第2話 自、自、

 人類が絶滅しかけている理由はよくわからない。

 そもそも、絶滅しかけているのかも、よくわからない。

 自分が何故か生きているということ以外、この世界のことについて、何ひとつわからない。


「とりあえず、ぬいで」


 ああ、この女もうすぐ死ぬな。

 僕が女の命令にしたがったのは、それが命令ではなく、本当は懇願だということを知っていたからだった。

 そして、その懇願が無視されたら女はきっと死ぬつもりだったんだろう。

 僕も道連れにして。

 女は、生まれてから一度も外気に触れてないのか。

 青白くて血管が浮き出たオブラートみたいに薄い肌。

 見るからに貧相な骨格で、洗脳のように頭に叩き込まれた安物の性知識に則って短いスカートをめくり、露悪的なまでに白い腿を見せびらかした。


「ぬいだよ」


 僕がスラックスと一緒にパンツをくるぶしまでずり下ろすと、女は僕を脅した時に使った、錆びた果物ナイフを再び取り出して、自らの腿に深く押し当てた。


「興奮する?」


 しない。


「しごいていいよ」


 下品な言葉。男友達だって、使わない。

 女は更に、ナイフを深く自らの腿に押し当てたけど、肉感のないフラミンゴみたいな脚は、それ以上深く沈むことはなかった。

 つぅーっと、血が流れる。

 脚の付け根ほどの位置から、腿をすべって、膝裏を通り、ふくろはぎまで、鮮やかな赤い道ができる。


「興奮する?」


 しない。

 むしろ、血よりも醒めるものってあるんだろうか。

 人体が排出するもの中で、一番触りたくない。

 唾液や汗ならわからなくもないけど、血液は感染症のリスクしかないんだから。

 保健の授業は、一体何を教えているんだろう。

 誤った性知識を教え込まれたのか、この女の性癖なのかは知らないけど、流石に自傷行為は見てられない。


「なんで死にたいの?」


 僕は、出会った人に必ず聞くことを脈略もなく女に尋ねてみた。

 ちょうど、この女は死にそうだったし。


「それ聞いたら、興奮するの?」


 女は不思議そうに、聞き返した。

 そんなわけないだろ。


「そうじゃない、会ったやつ皆に聞いてる」

「ふーん」


 女は床にナイフを投げ捨てると、あらゆることに興味を失ったみたいに座り込んだ。


「飽きちゃったから、かな」

「飽きた?」

「うん、今も、なんか飽きちゃったし」


 不潔なものでも見るみたいに僕の股間に一瞬視線を向けると、女は顎でズボンを上げるように指図して、僕はそれに従った。


「なんか、ごめんね」


 人をナイフで脅して誘拐したくせに、そんな軽い挨拶みたいな謝罪で済ませられた事は甚だ遺憾ではあったものの、僕は何も言わなかった。


「これあげる。なんか、苦しまないで逝けるらしいよ」


 女は孫に飴でも渡すみたいに、僕の手にカプセル剤を握らせた。

 苦しまないで逝ける系の話は、たいがいデタラメだ。

 誰も信じてないけど、騙されたふりをして生きてる。

 この女もそうだろう。

 僕は、青と白の虫の卵みたいなカプセルを口に入れると、奥歯で噛み潰して、唾で喉の奥に流し込んだ。


 ごっくん


「あっ…」

 

 十秒くらい、女は驚いた顔をしたまま固まって動かなかった。

 出会ってからずっと死人みたいな顔をしてたけど、呆けた顔は人間らしくて、少しだけ愛らしかった。

 こいつ、思ってたよりも年下だったかも。


「死ぬの怖くないの?」

「怖いよ」


 「またね」「ばいばい」みたいに会話して、僕は潜水艦の中みたいな女の部屋から出ようとした。


「好きな人できたことある?」


 女は何を言うのかと思ったら、脈略もなくそう質問した。

 まあ、僕も人のこと言えないか。

 相手の思考回路を理解するのも億劫だったので、僕は正直に答えた。


「あるよ」

「いつぐらい?」


 女はぬいぐるみだらけのベッドに胡座をかくと、僕にも座るように合図した。

 おい、いつから友達同士になったんだよ。

 何がきっかけで打ち解けた?

 まあ。話してもいいけど、今日の夕飯と明日の朝飯くらいはおごれよ。

 僕は淡いピンクのカーペットに座り込むと、恋バナでも聞かせてもらえると思ってるのか、クッションを抱え込んで前後に揺れてる女に向かって、まず一言言った。


「昨日かな」

 



 知らない場所で目が覚めるのは、今日で2日連続だった。

 

 ぴーぴーぴーぴ


 そして、目覚まし時計の電子音を聞くのは、何年ぶりか思い出せないくらいだった。

 パソコンの前に座ってかじりつくように何かの動画を見ていた、昨日出会ったパジャマ姿の女を横目に、僕は一人用の小さなテーブルの上に用意してあった、少し焦げ付いた目玉焼きと分厚い4枚切りのトーストを、インスタントのコーンスープが入ったカップに一緒に入れて、そのまま胃に流し込んだ。


「うえっ。最低」


 一部始終を見ていたのか、女は僕のことを蔑んだような目で見た。

 

「うまい」

 

 まったく今の失態を取り返せる自信はなかったけど、礼儀としてお世辞を言った。

 久しぶりのまともな朝食すぎて、人間的な食事の仕方を忘れていた。

 さすがの僕も少し恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じた。

 

「今日も電車止まってるってよ」


 僕に言ったというよりは、自分の中のもう一人の自分に話しかけるような感じだった。

 また、今日も誰かが飛び込んだのか。 

 僕は無表情な女の横顔を眺める。

 今日飛び込んだ誰かは、もしかしたら、この女だったかもしれない。

 一体、その「誰か」と「この女」は、何が違ったんだろう。

 何も違うところなんて、なかったんじゃないのか。

 僕だって。

 

「今日も学校いけないや」


 時刻は午前11時。

 女がそうつぶやくのも、僕が今食べてるものを朝食と呼ぶにも、あまりにも遅い時間だった。



 

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