中
この女は中学生くらいだろうか。肩まで伸びた甘いキャラメルのような茶髪の女。所々ボサボサした髪にちょっとだけ愛嬌がある。そんなことを考えるぐらい余裕が出てきていた。
あれから何分も、この女は小さな手で俺の腕を掴み走っている。
一定のリズムの足音と一緒に、段々と鳥のさえずりが大きくなっていく。この女から目をそらすと、近くの小さな森が俺らを見ていた。きっと、この女は森に入ろうとしているんだろう。
森で何をする気なのだろうか。考えている時、ふと周りを見れば、もう既に森の中の道に足を踏み入れていた。
その時、今更ながら俺は反射的におかしいと思った。
「なあ。おい、どういうことだ。説明しろ」
「とりあえず着いてきて」
「おい、どこ行くんだ」
「いいから来て!」
「いい加減にしてくれ!」
俺はこの女の手を払いのけた。所詮、相手は年下の女だ。簡単に手は離れた。
お互い立ち止まり、息を荒らげている。
「……お前は、なんなんだ。誰なんだ。説明してくれ」
言葉の間で息継ぎをしながら、俺は強い口調で問い詰めると、彼女は下を向いてしまった。今にもどこかへ逃げて行きそうに怯えている。怯えているのはこっちも同じなんだがな。
「早く、説明してくれ」
「……」
「聞こえてないのか」
「……噂のこと……知ってる?」
声を震わせながら彼女は話そうとする。
「……えっとね。その、話題になってて、えっと、その」
女は必死に説明しようとしているが、上手く呂律が回っていなかった。
「話題っていうのは……えっと」
「まあ、落ち着けよ。俺が悪かったかもしれない。んーと、ちょっといきなりのことで驚いてて……強く言っちゃった、な。ごめん」
「あたしこそ……いきなりごめん」
なんで俺は謝っているのだろうか。でも、謝らずにはいられなかった。公園の時、走っている時とは別人のような彼女の姿は、見るに堪えなかった。
「とりあえず、噂のこと教えてくれ。俺はそのことを知らないんだ」
「……うん。えっとね、最近噂になってるんだよね」
途端に風が吹き、木々がざわめく。
彼女は俺の目を見て、声を絞り出すように言う。
「本の世界に行けるって」
風は木から俺の体へと通り、心臓がざわめいた。そんな噂のことを俺は知らない。
「……そんな訳、ないだろ」
「あたしの周りでは有名な噂。この森の奥には池があって、池の中心の木の下には白いベンチがある。そこで、男女二人が本を入り込むように読むと本当に入り込んでしまう、みたいな」
「男女二人か。女の子らしいメルヘンな噂だな」
「……池、行ってみようよ」
「まず、こんな森に池なんてあるのか?」
「それは分からない。ベンチだってあるか分からない」
「……なんだよそれ」
「一緒に探そうよ!」
「なんで俺がそんなことしなきゃ――」
一瞬、あの小説のことが脳裏によぎった。
自分が動くことで物語に出会えるのだろうか。やっと、チャンスが来たのかもしれない。
「いや……探してみても、いいかもしれない」
やっと、出会えるのかもしれない。
「ほ、ほんとに?」
「……ああ、探そう」
彼女の目が輝く。俺の目を見て、彼女は言う。
「よし! 探してみよう!」
彼女がいきなり元気になったのに俺はつい笑ってしまう。
朝の森はキラキラしている。鳥のオーケストラはこの舞台を盛り上げているようだ。まずは池とやらを探そう。
俺は一歩踏み出した。
――その瞬間、鈴の音が轟いた。
鈴の音は木から木へと反響していき、耳へと迫ってくる。耳から脳に。脳の中に入った鈴の音は、永遠に続くかのように反響し続ける。しだいに視界がぼやけていく。頭をトンカチで叩くように響く音は、耐えきれぬ音で、俺は耳を塞いだ。
長い間、音が頭で響き続ける。それも、徐々に鳴り止み、耳から手を離すと鳥の声が聞こえてきた。ふと俺は我に返った。
「なんの音だ、これ」
「……嘘」
俺の正面にいる彼女はまだ固まっていた。
「おい、大丈夫か」
「……ねえ。後ろ見て」
戸惑いながら、俺は言われた通りに後ろを振り返った。そこでまた、衝撃が体を駆け巡る。鳥肌が立ったのを確かに感じた。
目の前には、水面が空を反射している、大きく美しい池があった。池の所々に色鮮やかな葉が浮いている。緑、赤、紫の葉と空色の水は、池を完成させていた。
池の中心には、少し底が盛り上がっているところに葉が垂れ下がった木があり、その根元には白いベンチがある。目を凝らすと、ベンチの足元は少しだけ池に浸かっていた。
この瞬く間に起きたことを、俺の脳は追いつけずにいた。
長い沈黙。のろく進む時間。それをやぶったのは彼女だった。
「……どう思う、楓くん」
「どうって……さっきから色んなことが起こりすぎて、訳が分からない」
俺がそう言うと、彼女は後ろから俺を追い越し、池へと近づく。
彼女は池の前でしゃがみこみ、じっと池を見つめながら呟く。
「池があって、中心の木の根元には白いベンチがある。噂と同じだね」
近所の森にあるとは思えない、澄んだ池が視界いっぱいに広がっている。ここは現実なんだろうか。俺はつい声が漏れる。
「……澄んでいて綺麗だ。こんな森に池があったのか」
彼女は水を手ですくうと「ほんとに綺麗。飲めそうなぐらい透明だよ」と言い、指の隙間からは水が流れ落ちる。
「あそこのベンチまで行くのか?」
「そんなの、行くに決まってるじゃん。当たり前だよ」
「足、濡れるぞ。良いのか?」
俺は心配になって聞いた訳じゃない。彼女は本当に噂のことを信じ、本当に実行しようとしているのかが聞きたかった。
ふと空を見上げると、雲の隙間からじわじわとスポットライトのように太陽の光が落ちようとしていた。池に目線を戻すと、いつの間にか彼女はこっちを向いて立っていた。自然と俺は彼女と目が合う。
その時、彼女はくしゃっと笑い、俺に言った。
「どうでもいいじゃん!」
池の水光が、彼女の笑顔を照らしていた。
――ベンチに近づく度に、池が揺れる。沈む水の音は静寂を膨らます。俺たち二人は池に入り、白いベンチを目指し歩いていた。
まだ、俺は彼女に聞けていないことがある。それは一番に聞かなければいけないことだが、得体の知れない緊張感が俺を引き止めてしまっていた。
「土の感触、なんかおもしろいね」
俺の前を歩いている彼女は笑いながら俺に言う。彼女の裸足が、揺れる水面の奥からかすかに見える。
俺は足を止めた。やっぱり、聞いておかないといけないだろう。
彼女は俺に気付き、こっちへと振り返る。
「どうしたの――」
「なあ」
俺は彼女を遮って、話を進めた。
「お前って、誰なんだ」
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