番外編 夕立の夜
普段より少し大きい雨粒が地面を穿つ。雨に濡れた地面の匂いを嗅いだ。
空に金糸がかかった。僅かの後に、地鳴りのような雷鳴が響く。
早めに帰宅したのは正解で、夕立が降るだろうという予感は的中した。
例えば、好いた女がずっとあの男を待っていることが憎らしかった。
例えば、あの男はこないと知っていながら、ずっと待ち続けなければならないことが悔しかった。
橋の袂にただ突っ立っているのはばからしいし、そのことを相手に知られているのも不愉快だ。
それならばいっそ、今日はあの男は来ないと彼女を誑かして、茶にでも誘いたかった。それをする勇気がなく、結局一人で茶屋によって帰ってくるのが俺だ。
日が傾くにつれて雲が盛り上がってくるのが気がかりで、彼女は家に帰した。家まで送りたいという気持ちを、ぐっと押しとどめて「気をつけて帰れ」とだけ言った。
瀧崎の家は、金がある。呉服商で近所でも名が知れている。しかし跡取り息子は病弱だった。
幼少のとき、友達だと思っていた男がいきなり倒れた。余命幾許もないと知ったのは、そのときだ。
そのときから俺は瀧崎という男を、どうあつかっていいのかわからなくなった。瀧崎自身は何も変わらなかった。俺も変わらない。
だが、ふとしたときに命が揺らぐ。それを、どう受け止めていいのかわからずに、己の心を持て余していた。
あの男は病弱で、約束しても大抵は来なかった。暑い日も寒い日も、待たねばならなかった。
たまにはあいつが待つ事もあっていいはずだ。
どちらにしろ来ないのだから、雨がくる前に帰ってもいいはずだ。
夕立の音を聞きながら、胸を締め付ける痛みの理由を探す。理由は見つからず、気がつけば家に帰ってきたことに対しての良い訳ばかりしていた。
轟く雷鳴と、雨粒。
嫌な男だ。彼女に惚れたのは、俺なのに。
少しの興味もないくせに、なぜ彼女の心をさらっていったんだ。
あの男は待つという事を知らない。待つ必要はないし、欲しいものも欲しくないものも、さらって行く。
俺のような凡人が、必死でそれを手に入れようとしているのに。
もし雨の中待っていたとしても、どうしたというのだ。この一方的な関係がおかしい。どちらかが待たされてばかりで、それを広く寛大な心で受け止めて、あの男の身を案じ続けなければならないなんて、俺はごめんだ。
橋で待ち続けるのと同じくらい愚かなことだ。
雨の水は冷たい。降り出してから、不愉快な暑さをしていた空気が温度を下げた。汗をかいてそれが冷えたり、急いでいて傘を持たずにいたり。
俺はよくやる。よくやらされる。
体の弱い瀧崎を、そんな目に遭わせる訳には行かないからだ。
「くそっ!」
腹が立つ。
上着を羽織り、傘をとると雨の町に身を投げる。どうせ、居ない。雨も降っているから家の者が許さないだろう。彼の命に関わるのだから。
弱いくせに強かで、余命幾許と言っていたくせにもう何年も経つ。
だからちょっとやそっとでは死なないだろうと思っていると、不意に揺らいで消えそうになる。まるで蝋燭の火だ。
傘があると走れない。途中で面倒になって閉じた。雨宿りをする町娘に押し付けて、己は身一つで走る。
これで、居なかったらとんだ笑い者だ。
橋が見えたとき、足を止めた。煙雨にかすむ橋の上に人影は見えない。足早にすぎる人間が居るだけだ。どこの家の軒下にも、日の光から離れて久しい瀧崎の白い顔は見つけられなかった。
傘もささず雨宿りもしない佐伯を訝しむ、無数の目がある。
(安堵するか、普通は)
こういうところが、嫌いなんだ。来ないなら、使いの一つくれればいい。
引き返すのはやめにした。いきなり家を飛び出して傘を失くして着物を濡らして帰ってくれば、家人に問いつめられるに決まっている。上手い言い訳は思い浮かばなかった。
瀧崎に文句を言うのは、酷いことだとわかっている。だが、足は自然の彼の家にむいていた。
一気に脱力してしまい、雨をよけようとする気すら起こらない。
惚けた顔で歩く俺を、総髪の男が追い越して行った。
背が低く、猫背をさらに丸めて、小さくなって走って行く。その姿には覚えが合った。
瀧崎の、医者だ。
体調が悪くて約束に来ないのだから、医者が向かって不思議ではない。
患者は瀧崎一人ではないから、追ってもしようがない。
気がつくと歩を早めて、医者の背中を追っていた。
その角を曲がるな、その門を入るな。
気がついたときには、医者を追い越していた。
「瀧崎!」
考えなしに玄関に飛び込んだ時、この家は他家の人間を構っている暇などないのだということに気がついた。
医者が来ると思い玄関で待ち構えていた人たちは、無神経な闖入者をみてあっけにとられたが、すぐあとに走り込んできた医者とともに家の奥へ消えてしまった。
右往左往する家人を眺めながら診察が終わるのを待つ間に、びしょぬれの体を置いていた玄関には水たまりができた。そして胸の内には自責の念と後悔が膨らんでいくのだった。
すっかり日も落ちてから医者は帰り、ようやく瀧崎の顔を見ることが叶った。途中帰ろうかとも思ったが、ちらりと姿を見せた彼の母にせめて体だけでも乾かして行くようにといわれ、そうしているうちに居座る事になった。家には、使いを出してくれた。
どうやら、瀧崎の体調が変わったのを知って駆けつけたと思われたらしい。
本当はそんな麗しい理由ではなかったのだが、否定する事はできなかった。
約束を破った事について、怒る事すらできない。そのふてぶてしい病人に向かって、酷い嫌みの一つでも言ってやろうとしてきたのだ。
安静にしていれば、命に別状はないらしい。しかし少し前まで予断は許さない状況だったのはわかる。
俺が雨の中、この男をそのままにしておいたから。
俺が、待たなかったから。
本当のところなぜ瀧崎の体調が急変したのか、はっきりとした理由は誰も口にしなかった。だが、俺を責めることが出来ないから口を噤んでいる、そんな気がしてならなかった。
瀧崎の部屋には、彼の母と女中が居た。どうやら、寝ずの看病をするつもりらしかった。頭を下げると、二人も挨拶を返してきた。
「かわります」
女中は守り神のように瀧崎の傍らに座している彼の母をみた。
「任せましょう。大丈夫、気の置けない仲だから、きっとその方が安心するわ」
彼女の目はずっと息子を見ていたが、一度だけこちらを見据えた。その瞳は誰かを責めてはいなかったが、俺は耐えきれずに頭を下げるフリをして視線を外した。
食事はいるかと聞かれて、食べてきたと嘘をついた。本当は食事が億劫だった。
「お医者様も、大事無いと行ってくださいました。佐伯さんもあまり無理はしないように」
俺の嘘は、ばれていたのかもしれない。瀧崎の母は、瀧崎に似て人の心を見透かすようなところがある。
二人が去り、部屋はすぐに静かになった。気を遣われたのかもしれない。ともあれ、とりとめのない考えを邪魔する人間は、ここに居なかった。
瀧崎の髪はぐっしょりと濡れているが、それが汗のせいなのか夕立のせいなのかは分からなかった。
桶で手ぬぐいをしぼると、汗を拭ってやる。前髪をのけて額に手を当てる。
命の火が、こぼれだしている。
普段の瀧崎が体温の低いことを、俺は知っている。
俺の手が、この男より冷たかった時などない。
それがいま、熱い。
「お前、やめろ」
独り言のように語りかける。
堅く閉じられていた瞼が薄く開いた。熱に浮かされているのか、その目はどこをみているのか判然としない。少なくとも、話は聞いているようであった。
「そんな事をされたら、どうやって友情をつなげばいい」
命を盾にされたら、何も言えなくなってしまう。
「友達ならな、たまにはやり返したりするんだぞ」
それで命を脅かしていては、まともな友人で入られない。同情くらい持ち合わせている。だが、同情ばかり注いでいて、一体どんな友になれるのだ。
瀧崎が倒れてからも、彼にただの友人として接しようとする心が合った。だが瀧崎の体調を考えると、病人扱いしないわけにも、同情し労わらないわけにもいかない。結局、少々無愛想で乱暴になる友情は持て余されたままで、時々苛立と共に戻ってくる事しかしない。
「たまには」
消えそうな声で、瀧崎が言った。この家が静かでなかったら、聞こえなかっただろう。
「佐伯の、文句も聞きたい」
ため息をするように、笑った。
「いつも、何も言わないが、顔にでている。たまには、口でいってもいい」
「今、言った。もう、いい」
苦しそうに眉根を寄せて、瀧崎は目を閉じた。聞いていたのかわからないが、その確認をとる元気はもう残されていないようだ。
もう一度、瀧崎の顔に触れる。
熱い。
熱が下がったら、このまますべての体温が消えてしまうのではないだろうか。
「瀧崎、嘘だ」
指の背で、頰をなでる。汗に気づいて拭った。濡らした手ぬぐいの冷たさか、俺の手の冷たさか、瀧崎の表情が和らいだ。
息が苦しくなる。
「まだ、言い足りない」
胃が締め付けられる。瀧崎は返事をしない。
間違っても、こんな事で死ぬなよ。
たまには、俺も文句を言う。病人だからと、いつまでも遠慮はしない事にした。
「なぁ」
汗を拭う。浅い呼吸が、手首を撫でた。
彼の命の気配を肌に感じて安堵し、浮かしていた腰を座布団に落ち着ける。
夜が訪れる前にとうに止んでいた夕立の、名残の雫の音が聞えている。
万事ままならない。いつもそんな思いを抱えていた。
それは瀧崎に関することでもあったし、好いた女のことでもあったし、己自身のことでもあった。その度に苛立ち憤り、矛先は大抵瀧崎にむいていた。
友として大切だと思う反面、思うままに生きる男が許せなかった。
だが、本当は違う。
本当に苛立ち、憎み、許せなかったのはこのままならない自分自身だ。
俺はずっと瀧崎に嫉妬していた。今この瞬間ですらも、劣等感は身の内を焦がし嫉妬の影を浮かび上がらせているのだ。
己の醜悪さに、佐伯は顔をしかめた。
無性に泣き出したくなったが、何がその衝動を突き上げさせているのか分からなかった。
「お前に謝りたい」
佐伯の言葉は、体の奥底からこみ上げてくるものに塞がれてしまい、許しを請う声でさえかすれて聞こえはしなかった。
橋姫 望月 鏡翠 @ky_motiduki
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