える者もいた。
二十代を超えると定期的に徴兵されるようになり、魔族との戦争で多くが死ぬそうだ。人口が地球人類の倍の速度で増えるようなことはない。
「だから普通の男は二人以上の妻を持ってるな。俺の嫁は村のあちこちに八人いる。お前も、ハル以外の嫁欲しくないか? 夫の紹介頼まれてる未亡人が十人超えちまってな。協力してくれると助かる。大袈裟なことじゃねえんだよ、結婚なんて。この女を守ってやりたい、と思ったらすりゃいいんだ」
「……考えておきます」
今時点で、そんな気はさらさら起きなかったが。そもそも、魁が同じ人間と結婚すると言ったら、ハルはなんと言うのだろうか。祝福するのか、嫉妬するのか、全く予想がつかない。
と、不毛な思索にふけっていると、横から怒号が聞こえた。複雑な意匠を施された鎧、自警隊の男が、王に属する常備軍の兵士と揉めていた。確か自警隊の男の名はスノッリだ。
「知らねえっつてんだろうが! 誰がテメエら負け犬の食い物なんざ盗むかよ! 負け犬の湿気でカビが生えてら!」
スノッリは肩当を掴む常備兵の腕を払い、相手を罵倒する。
「言ったな、俺たちの背に隠れてるだけの臆病者が!」
二人はつかみ合いの喧嘩になった。武器を抜かないだけ、お互いまだ理性が残っていると言える。
「! この野郎!」
倒されたスノッリの上、常備兵が馬乗りになった。
「現役の兵隊舐めるなよ」
鎧の質はともかく、前線に立つだけの精強さは備えている。流石は正規の兵士というだけある。手甲で兜を殴ると、鈍い金属の音がした。
「喧嘩はスノッリの負けだな。だが、お前らちっと待てや」
エイリークが倒れた二人に歩み寄ると、両者はその動きを完全に止めた。鎧の関節部をスキルで溶接固定されてしまったのだ。“ファクトリー”スキル同系統の生産加工系と思っていた“鋼纏”の能力。その思わぬ応用に魁は舌を巻く。
「スノッリはちと言い過ぎだな。今命かけて戦争してんのはこいつらだ。『負け犬』はいくらなんでもねえぜ」
「悪い、村長。――テメエも」
鎧の下、スノッリはうなだれた。常備兵は憮然として鼻息を鳴らす。
「国軍のあんたも、トラブルが起きたらまずあんたの上官や俺に話を通すのが筋じゃねえかい? つまんねえ喧嘩買うために、あんたら受け入れてる訳じゃねえんだぜ」
「そうだな。すまん」
一瞬でこの場を収めた村長は、二人の拘束を解いた。
「で、何があったんだ?」
エイリークから、常備兵に尋ねる。常備兵は話を整理するような間を置いた後で、語り始めた。
「俺たちの兵站から、僅かずつだが食料や酒が減ってるんだ。で、村の連中がネコババしてるんじゃないかと、自警隊を名乗るならもっと身内くらい監視しとけと言ったんだが」
「何が監視だ、人のせいにしやがって」
「スノッリ」
再燃しそうな喧嘩を、エイリークが制止した。
「薬草はどうだ。減っているのか?」
「いや、そんな話は聞いていない。食料と酒だけ。特に酒は楽しみに貯め込んでた奴がいて、ちょっと騒ぎになっちまった」
「酒ってのは蒸留酒か?」
「ああ、ブランデーだ」
エイリークはしばらく考え込み、口を開いた。
「魔族……かもしれねえな。怪我した野良魔族が村に紛れ込んでいるのかも。魔族は薬草でポンと回復って訳にはいかないし、消毒に酒を使う」
魁を含めたその場の全員が、彼の推理に感嘆した。常備兵は土埃を払い、エイリークに言った。
「俺たちは兵站の警備を増やしてみよう。お前らは村の捜索を頼む。魔族は人間の命なんか顧みない。次は村人が押し込み強盗されるかも知れないぞ」
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