野ばらの道の向こう側

木野かなめ

前編

 二十三時を少し過ぎた頃だった。


 春の終わりにしては相当に肌寒く、俺は上着をきてこなかったことを心から後悔しながら最寄りの駅舎を出た。ミスタードーナツ、小さな書店、フルーツショップ。いずれもシャッターが降りている。バスのロータリーは小さな寝息を立てながら、やがてくる明日を待っているようにも思えた。

 円を描くようにロータリーを歩きながら信号へ。いつもの歩幅とぴったり同じで住宅街に進んでいこうとしたその時だ。二人の若い女性がビラを持って立っているのに気づいた。


「すみません、どうですか」


 そのうちの一人が差し出したビラを見て、すぐにわかった。

『神』・『願』の文字が大きく印字された、ややカラフルなビラ。これは宗教の勧誘のビラだろう。俺は片手でノーサンキューを決めこみ、彼女たちの間を通り抜けようとした。


「うっ」

 ビラを差し出した女性が小さくあえぎ、身震いをする。よく見れば、彼女たちは二人ともブラウス一枚しか着ていなかった。そりゃ寒いだろう。俺はさっきまで電車の中にいたのだけど、彼女たちはその間も駅前で勧誘をしていたに違いない。立ったままの状態が一番辛くて寒さを感じやすいことは、大学生の時にやった警備員のバイトで俺は百も承知していた。

 近くの自販機でホットコーヒーを二本買い、彼女たちのところへと戻る。そして気取ることなく、おもむろにコーヒーを差し出した。


「どうぞ」

 一人のショートカットの女性は、えっ、という顔をした。化粧っ気は少ないが美人だ。きれいな鼻をしている。もう一人の女性は誰かに電話をしながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」としきりに謝っている。

「どうぞ。寒いでしょう」

 俺はあらためて言った。「どうぞ」だけでは意味がわからないかもしれないと考えての、こちらなりの気遣いだ。これでショートカットの女性は俺の厚意を素直に受けとってくれるだろうと思った。

 しかし、電話を切った長髪の女性の方が俺に向かって手のひらを向けてきた。この女性も美人だった。さらさらの髪が闇に紛れ、それはまるで滝のよう。二人とも憎しみを覚えているようではなかったが、鈍感な俺でも感じられるほどに拒絶の気配が漂っていた。


「私たちは、神から物をもらってはいけないと教えられているのです」

 長髪の女性が俺をじっと見て言った。

「そうですね。たしかブッダは自分の弟子に、『教え』以外のものを乞うなと説教をしました。しかし俺は神でもブッダでもありません。ただの人間です。通りがかりの人間が、寒いだろうと思って買ってきたのです。気にすることはありませんよ」

「そうおっしゃるのであれば。……ありがとうございます」

「いえいえ」


 そして俺はきびすを返し、当初の目的どおり家路に戻ろうとした。するとショートカットの女性の方が、俺の背中へと声を飛ばしてきたのだ。

「よかったら読んでみませんか」

 きっと、さっきのビラのことだろう。

 俺は振り返り、ショートカットの女性の目を見つめる。


「すみません。俺は、俺のことしか信じていないんです」

「どういうことですか?」


 相手の声に、険はない。


「神様だけじゃなくて、その、周囲の人間も信じていないんです。信じているのは俺だけ。俺の考えと感じ方だけ。でもそれは不義理や不親切に繋がるものではありません。俺がかわいそうと思えば誰かを助けますし、俺がありがたいと思えばその相手になんらかの恩返しをしたいと感じます。たんに価値基準が俺しかない、という。それだけです」

「私もそうです。自分を信じていますよ」

「神様を信じる、というあなた自身を信じていらっしゃるのですね」

「そうです」

「であれば、それはやはり俺とは違います。あなた方は神様の言葉に『疑問を覚えては』ならない。神様の言葉を信じた上で、さらに自分自身も信じなければならないのです。ですが俺は神様の言葉のいいとこどりをします。神様の言葉で使えると思うところがあれば使い、役に立たないと思うものであれば疑いの目で見るのです。だから俺は、あなた方と同じ道を歩くことはできません」


 強い風がビルの間を抜けてくる。三人で身震いをした。こんな不自然な風を吹かせながら収益を得ているだなんて、このビルを建てた不動産会社には損害賠償を請求したいくらいだ。早く帰って、季節外れの暖房をつけねば。


「終電まであと一時間半くらいですか。体調を崩さないよう気をつけてくださいね」

 俺は彼女たちの元を去ろうとして――、でも一つ、大切なことを言ってなかったことに気づいて身体を止めた。


「今のって、俺が正しいとかあなたたちが正しいとか、そういうのじゃありませんよ」


 そう。俺はけして、完全な正解の道を歩いているわけではないのだ。


「俺は、自分だけを信じるのがシンプルでいいと思ってる。でもそれだと自分では気づけない『間違い』を直すことができない。あるいは、直すのに遅れてしまう。あなた方は自分以外に信じるものがあるからこそ、過ちを直すことができるかもしれない。だからそれは、好き好きなんだろうと思います」


 たくさんの言い訳をしながら、ひどく反省していた。


 通りすがりの人間であるなら、とっとと帰宅すればよかった。なのにホットコーヒーを買うというお節介を働いた上、いらぬ説教まがいのせりふまで吐いている。この時間一つとっても、この人たちにとっては邪魔なものでしかないだろうに。


 だから小さく頭を下げ、その場を立ち去ろうとする。

 そんな俺に、慈悲に満ちた声が届いたのだ。


「わかっていますよ」と。


 声を発したのがショートカットの女性だったのか、あるいは長髪の女性だったのか。

 それはわからないけれど。


 信号が点滅している。俺は風の下をくぐり抜けながら、全力で横断歩道を渡りきった。

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