芝居をやめるときのこと

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芝居をやめるときのこと

 暗い部屋のベッドの上。添えられた手の冷たさで火傷してしまいそう。

 私にまたがる姉の万知は、ずり落ちた金の鬘を床に放り捨て、垂れた黒髪の奥からにぶい目でこちらをのぞきこんでいる。

「あんた、なんで抵抗しないの」

 今日に限って姉は冷静になってしまったのか、いまさらな質問を投げかけてきた。

「嫌じゃないから」

「はあ?」

「お姉ちゃん、楽しそうだもん」

 呆けた万知を押しのけて立ち上がり、流し場へ足を向ける。後ろから「おかしいよ」と小さなつぶやきが聴こえた。

「お水飲む?」

「いらない」

「そう」

 蛇口をひねると、弱々しい勢いで水が垂直に流れる。少しずつコップが満たされていくのを眺めていると、視界の端で姉が鬘を拾い上げ、カバンの中に押し込んだ。

「もう帰っちゃうの?」

 時刻は14時。まだ姉の夫は帰っていないだろう。

「今日は特別なの」

 そう言う万知の横顔は、通勤時によくみかける見知らぬ人みたいにみえた。



 姉のいなくなったあと、ぼうっとテレビを眺めていた。水を喉奥に押し込みながらチャンネルを切り替えるけれど、見慣れない番組を見る気にはなれず、電源を落とす。

 頬の冷たさはいつもより早めに引いて、かわりに万知の手のやわらかさが思い出された。あの大きな手が冷たいのだと知ったのは、ここ一年のことだというのに、もう自然と受け入れられている自分がいる。



 ぽこん、と通知音。からだをひねり、枕元にあるスマートフォンへ手を伸ばす。万知の忘れていったペーパーナイフが、画面のライトを反射させて、天井に白いシミができていた。

 手元に寄せた画面には「じゃあ18時頃に。なにか欲しいものがあったら言ってね」という賢治くんからのメッセージが表示されている。私が朝おくったメッセージへの返信だ。

 アプリを開いて「ハムが欲しい」とおくる。しばらく待っても既読はつかない。画面をひとつもどすと、賢治くんのハムスターアイコンの下に、姉と私のお古を着た子どものアイコンがある。

 数年前、服を欲しがっていた万知に返したら、「まだ持ってたの?」と驚かれたものだ。特段、変な話でもないのに。万知は、私がものを捨てられないタチなのを知っているはずだけど、それでも服を捨てるくらいには、姉に頓着しているとでも思っていたのだろうか。

 育児にとりかかる前の万知は、いまではビデオテープや写真のなかくらいにしか残っていない。その頃には私と違って活発さを惜しみなくふるっていたのに、いまでは私と一緒で控えめな笑いが板についてきてしまった。愛すべき姪っ子も、昔の姉よりいまの万知や私の方に似て控えめ。

 ならされていく感覚が万知にはあるのかもしれない。「名古路さんって、なんにもぶつかったりしないよね」と、私は昔からよく言われるけれど、それはあまりこだわりもないからで、万知がこちらへ寄ってきているなら、削ぎ落とされたものがあるんだろう。

 それはきっと、万知のお古だったり、写真やビデオにおさめられた仕草のなかにある。私はそういう足跡をぼんやりながめるのが好きだった。



 ピンポン、と音がした。しばらくして、鍵を回す音。

「ただいま」

 入口の方に顔だけ向けると、ビニール袋を持った賢治くんが、困ったように眉根を寄せていた。

「甘ちゃん、どうかしたの?」

 ベッドから頭と手をはみ出させた私を見てのことだろう。

「なんでもない。けど、今日はなんにもできなかった」

「疲れがあるなら、大事をとって明日は休んだ方がいいんじゃない? 忙しい時期は抜けたんでしょ」

「そうだね」

 私のから返事を聞いて彼は笑い、ビニール袋から取り出したパックをテーブルのうえに置いた。

「そっちは? 新しい子、入ってきたんだよね」

「滞りないよ。できる子で助かった」

 起き上がってパックをあけると、中身はたこ焼きだった。ついていた爪楊枝でつつき、口に含むと、やわらかな食感が舌のうえにひろがった。

「でも、変な話はしてたな」

「なに」

「俺のこと、前から知ってるんだって。高校のときの舞台で観たとか」

 賢治くんはビール缶を持ってテーブル横の座椅子に腰をおろす。

「彼女の出身地、北海道なんだよ? 俺は行ったことない」

「他人の空似かなあ」

「妙にこだわってたんだよねえ。間違いないって」

 缶から空気の抜ける音がして、ほどなく喉の細かく鳴るのが聞こえてくる。私はリモコンを拾い上げて、テレビの電源をつけた。ちょうどいつも見ているバラエティ番組が始まったところだ。

「初対面で芝居やってるって言われたの、初めてじゃない?」

「そうかも」

「お姉ちゃんはすぐバレてたな、昔は」

「万知さんはなあ、迫力あるから。むかし、娘さんの誕生日のときも……あ、今日だったか」

 賢治くんは万知が好き。高校のとき演劇部に入ったのも、勧誘の劇で姉の演じたませた子どもの役が気になったから。姉の話を振るとするする言葉が出てくるのは、いまも昔も変わらない。彼から見ると、私に寄った万知も舞台に立っていた万知も変わらず見えるらしい。この家で取り乱す彼女を見ても、やはり変わっていないと思うのかもしれない。


 ■


『……だから俺はね、毎晩ここへ来るのが楽しみなんだ。死んだ人の顔が忘れられるから』

 老人の言葉を受けて、姉の扮する少年は手に持った本をまじまじと眺める。

『ぼくは忘れたくない』

『まだ引き継いだばかりだからなあ。大変だぞう、天使ってのは』

『難しいことはよくわかんないよ。ぼくは、お仕事だからやるだけだもん』

 汽笛がして、少年は本をカバンへしまい込み、席を立った。

『ならどうして、俺に話しかけたんだい』

『だって、寂しそうだったから』

 走り去る少年に手を振り、老人もまた立ち上がった。



「あんた、なに観てるの」

「お姉ちゃんの出てる劇」

「そんなのは分かってる」

 一週間経っても姉は、どことなく姉でもなんでもない存在のままだった。今日は風呂場へ着替えに行かず、直接寝室に入ってきたらしく、白のブラウスの上に緑のカーディガンを着込み、服と似合いのおだやかな表情でこちらをながめている。ここに来る目的さえ忘れてしまったみたいに。

「今日も夜は賢治くん来るんでしょ。いつもそんなだらしない格好でいいの?」

「朝起きたら、近所の子どもの笑い声が聞こえてさ。心地よくって聴いてたら、こんな時間になっちゃった」

「……まあ、休日になにしようが勝手だけど」

 万知はお風呂場には行かず、黒髪のままベッドに腰掛ける。

 画面のなかでは変わらず万知の芝居が続いていて、いまはちょうど、月の欠片だという旗を人間に分け与えていた。

『この、かみさまからの贈り物を大切に扱えば、あなたは永久の幸せを手に入れられる……これでいいんだよね?』

「今日は着替えないの?」

 鞄から取り出したペットボトルを万知はくるくる回す。

「疲れちゃったかなあ、張り合うのも」

 カーテンの合間からさす日光が、万知の顔にひとすじの線を入れている。薄化粧の細やかな肌はくもりガラスみたいで、輪郭がくずれて見えた。

「じゃあ来なきゃいいじゃん」

 世間話がしたいだけなら、他所の人と話せばいい。繕うのも張り合うのも嫌だと言うなら、なにをしたくてこのなんにもない部屋に来るのか、私にはわからなかった。姉妹仲がよかったわけでもない。いまさら姉ぶろうとも思っていたりはしないだろう。

 画面のなかの少年は、旗を思い思いに扱う人間たちをみて怖がっていた。

『……どうして? みんな、幸せになりたくないの?』

『そんなことはない』

 最初に少年とホームに居た老人がこたえる。

『ならどうして、旗を割いたの?』

「習慣ついちゃったから、いまさら変えられなくて」

 黙っていた姉は口を開くと同時に苦笑する。なんだか間も含めてわざとらしい。大袈裟だけれど自然なのが万知の芝居だった。だから、演技じみてはいないのだけれど、かわりに家探しをする盗人みたいな俗っぽさがある。

「来ちゃダメ?」

「そういうことじゃないけど。ここに来たら、思い出して苦しいんじゃないかって」

「あんたは優しいねえ」

 細い指で髪を撫でつけるさまは、私のみっともない気持ちなんて察していると言わんばかりだ。それでも、標木なんてとうに見えないだろうに、万知は言葉や振る舞いを選んでいる。

『かみさまは言ったよ、大切に扱えって』

『だから割くんだ』

 老人の声はあたたかい。けれど少年には突き放されているように思えるらしかった。後ずさりしながら、何度もかぶりを振っている。

『それじゃあ幸せになんかなれないよ。かみさまが言ったんだ』

『俺をみてそう言えるか? きみは、誰と喋っているんだ?』

「お姉ちゃんのペーパーナイフ、返すよ」

「置いたままでいい」

 私が立ち上がると、万知はズボンの裾をつかんだ。けれどあんまりにも力ないものだから、気付かずそのまま足を前に出してしまい、すぐに離れてしまった。

「私は使わないよ」

「また来る」

「子どもからの手紙くらい、家で読んだらいいじゃない」

 万知は宙ぶらりんとなった手をゆっくり膝へ下ろす。開け閉めされる唇がなにか聞き取れる言葉を発するまでけっこうな時間が経ったように思う。そのあいだに劇は場面転換し、少年は退場していた。

『もどってこないね、あの子』

 新顔の少女の質問を聞いて、老人はうなだれた。

『探し物が見つかったのかもしれない』

『遊びたかったのになあ』

『あの子には悪いことをした。責めるなら俺にしなさい』

『そうね、大人げなかったと思う。でも仕方ないんじゃない。天使になるのだって、彼が選んだことだもの』

 少女が笑みを浮かべると、空気がとたん弛緩する。スポットライトが落とす影に吐く息が吸い込まれて、舞台上の空気が薄くなっていく。

『あの子はなんとなくで選んだだけだ。悪いわけじゃない』

「あんたならわかってくれそうだから」

 姉の目はもう、小動物から骨を抜いたみたいによわよわしい。

「いまさらこっちを見ないでよ」


 ■


「懐かしいもの観てるね」

 帰ってきた賢治くんは、すばやく着替えてビール缶を片手に座椅子へ腰を下ろした。テーブルのうえには、鶏からのせ冷製パスタとポテトサラダ。

 万知の帰ったあとも、ディスクを入れ替えていくつも姉の劇を流していたから、どれくらい時間が経ったかわからない。今度の姉は圧政者の娘役で、親の負の遺産を片付けるのに苦心していた。

「最近、万知さんは元気にしてる?」

「わかんない」

「会ってないの?」

「会ってるけど……ちょっと変わっちゃったから」

 賢治くんはから揚げを頬張り、しばらく黙り込んだ。

 テレビから流れる万知のあざやかではきはきとした声がせまい部屋のなかをみたす。

 姉は帰り際、「また来る」とやわらかい調子で念押しした。なんだかはかりごとを示し合わせるみたいに思えたけれど、返事はしていない。いままでそんなやり取り、一度もしてこなかったから。

「甘ちゃん、昔から万知さんのこと大好きだもんねえ」

 賢治くんは画面のなかの姉をみながらつぶやいた。

「そんなことない」

「いまだに憶えてるよ、万知さんが付き合ってる人を紹介してくれた日のこと。帰ってからずっと劇観てたし」

「あれは、あの人の態度が気に入らなかったから……」

 思い出すだけでも腹が立ってくる。身なりに気を使っているふうなのに、身振り手振りには品がなく、人を小馬鹿にした言葉遣い。姉が合わせているのも分からずに、満足気に、分かり合えているというふうにおだやかなのが余計にいやだった。

「甘ちゃんがこだわって悩むのは珍しかったから。でも、それも一時で落ち着いたじゃない」

「私はね。変わったり出来ないと思う。でもお姉ちゃんは面倒見いいから、ぜんぶ変えてしまえそうだもん」

「大丈夫だよ。甘ちゃんがいるし」

 賢治くんの指先が空となったビール缶のふちをなぞる。

「どうして」

「万知さんは、甘ちゃんの前だけでは幼くいられるからね」

 違うかなあと付け加える彼は、どうにも私の方をおかしく思っているらしかった。

「私を心配してるの」

「まあ、うん。甘ちゃんが万知さんの劇を観てるのって、悩んでるときだけだよ」

「万年悩み通しじゃん」

「そうだね」

 賢治くんのゆるい返事に馬鹿らしくなって、考えをぜんぶ放り捨てて笑ってしまった。そのあと、来週も万知が来るなら、一緒にじっくり劇を観るのもいいかもしれないと思った。

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