第5話
行けばいい。何も考えずにまっすぐ行けばいい。余計なことを考えれば、足が重くなる。
しかし足は不思議と茶屋に向いて、飲みたくもない茶を頼み、食いたくもない団子を頼んでいた。
気恥ずかしいのか、恐ろしいのか。嘗ての友と、嘗ての想い人。あの男は、時間通りにはくるまい。いるとしたら、あの美しかった少女が、自分と同じ年頃の一人の女になってそこにいるだけであろうに。
なぜか不思議と足が重い。
「あの・・・佐伯、佐伯 義介よしすけ様でしょうか?」
上品な所作の娘であった。声も柔らかく美しい。
年の頃は、この橋に通っていた頃の俺。心当たりはなかった。嘗ての想い人の年の離れた妹は、このような年頃であるかもしれない。或いはあの男の縁者。
しかしその面差しをみたとき、違うと確信した。ただの勘だが、それは信ずるに足るものであった。
返事がないので困惑し、娘は恐る恐る俺の肩に手を触れた。その袖の香に覚えがあった。
恐らくは。
「佐伯様、ではありません? 人違いでしたか?」
「いや、佐伯だ。佐伯 義介。俺に間違いない」
娘はあからさまにホッとした。その瑞々しい若さに愁いが、色気を添えている。
そう、恐らくは。
「瀧崎様のことです」
「はは、またか。あの男が待ち合わせに来ぬのはいつものことだな」
「いえ、そうではないのです」
困っている。困っているぞ。話を聞け。聞いてやれ。
「全く、来ぬ者を待っても仕方がない」
「佐伯様、お聞きください」
通行人が何事かと思って振り返る。金を払った。娘を振り切って、俺は歩き出した。
橋にはいかない。初めから乗り気ではないのだ。あの気ままな男は約束など、守らないに決まっている。
あの男も待たされるという事を知ればいい。そうすれば少しは己の行動を省みて反省するだろう。
「佐伯様! 瀧崎様は、」
娘が悲痛な面持ちで叫ぶ。
若い顔に浮かぶ、愁い。
袖から漂う、線香の香り。
あの男は、橋で待っている。
珍しく俺に待たされている。
橋に来たのだ。そうして、俺を呼びにきたのだ。しかし俺はいかないぞ。初めから、大嫌いだ。俺の想い人を図らずも掠め取っていった事が、一等気にいらん。
そうしておいてまたあの声色で、すまないねというのだろう。
それで許してしまって腹の立たない俺が、俺は気に入らんのだ。
幼い頃より病弱で、医者に余命半年もないといわれていたから俺は同情して遊んでやったのだ。それがどうだ。ずっと半年半年といい続けながら、何年も生きて。
それが、今になって。
今更、死んだはずがない。
俺を呼び出した文はあの男に良く似た手で記されていた。とても良く似たているが、線の細い女の手であった。待っていたのは、線香の香の間にあの男の家の香を匂わせる娘であった。
決まっている、あの男は今でもまんじりともせずに俺を待っているのだ。大人になって、すっかりと元気になって俺に待ちぼうけを食らわされているのだ。
俺は、けして橋には行かぬ。
娘など、俺を待っておらぬ。
俺を待つのは、あの忌々しい男だ。あいつただ一人だ。
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