第1章 野本の合戦 4
如月四日、常陸国野本付近。
豊田郡の本拠地を目指し、帰路に就く将門ら一行は、皆白い息を吐き出すほかは一様に無言であった。
行きの道中とは打って変わり、正午を廻ったばかりとは思えぬほど暗く分厚い雲が冬空を覆い、坂東平野の空っ風はいつにも増して強い。
しかし、この日は誰一人寒さを口にする者はいない。嚏の一つも憚られる程の重苦しく張り詰めた空気が一行を包んでいた。
数日前まで足を取られるほど泥濘んでいた道は凍り付き、行き足に比べれば帰りの足は順調であった。
だが、その足取りは決して軽やかなものではない。
皆が鎧甲冑に身を包み、物々しく弓矢や太刀を佩き眦鋭く周囲に気を尖らせているせいかもしれぬ。
扶らから襲撃を受けた後、真樹の屋敷に引き返した一同は、真樹の郎党、従類の主だった者を参集の上、緊急の軍議を執り行った。
「……彼奴等、最初から土地境の交渉などするつもりはなかったのじゃ。それどころか、この度の境界を巡る揉め事も端から仕組まれておったとは!」
従類の一人が憎々し気に吐き捨てた。
「しかし、解せぬのは源氏の動きじゃ。確かに御前様の一件で若様や我らとの間に禍根があるとはいえ、戦の沙汰となれば若様の伯父――現常陸大掾である国香様らが黙ってはおらぬはず。如何に若様が伯父殿らと不和とはいえ、一門の一人が他家より弓引かれたとあれば我ら坂東平氏の沽券に関わる問題じゃ。下手をすれば嵯峨源氏を相手に坂東八国を巻き込む大きな戦になりますぞ!」
真樹の危惧の言葉に、皆息を飲んで黙り込んだ。
一同が沈黙する中、やがて将門が口を開いた。
「……先刻の襲撃において、扶が気になることを口にしておった」
主の言葉に、皆が将門を注視する。
――父上らは大層喜んでおられたよ。忌々しい良将奴の小倅を亡きものに出来るとあってな!
「あれは護様お一人の意向とは思えぬ。背後に伯父が関わっておるのは確かじゃ」
「では良兼伯父か!」
意気込んで身を乗り出す将頼に、将門は悩ましそうに腕を組む。
「しかし良兼伯父は現在所用で上総の国衙を離れ武射郡の営所におるはず。わざわざ常陸から遠のいて企てを図るとは考えにくい」
兄弟二人、同じ懸念を以て顔を見合わせる。
「国香、良兼、良正。我らの父上を除いた三人の伯父らが護様の娘御を室に迎えておられる。誰が首謀であったとしても驚かぬ」
「兄上、まさか……」
弟の血の気の失せた顔を見つめながら、将門は頷いた。
「……恐らく、伯父達全てがこの企てに関わっておる」
話を聞いていた一同の者も顔色を変えて騒めき始める。
「――父上が御隠れになって以降の事、全てが伯父達に仕組まれていたのじゃ。美那緒を奪い返したことも、真樹殿の境界争いも、扶の襲撃も。全て伯父達に仕向けられていたのじゃ」
「……若殿、直ちに豊田へ戻られよ!」
真樹が血相を変えて立ち上がった。
「もし今懸念された通りの事態とあれば、若殿はこの常陸をはじめ、叔父上らが治める上総、下総、下野からぐるりと敵勢に囲まれておることになりますぞ。加えて嵯峨源氏も結託しておることは間違いない。下野の藤原勢も今後どう転ぶか判らぬ。否、既に凋落されておるやもしれませぬ。早急に御本拠へ戻られ、襲撃に備えられよ。既に敵は動いておるのですぞ!」
白氏もまた身を乗り出して進言した。
「一足先に豊田へ早馬を飛ばしまする。道中、我らが明日までに掻き集められる限りの従類を伴い御一行を警護致しますれば、殿も速やかに御仕度なさいませ!」
二人の進言と助力の申し出に、将門は深く低頭した。
「忝い。元を質せば俺と伯父らの身内争いじゃ。其許らを巻き込んでしまったこと、深くお詫びいたす」
申し訳なさそうに首を垂れる将門を前に、真樹は励ますように呵々と大笑した。
「何を申されるか! 身共はお父上の代から御家に仕えておるのじゃ。この老い耄れ、若殿一の郎党として最後まで御供致しまするぞ!」
戦を念頭に置いたため支度に一日を余計に費やした。道中の襲撃に備えてのことである。
斥候を二人先行させている間に、小貝川の河辺にて風を凌げそうな灌木の陰で小休止を取る事とした。
漸くほっと息を吐きながら一同は兜を脱いだ。豊田の屋敷まで未だ行程は遠い。
「寒くはないか?」
侍女と身を寄せ合い暖を取っていた美那緒に歩み寄ると、疲れた素振りも見せぬ様子で顔を綻ばせる。その背中を侍女の萩野が甲斐甲斐しく摩って温めようとしていた。
「こうして萩野とぴったりくっ付いておれば大層温こうございまする」
そう言って長く連れ添った侍女らと共に健気に笑ってみせる美那緒であったが、その両掌を取ってみると凍えるように冷たい。
最初は、真樹の屋敷に残してこようかとも考えた。扶の狙いはまず自分の首であろう。帰路自分と同行することで危険に巻き込みたくはない。しかし、真樹とその郎党が警護の為に皆出払っている間に、手薄となった新治の営所が敵に攻められぬとも限らぬ。尤も、それは豊田の屋敷も同じことであろうが。
結局は、どう動こうとも置かれている状況は何も変わらないのである。何よりも、美那緒が自分と離れることを頑として受け入れなかった。
(……まったく、あそこまで強情を張る娘であったとは)
苦笑を含ませつつも愛おしそうに妻の掌を摩る将門の元に、斥候に出ていた物見の者が最悪の報告をもたらしたのはその直後であった。
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