第4話 まっしろしろすけ

 人が初めて泣いた時、きっと海と空の間にいた。

 自分だけ仲間外れみたいで、悲しくて泣いちゃったのかな。

 せめて流した涙で身体が青く染まってくれればね。

 僕たちこんなに孤独を感じることもなかったのに。

 

「泣かないで」


 透明な四畳半の箱に、透き通った声が届いた。

 この声は、空から?

 それとも海から?

 雲か海月か、ふわふわと浮かぶ真っ白なレースの天使が、頭の上から降りてきた。

 迎えに来てくれたのか。

 両手を広げて、僕はそいつを抱きしめた。

 ああ、軽い。


「うっ」

 

 しかし夢の中にはない、質量という現実が下腹部にのしかかって、僕は夢から覚めた。

 重い…。

 言葉を出そうとしたのに、出なかった。

 そして、目を開けて世界を認識する前に、何か、柔らかくて温くて、少し水分を含んだ衝突物が、唇に覆いかぶさった。


「ぅんっ…」


 下唇を引っ張られるように何度も甘く噛まれて、小動物みたいな鳴き声が聞こえた。


「あむっ…あむ」


 満足そうな息遣いと、ホットミルクの味がした。

 猫?

 更に下唇を吸おうとしたり舐めようとする凶悪な舌の気配を感じて、僕は顔をなんとか逸した。

 まだ寝ぼけていたのか、僕は猫に自分の顔面が水飲み場だと間違えられていると思った。

 重くて大きいソイツを、僕は身体から投げるようにどかして、荒らされた唇を腕で拭った。


「きゃ」


 真っ白な塊が、ベッドの端に転がるのが見えた。

 ひらひらとレースが舞って、短い手足がバタついた。

 えっ…。なんだ!?

 野生動物のような身のこなしで、くるっと回ってきょとんと座った未知の生命体が目の前にいた。

 顔にくっつけられた大きな目以外は全てが小さい。

 頭も身体もその存在も。

 いくつもアホ毛が飛び出して、天使の輪が降臨してる黒くて長い髪の毛は、どう見ても人間の子供だった。


「だれだ、おまえ!?」


 僕は逃げようとしてベッドから無様に転げ落ち、床に転がっていた空き缶を背中で踏んづけた。


「ぎゃあぅ」

  

 そして喧嘩中の野良猫みたいな僕の声で、壁際のソファーで寝ていた同居人が飛び起きた。


「どうしたっ?」


 どうしたじゃない、知らない子供が部屋にいるぞ!

 あわあわあわあわ。

 僕は目も口も半開きの、半人前ホストみたいな面のテキサスに、指でベッドの上を見ろとサインを送った。


「ん…?」


 テキサスは視線を僕の顔からベッドに流した。


「なんだ? 雪の恋人か?」

「違う!」


 憤慨する僕と、状況がよくわかってないナマケモノ。

 そしてそんなことお構いなしに、強姦魔兼不法侵入者は僕のベッドの上で前転して遊びはじめた。


「おぉ、ちきゅうが回っておる」


 子供、というかまだ赤ちゃんと子供の間の年齢くらいの女だった。

 おいおい、どこから入ってきたんだよ、この女は。

 テキサスの知り合いか?

 

「恋人じゃないなら、雪のお友達か? それとも俺に内緒でベビーシッターの仕事でも始めたのか?」

「いや、だから、違うって!! ていうか、お前の知り合いじゃないのかよ?」

 

 絶対お前の知り合いだって!

 じゃなかったら、人間の女の子がキノコみたいに湧いて出てきたことになっちまうぞ。

 

「いやぁ…」


 テキサスは頭を掻きながら、必死に思い出そうと右往左往する子供を眺めてたけど、結局、首を傾げた。

 

「知らないなぁ。俺にこんな可愛い女の子のお友達いたっけなぁ」

「ほんとか? よく見てみろよ?」


 僕は何をしてくるかわからない正体不明の女からできるだけ離れようと、窓際まで座ったまま移動した。


「なんだよ、朝っぱらからさぁ」

 

 それはこっちのセリフだ。

 テキサスは面倒くさそうに灰色のスウェットを腰までちゃんと上げると、立ち上がってベッドで未だに転がってる、まっしろしろすけに近づいた。


「あっ…おい気をつけろっ」


 僕は奪われた唇を手の甲で隠して、テキサスに忠告した。

 そいつ、襲ってくるぞ!


「おおげさだなぁ。ただの迷子だろ?」


 テキサスは僕の忠告なんて鼻で笑うと、不用心に歩みを進めた。


「よいしょっと」


 そしてベッドまでたどり着くと、ボーリングの玉でも拾うみたいに転がってる女を器用にすくい上げて、流れるように脇を抱えて、高い高いの体制に持っていった。

 おぉ。慣れておるなお主。


「あれぇ?」


 女は急に宙に浮いたと思ったのか、びっくりして、間抜けな声で鳴いた。


「うーん」


 テキサスは抱きかかえた女の顔を間近でじっくりと観察していた。


「じーっ」


 女も負けじと、くりくりした目で頑張って睨み返していた。

 おい、にらめっこか。

 沈黙の後、テキサスは振り返って、諦めた感じで僕に告げた。


「やっぱ知らねぇわ」


 まじか…。

 そしてやっと目が覚めたのか、テキサスは不機嫌で病的な顔から魔法みたいに余所行きの柔らかい表情に造り変えた。


「こんにちは」


 少しかすれた声で、太陽みたいな笑顔で女に挨拶すると、女は空を蹴っていたお行儀の悪い足をぴたっっと止めて、花が咲いたみたいに笑顔になった。


「あっ、わたしのかち!」


 いや、だからにらめっこじゃないって。


「ん? どういうこと」


 テキサスには残念ながら意味が通じてなかったけど、女はどうでもよさそうだった。


「どこから来たの?」


 テキサスが優しく問いかけてると、女は答える代わりにまた足をばたつかせた。


「おろしてやれ、テキサス」

「ん? ああ、はいはい」


 テキサスがベッドに降ろすと、女はもう一回上げてもらおうと両手を上げた。


「もういっかい!」

「えー、もういっかい?」


 テキサスはわざとらしくそう言いながら、勢いよく女をまた高い高いした。


「おぉ」


 なにやってんだ、おまえ“ら”


「お嬢さん、お腹へってない?」


 そして次にテキサスがした質問は、あまりにものんきで悠長な質問だった。

 おまえは一体何を聞いてんだよ…。

 今一番聞かなくちゃいけないことか?


「おじょうさん? わたしお姫さまだよ」


 返す刀で女が当たり前のことみたいに答える。

 だめだ、ついていけない。


「ああ、そうなんだ。お姫様。僕たちと一緒に朝ごはん食べない?」


 テキサスはあろうことか、ナンパをしていた。

 ああ、お前が何で危ない女ばっかりと知りあってるのか興味があったけど、こういうわけだったんだな。ようやく理由がわかったよ。

 お前は見境なしなんだな。


「うーん…」


 何かこの後予定でもあったのか。

 女はどうしようかなぁ…って、困り顔を見せた。

 ああ、女は何歳でも女ってのは、本当なんだな。

 そして少し迷った後に、結局こう答えた。


「いいよ。ごちそうになる」


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