空に描く軌跡
原多岐人
第0話
四角い青い空が見えた。暗い部屋の中で、それだけが鮮やかだった。轟々と鳴るエンジン音と振動、そして空気を切る音が、少女が今いる場所を定義する。空中を進む巨大な飛行船の一室、否、ここは普通の部屋ではない。少女の片手には手錠がかけられ、その先の鎖は壁に繋がれていた。それ以外の拘束が無いのは、少女の右足が骨折しているからだ。
この部屋にはベッドもあるが、少女はそこを使うことが出来なくなった。手錠をかけられているとは言え、それ以外は特に酷い扱いを受けている訳ではなかった。だが、ある日状況が一変する。それが少女の右足の骨折、そしてベッドの上に上がれなくなった原因だ。
エンジン音に混じってカツカツと近づいてくる規則正しい足音が聞こえる。少女は身を強張らせた。今まで、二人の人間を目にした。一人は質問と要求を投げかけてくる。もう一人は、理不尽な暴力を振るう者。二人の足音はよく似ている。無機質な金属音とともに、ドアが開かれる。眩しいほどの金髪と、透き通るような空色の瞳。微笑を湛えた優雅な表情でこちらに近づいてくる。少女より少し年上と思われる青年は、かがみ込んで少女に視線を合わせ、優しげに話しかける。
「気分はどうだい、クリカ?」
クリカ、と呼ばれた少女はただじっと青年を見つめるだけで、口を開かない。
「怪我の具合は?」
少女はなおも口を開かない。
青年はため息を吐く。それは落胆というよりも、困惑から出たものだった。彼の視線はすっかり干からびてしまったサンドイッチに向けられていた。
「オズワルドが君にした事は許される事じゃない。それは僕からも謝罪する。そんな奴が所属している組織から供給される物を、口にしたく無いのも理解出来る。だが、食べないと君は死んでしまう。僕はそれが嫌なんだ」
青年はとても悲しそうな表情をしたが、何かを決意したように懐に手を入れた。そして取り出したのは、高栄養価のビスケットだった。それを少女の口に直接与えても無意味な事を、青年は知っていた。青年は自らの口にそれを少しだけ含み咀嚼する。そしてほぼ液状化したそれを、口移しで少女の口に流し込んだ。手錠が無くとも、少女の抵抗する力は青年の腕力の前では問題ではない。少女が嚥下するまで、青年は口を離さなかった。それはビスケットが無くなるまで何回も繰り返された。
最後の液状化した欠片を飲み込ませると、青年は少女を抱き上げ、ベッドに寝かせる。少女はそれを拒絶したかったが、酸欠と体力の低下により叶わなかった。
「本当はこんな手荒な真似はしたくなかった。だが、僕は君を死なせたくないし、死なせる訳にはいかないんだ。今は安静にしていてくれ」
青年は少女の頭を軽く撫でてから、部屋を出て行った。
青年が出ていった後、少女はベッドから自らの意思で転がり落ちた。痛みはあったが、ベッドの上で恐怖に襲われるよりはましに思えた。とても惨めな気分だった。先程口に押し込まれた物を吐き出そうとしたが、能動的に嘔吐するには体力が弱りすぎていた。少女は床に仰向けになる。四角い空が見える。手を伸ばすが、それは遠すぎて届かなかった。
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