シロ 3
……あれから幾年時が過ぎたであろうか。
(――あばよ、お頭)
明け方、未だ皆眠りの中の石井営所の門前で、シロは短い時を過ごした塒の門前を見上げ心の中で友であり姉でもなった人に別れを告げた。
もう仲間たちは既に皆この場所から旅立っており、その頭目も今や天下の新皇の妻として、またその腹心として到底彼の手の及ばない高みに就いてしまった。
そして今彼もまたこの場所から出立するにあたり携えるのは、左手の編み笠と腰に差した短刀のみである。
ここを出て何処へ向かおうか。
先に旅立った仲間たちの後を追おうか。
一匹狼として新たに仕事を立てるか。
それともいっその事市井の中に紛れ込み堅気の生活に身をやつし平凡な生活を送ろうか。
いずれにしても、生まれついてのこの姿では何処に行っても目立って敵わぬ。
そんな自分を違和感なく受け入れてくれた仲間達も、今はもうここには居らぬ。
それでも、尚立ち去りがたく暫し立ち尽くす彼の元に、息弾ませながら駆け寄る者の気配を感じ、ハッとして振り向いたシロは驚いて声を上げそうになった。
「シロ様……!」
寝間着姿のまま、冷たく霜柱の立った地面を足袋も履かずに駆け寄る少女の名を、押し殺した声で口にする。
「あ、秋保お嬢ちゃん? ……なんであんた朝っぱらからこんなとこほっつき歩いてんだよ⁉」
「それは私の台詞でございまする!」
シロの元にかけよると、縋りつくように彼の襟元に手を伸ばす。
「貴方様こそ、こんな朝早くに、何処に行かれるつもりでございまするか?」
「何処って、……その辺ぶらつくつもりさ」
「……そのまま、此処に戻って来ないつもりではございませぬか?」
答えに逡巡するシロの襟を掴んで秋保が顔を埋め、嗚咽を漏らしながら震える声で慟哭する。
「嫌です、……嫌ですっ! 此処から何処にも行かないでくださいまし! 貴方様が居なくなられたら、秋保はもう生きていけませぬ!」
「お、おいお嬢ちゃんよ?」
思わずシロが彼女の肩に手を掛けるのを、秋保は別の意味に受け止めた。
襟を掴む手を彼の背に回し、決して離すまいと細い両腕で精一杯に抱きしめる。
「……好きなのです。大好きなのです。貴方の事をお慕いしているのです。何処にも行ってほしくないのです。――決して離しませぬ!」
息を呑むシロの唇に、顔を上げた秋保の涙ぐんだ双眸が迫った。
「明日明後日には父が常陸から帰営致しまする。それまでに、私を貴方のものにしてくださいまし。……今宵、貴方をお待ちしておりまする。いつまでも、いつまでもお待ちしておりまする」
囁きを耳元に残し涙を拭いながら、呆然と立ち尽くすシロの傍から秋保は駆け去っていった。
この様子を、すぐ後ろの松の木の枝の上から終始傍観していた者があった。
秋保の消えた後もポカンと立ち尽くすシロを暫く見下ろしていたが、やがて「……ちぇっ!」と舌打ちを漏らすと、ひょいと門の上に飛び移り何処へかへ飛び去って行った。
結局朝餉時まで立ち尽くしていたシロが、未だ今朝の余韻を引き摺ったままフラフラと営所の中に引き返していくと、広間の縁側でべろべろに酔い潰れたコヅベンと小唄が賑やかに酒盛りをしているのに出くわした。
「オメエらこんな朝っぱらから何してんだよ……?」
「おお、シロとか言ったか! どうじゃおぬしも一献交えぬか!」
「にゃひひひ!」
奥を覗くと、何やら酒宴の下準備が整えられているらしく、まだご馳走こそ並んではおらぬが大層な宴席が設けれると想像できる様子である。
「見ての通り、小次郎たちの帰営の前祝いじゃ。使いの者の話によると、明日にでも此処に到着するとのことであるからのう。一先ず坂東争乱もこれにて一段落、新皇様の威光を讃えて、大いに飲んで歌って敢闘を祝してやらんとのう」
「だからって練習にしては早過ぎんだろうがよ。朝から酒入っちまったら今日一日もう何も出来ねえぞ」
「だから前祝いが今日の大仕事じゃて。おぬしも、ほら、ぼさっと突っ立っておらんで、こっちに来ぬか! 今日は仕事はせんで良い。俺が許す!」
「にゃひひ! ……う、うっぷ。おろろろろ」
「ぎゃはははは! 歳を食うと肝の臓にも堪えるらしいのう小唄よ。いくら若作りしたところで臓腑の方ばかりは胡麻化せぬと見え痛ってえっ!」
「フーっ!」
「……何やってんだよ」
酒と小間物の擦り合いを繰り広げる二人の狼藉をこれ以上見ていられぬと頭を掻きながらシロは早々にその場を後にした。
入れ替わるように酔漢二人の前に現れたのは、この薄ら寒いのにいつもの露出甚だしい忍び装束姿の吹雪であった。
「なんじゃ。見ぬ顔が来たのう。娘、お前も一献やらぬか?」
「おう。くれい」
と、吹雪は何やらブスっとした顔でドンと二人の前に腰を下ろすと銚子をひったくってそのままぐびぐびと飲み干した。
「おお! 良い呑みっぷりじゃ。よし、どんどん行け。酒は溺れるほどあるぞ!」
「にゃひひひ! ……う、うっぷ。おろろろろ」
今朝の余韻を微塵も残さず吹き飛ばしてくれた一場面に呆れながら、もう一度寝直そうかと納屋に向かって足を向けていたシロの元へ、もう一人の忍び装束姿の娘が駆け寄ってきた。
最初は吹雪かと思ったが、もう片割れの玄明の側仕えである清音であった。白い息を荒げ、何やら只ならぬ様子であった。
「おい、シロの。吹雪を見かけておらなんだか?」
「見てねえよ。何かあったのか?」
大体は玄明の命で内偵の為各地を飛び回っているため中々姿を見かけぬこの娘が、わざわざ主人留守中に営所に姿を現すとは珍しい。それも表情から察するに何か相当逼迫した事態が起こったのであろうか。
「下野国の藤原秀郷が兵を起こした。ざっと見ただけでも四千の兵じゃ!」
はン、成程。とシロも事態を察した。
「そりゃ妙な所から火が付いたもんだな。でもよ、四千つったら大層な数だが、こちとら八千の兵隊抱えてンだろ? 倍の兵差とくれば殿様の敵じゃねえだろうに」
呑気に返すシロに目を剥きながら清音が気色ばんで答えた。
「違う!」
確かにシロは事態は把握した。しかし状況までは未だ理解していなかったのである。
「……違うのじゃ、今の我らに八千の兵力など、――もうないのじゃ!」
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