下
その時、世界から音が消えたかのように感じた。
喉に唾が通る。
「……そういえば、言ってなかったね」
水面を見ると、二つの水の揺れが交差していた。
「えっと、あたしは」
緊張が走り、自然と手に力が入る。
彼女は下を向き、ゆっくりと口を開ける。
「……やっぱり、やーめた!」
「えっと……は?」
いきなり顔を上げて、彼女は笑う。場の緊張が一気に緩み、俺は芸人みたく転びそうになった。
「やめたって、どうゆう……」
俺のことなんて気にせず、彼女は再びベンチへと歩き出す。どういうつもりだろうか。しかたなく、俺は彼女の後に付いていった。
「なあ、教えてくれよ」
「やーだね。そもそも、公園のベンチで寝ていたような不審者君にペラペラ自分のことは話さないよ」
「別に……寝てたわけじゃ」
「あたしから見たら寝てたようなもんだよ。1時間はあのままだった」
「……いつから見てたんだ」
「さあね」と彼女はなかなか取り合ってくれない。
会話は止まり、俺は淡々と足を進めた。
「ほら、着いたよ!」
気が付くと、目の前にはベンチがあった。ベンチの後ろに佇んでいる木の幹の太さには、つい圧倒される。遠くから見ても大きかった木は、近くから見ると、俺は食べられてしまうのではないかとまで感じた。見上げると、空は葉と枝のカーテンで覆われていた。
「なあ、ヒントぐらい教えてくれよ」
「まだその話? えーと……私には兄がいるけど」
「……そんなんじゃ分からないよ。もっとないのか? こう、名前とか」
「それってもう答えじゃんか。しつこい! もうこの話終わり!」
彼女は不機嫌そうにそっぽを向き、壊しそうなぐらいの勢いでベンチに座る。公園からの疲れで、俺も彼女に続いてベンチに座った。
「……なんでそんな嫌がるんだ?」
「だって、不審者君だし。というか、こんなとこ来てるの親にバレたら叱られるし」
「お前って、何歳?」
「……じゅうご」
「……だろうな。子どもっぽいし」
「な、なにさ! 失礼だな! もう中三なのに!」
そうやって怒るところが子どもっぽいんだがな。
彼女はムスッと腕を組むと、思い出したかのように目を大きく開ける。
「そんなことよりさ、早くやろうよ!」
「それもそうだな……。どんな本持ってきたんだ?」
「え……」
少しの沈黙が流れ、バカにするように鳥の声が響く。
「……あ」
「……え?」
「……本忘れた」
「……は?」
何してるんだ、この女。彼女は頭を抱えうずくまっている。
「おーまいがっと。ねえ……も、もってる?」
「いや、んな訳が――」
その時、一冊の本が俺の脳裏をよぎった。
「お前、俺が持ち歩いててほんとよかったな」
「え、まさか……」
彼女はそっと俺を見る。俺はなんとかドヤ顔を抑え、ポケットから本を取り出す。
「おおー! 君、天才!」
彼女の嬉しそうな姿に、俺も少し嬉しくなった。
「じゃあ、読もうか」
「って、ああーーー!」
突然、彼女は驚く。当然俺も驚いてしまう。
「えっ……なんだよ」
「それ、お兄ちゃんに返してもらってない本だ!」
「そ、そうなのか」
「ほんと、お兄ちゃん全然本返さないんだもん。せっかく貸してあげてるのに」
「えーと」
俺はなんとか話を戻す。
「……とりあえず読まないか? どうでもいいし」
「どうでもいいって、酷い!」
余計なことを言ってしまったのを後悔したが、俺は無視することを選んだ。
「……早く読もうよ」
俺の慣れない手付きでページが進む。本の左側は彼女が持ち、右側は俺が持つ。ほのかに、彼女から甘い香りがする。
なんとなく分かっていたことだが、本の内容が全く頭に入ってこない。
彼女も集中できていないのか、小さく呟き始める。
「あたし、この本がきっかけで非日常に憧れるようになったんだ」
「……この本がきっかけで、俺は非日常を探すようになった」
この本は彼女にも影響を与えていた。俺はなんだか嬉しかった。
「実はさ、あたし心配なの」声のトーンを下げて、彼女は言う。
「学校は楽しい。日常にも、満足してる。でも、本への憧れで日常からはみ出そうとしちゃってる」
彼女から贅沢で羨ましい話が飛んでくる。だが、彼女は贅沢なことに気付いていない様子で、虚ろな言葉で聞いてくる。
「あのさ、どう思う。いつもの日常を過ごすほうが、君はいいと思う?」
「……満足しているなら、日常からはみだすな」
答えは一つだった。
「学校は楽しくないし、日常にも満足していない。俺は、今すぐにでも日常からはみ出したい」
俺の口から、迷いなく言葉が吐かれていく。
「お前って、幸せなやつだよ。満足している日常なんて、そんな貴重なもの捨てるなんて勿体ない」
力が入った手で、開いているページにはしわが入った。
「俺とお前は違う。だけど、少し似ている」
俺と彼女は似ているんだ。だからこそ、彼女の話に何か引っかかる。
「なあ。お前は本当に、嘘なく日常に満足しているのか」
「……してるよ」
「きっとさ、満足していたらこの本になんて憧れないんだ。わざわざ、こんな所に朝から公園で寝ていた不審者君を連れて来ないんだ」
森の中で見た彼女を思い出す。
「池を探そうと決めたとき、お前の目はキラキラしていた」
俺はなるべく彼女と目を合わせないように、景色の遠くを見る。
「日常に満足しているなら、こんなことするな」
池の周りには木が乱雑に置かれていて、奥が見えない。
「日常に満足していない、お前は俺と似た者同士なら。一緒に、旅をしよう」
日常はつまらない、くだらない。だが、それは変えられる。
日常からはみ出すことは俺だって心配だ、怖いよ。それでも、いつしか毎日が同じことの繰り返しになっていて、いつしかそれに諦めてしまっているほうが、もっともっと怖い。
いつまでも諦めない。俺は物語に出会うため旅へ出る。
森の木を眺めながら、俺は彼女の返事を待った。それは、葉が落ちる時間のような、早いようで遅い時間だった。
「ねーねー」
とっさに呼ばれたことに、俺は驚いて彼女のほうへ振り返ってしまう。
「本の世界、行けるといいね」
「……そうだな」
俺はそっとページをめくる。
ゆらゆらとページがめくれていく。
澄んだ池が広がっていること、鳥が鳴いていること、草木の匂いもいつの間にか忘れていた。今、本の世界に入り込んでいる。俺は街を歩いている。
夢中になりページをめくる。
本の世界に入り込んでいる、俺はそう思っていた。だけど、どうしても一つの香りが邪魔をしていた。
つい夢中になって、俺がページを早くめくってしまう時の「ちょっと、早いよ」という声、ふいに鼻をかする一つの甘い香り、どうしても頭の片隅には彼女がいた。
俺は集中が途切れて森のほうを見ると、俺はあることに気付いた。鳥がどこにもいない。あれだけの鳥の声はどこからも聞こえない。
おかしい。俺は鳥を探した。彼女には気付かれないように、周りを眺める。木から木へと目線を合わせていく。木の根から枝へと丁寧に見ていくと、一つの木の枝に鳥が一匹居座っていた。
――鳥はこちらを睨んでいた。
突然、奥の見えない木々から、空へと大量に鳥が飛んでいく。翼をはためかせる音、木の枝が揺れる音、重なり重なって、鈴の音のように森に響く。
またしても、それはとても不快で、なぜだか視界が定まらない。
音は沈んでいき、視界は徐々に定まっていく。その時、俺は手に違和感を覚えた。
本はやけに重かった。
急いで本に目線を戻すと、左側のページは垂れ下がっていた。
考えたくなかった。冷や汗が落ち、池には波紋が広がる。
隣を見ると、彼女はいなくなっていた。
◇
なんてね――。
そんな物語が、頭を巡った。
その出会いは夢か現実か、それは分からないがどうでもいい。
物語なんてのは簡単に出会えない。でも、きっとどこかにあるはずなんだ。
――眉間にシワを寄せて、なんとか俺は目を開ける。
そこに、誰かがいる訳もない。
次の目的地は、近くの小さな森だ。
なんてね。 長月龍誠 @Tomat905
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます