深淵 / アッシュ・ミュレールの手記※

 この世界には、決して人と馴染むことのない空間がある。そこには不可視の影が蠢き、古の声が響く。

 都市との境界に佇む深淵の闇。大型のサーチライトですら漆黒の底を照らすことはできない。私には闇がただの欠如ではなく、意思を持つ未知の存在に感じられる。純粋な空間ではない、無論虚無でもなく、何かしら不穏なもので満たされているのだ。人々はそれを忌避し、目を閉ざし、単なる心理的錯覚だと自分たちに言い聞かせる。否認という鎖を自らに繋ぐことで。しかし私は知っている。その存在が本来人類の居るべき場所ではないこの地底に、巣食って久しいことを。


 生まれてこの方、地上の記憶は私の中にない。もはや年老いた人々の脳裏にわずかな残滓として居座るのみだ。地底都市の景色は地上を知る者、或いはアーカイブの映像で知り得た者からすれば異様なものに見える。

 どだいこの世界には青く広がる空がない。幾多の柱に支えられた洞窟の連なりであり、薄暗い光源が常に黄昏を模倣するような寂寞とした風景。酸素生成プラントから供給を受け、週に一度の栄養人工透析で血液を入れ替え、AIによる栽培施設で食糧を調達してはいるが、そんな態で生かされている人類の存在はあたかも無慈悲。で、不気味な実験対象にすぎないように思えてならない。ここがただの建築物ではなく、何かしら巨大な生物そのものの一部、さもすれば寄生体に啄まれた臓物のようにも感じられる。

 一世紀も前、あの選択が全人類の未来を二分したのだ。天地、すなわち月と地底。地底に運命を託した半数以上の者たちは、真に正しい選択をしたのだろうか。

 地球にとどまり、小惑星衝突の脅威から逃れるべく、地底深くに安全な避難所──むしろ異形の牢獄と言うべきか──を築くという案は、当初、合理的かつ科学的選定の結果として称賛されていた。地底は不変であり、月面の危険に満ちた移住に比べれば極めて安定的で、生命維持に必要な資源も確保されているというのがその理由だ。しかし、これらの説得力ある理論──プロパガンダ的作為による社会階層の分断──が、いかに人々の精神的な部位を蔑ろにしていたか、更に、未開の地へと足を踏み入れる恐怖が持つ本質的な悪夢を軽視していたか。


 闇は、境界の外にとどまりながらも少しずつ都市内部を侵食しつつある。その兆候は日々顕著に現れている。重力が不自然に歪み、不規則な映像が何かに屈曲したかの如く脳裏をよぎる。幽かな囁きが記憶の襞を撫でる。それらがいわゆる物理現象ではなく、何者かの意思に基づくものだと私の本能が訴えている。

 影──そう呼ばれるものについても同様だ。子供達の間ではある種の禁忌のような形で語り継がれている。一人でベッドに横たわると影が床を抜けてやってくるのだと言う。影は人型をしている。その動きは人間らしすぎるほどに人間じみている。だが影がどうして生まれたのか、何を欲しているのか、誰一人言及しない。ただ、それらの風説が都市の閉塞感を一層際立たせ、人々の薄暗い恐怖をじわじわと惑わせているのは疑いもない。

 ある男の発作を目撃したことがある。彼は突然床へ崩れ落ち、爪で顔を引き裂きながら、何かしらの呪文とともに狂気を叫び続けていた。言葉は理性の表層をひしゃげたようで、今でも忘れられない。

「光のない眸ども、奴らはすでに我々を映している!」

 彼を止めることはできなかった。人々の表情には恐怖が浮かんでいるのがありありと見てとれた。叫びが私たち全員を陰鬱の底へと突き落としたのだ。が、その場を去るときには皆、見て見ぬ振りを装っていた。心の内を知られることを恥じているかのように。

 私は考えずにはいられない。ここは単なる避難所ではなく、人々の精神を蝕む苦痛そのものに他ならないのではないのか。洞窟の都市は脅威からの回避ではなく、人間の本質を探るための過酷な実験場に過ぎないのではないのか。それは故意か無作為かを問わず、地球という器そのものを破壊し、その外延で行われる人類への終わりなき試練ではないのか──と。


 たびたび不眠に苛まれる。眠れない夜、何者かの呼び声は私の耳にも届く。その声が内なる感情なのか、深淵から響いているものなのかは分からないけれど、燻ぶる思考の中で、縁へと歩み寄りたい衝動に駆られているのは確かだ。「見捨てられし者、耳を澄ませ。そのうち迎えに行く。」との声は日に日に強まっている。どのみちそれは私を捕食するものに変わり、逃れる術はないのだろう。そして終には真実に触れる。その時かつての狂人のように、語ることを許されないほどの何か──決して人と馴染むことのない名状しがたきものに、全てを呑まれるのだ。それが宇宙の意志なのか、それとも人類という種の必然なのか、単に月への憧れか──

 いずれにせよ、避けられない未来がもうそこまで来ている。今は、ただ祈るしかない。



 了



 この掌編を、H.P.ラヴクラフトに捧ぐ──



《作品イメージ曲》

Forsaken/Dream Theater https://youtu.be/LY-43mw66N0?si=cTDvONaKTbMknI7l

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