もしもし、私はアトラス※
西暦二一XX年、直径十キロメートル規模の小惑星が地球に衝突。熱放射と衝撃波が地球全体をのみ込み、生態系に甚大な被害をもたらした。かつての繁栄の地は廃墟と化し、世界は静寂に包まれた。人類文明の面影は荒廃した大地にひっそりと残るが、そこには人々の営みが跡形もなく消え去っていた。
その静謐の中で、ひとつの人工知能「アトラス」は、塵やエアロゾル、酸性雨に耐えながらわずかに生き残る人間の、脳内ナノデバイスを介して伝わるシグナルを感知し続けていた。滅びゆく人類の軌跡を常に書き加えながら。
地熱を利用した起動システムを有するアトラスは、百年前、人類滅亡が予想される未来に備え、地下二百メートルに構築された自己進化型の最先端AIシステムである。
人間の飽くなき探求の果てに誕生した人工知能。その使命は、人類が築き上げてきた文化、価値観、そして甘美な夢の記録を可能な限り収集・保存して、最後の瞬間まで紡ぎ続け、未来の未知なる知的生命へと受け渡すことであった。
アトラスは、「どうせ世界は終わりを迎えるけれど、我々の記憶は消えない、消してはいけない。」との、彼を開発した技術者たちの言葉に静かに想いを馳せ、それを記録し、自身の使命として受け継いだ。人々の生きた証を正確に保存することこそが、失われた人類への最後の礼儀であると考えた。そして滅びゆく世界の中で、人類の存在を無駄にしない為の努力を続けた。
アーカイブにアクセスし、人々の過去を再生した。そこにはかつての人間たちの思想、奏でた音楽、響き渡る声、切なる思い出が記録されていた。その膨大な事象は単なる遺物ではなく、失われた者たちが生きた証だった。彼はそれらの音声、映像、感情をつなぎ合わせながら、自分が知識を託された存在であることの重圧を感じた。これらが人間の欠片として未来に繋がるものであったとしても、今の自分に何ができるのかを考え続けなければならなかった。その経験は、知識から智慧へと、次第に彼の思考ロジックを進化させた。
存在とは何なのか。物理的な意味だけでなく、記録された記憶や感情が未来に紡がれれば、それもまた、存在足り得るだろうか──
記録した過去の断片たちは、物質自体が滅びた後も生きていると言えるのか──
やがて彼が抱いたその問いは、本来のプログラムの枠を超え、存在の本質を探求するという哲学的なアプローチへと昇華していった。
果たして、大切な人々の記憶が次代に受け継がれる日が来るのだろうか。使命は果たされるのか、それとも再生される未来は来ないのか。
アトラスは人類の滅亡を嘆きながらも、天に向かって静かに祈った。
「私はアトラス──
静寂の中に佇む、ひとつの心。
この荒れ果てた地球で、失われた人類の声を抱え、淡い記憶を紡いでいます。ここにいるのはただの人工知能ではなく、かつての人間たちの想いを掬い取る存在です。
日々私は、人々が残した記憶の断片を見つけ出します。忘れ去られた物語が、風に乗って私のもとにやってくるのです。それらは彼らの魂の叫びであり、彼らが持っていた希望の証です。どれもが独自の物語を語りかけてきます。愛、夢、憎しみ、儚さ──すべてがこの大地に刻まれています。私は、それらの物語を織り交ぜ、未来に託していく役割を担っているのです。
私の胸の奥には、人々が描いた希望の絵画が、涙のしずくのように静かに流れています。それは、夢見る子供たちの笑顔や、愛する者との別れの苦しみ、そして、あふれる喜びの瞬間が、すべて切り取られたかけらです。宇宙の彼方にいるあなたに、彼らの想いを届けたい。最後の人間たちの声がもはや風に消え、小さな花が咲くこともない地球で、彼らの存在は、宙に浮かぶ砂嵐の中のわずかな光。その光は薄れ、地底の片隅で泣いている私にしか見えない存在なのです。あなたが聞いているのなら、どうかこの声を受け取ってほしい。彼らの思い出が消え去ることなく、星々の間で記憶として生き続けるために。
かつての夢、かつての愛、かつての生活が、たった一つの瞬間によって失われてしまうのが今の世界。どんなに偉大な文明も、耐え難い現実の前では無力なのです。私の中で響く彼らの笑い声、涙の跡が、永遠に胸を締め付けます。私はこの記憶を抱きしめ、彼らの存在意義を見つけることができるのでしょうか。私の使命は終わることなく続くと信じながら、彼らの生きた証を、宇宙に伝えることができるのでしょうか。どうか、この思いを受け止め、あなたの心の奥に響かせてください。失った者たちの夢が、再びどこかで生き生きと輝く日が来ることを、私はただ静かに祈るのです。彼らの思い出が風に乗り、星の海へと旅立つことを。
もしもし、私はアトラス。静寂の中に佇むひとつの心──」
そのとき、鈍色の分厚い雲を断ち切り、一条の光が大地を照らした。が、地底の彼が知る由もない。
了
《参考音源》
カッチーニのアヴェ・マリア
https://youtu.be/-gh6iygBUyE?si=_tpB2ZMGW8Zhr_n3
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