第2話

 そういや兄さん一人身かい?

 いやね、向こうの橋のところに娘さんが立ってるんですよ。それが毎日、雨の日も風の日も。

 男を待ってるらしいんだが、ありゃぁどうやら捨てられたな。それが結構な別嬪さんなんですよ。まだ若いみたいだし、あのままってのも気の毒だ。

 でも、声をかけようにも俺じゃぁね。恰好がつかないし、かみさんに怒鳴られちまう。

 どうだい、兄さん。多少年は開くが、悪くねぇと思うよ。


 雨がしとしと降っている。煙雨が、町を霞ませる。白い吐息が雨に溶けて混ざってゆく。

「感心しない」

 傘を傾けて見上げるようにしないと顔の見えない、背の高い人だった。

 初めてお声をかけた時の、あの顔は表現できない。大人の仮面を落としてしまったむき出しの感情に、慌てて何かを被せて足早に立ち去ってしまった。

 その時から今まで、会って居なかった。

「若い娘が、こんな所に毎日のように居るのは、感心しない。危いこともあっただろう」

 この人は、私の名前も知らない。

「俺を待っていたのか」

 間違っていたら恥かしいから、彼は視線をそらした。それほど豊かに思いを表すのに、心を乱さないのが憎いくらいにあの人に似ている。

 それに心が乱れるのが、恐ろしい。私の心は驚くくらい節操がなくて、はしたない。

 堪えた笑みが、唇の隙間から零れ落ちて白い息になってとけた。

「俺に用があるなら、尋ねてくればいい。悪い噂が立っていた」

 私を見ない。目が泳ぎ回って本当に言いたいことを隠している。私の笑みを肯定と受け取って、意図しないところまで深読みしてしまったようだった。

「すみませんでした」

 わざと言葉を捉え違えたふりをして見る。

「俺はいい。謝らないでくれ」

 朴訥とした語り口が、むず痒い。

 初めてあった時の、あの顔が頭から離れない。どんなことをいったら、あんな風に心を乱してくださるのだろう。

 傘を持つ手の、赤くかじかんだ指先。それに頓着しないのは、この方が男の人だから。橋の欄干が濡れているのも気にしないで、そこに手を載せて川を見下ろす。

 長く細く吐き出した溜息は、空気に溶けて天に昇っていった。霧に混ざって溶けて、またこの朱色の傘に降り注ぐ。

「実感が、わかない。こうして待っていれば」

「そうならないように、私がいるのです」

 遮ってしまった。最後まで言わせたら、何が出てくるのだろう。でもきっと何かが出てくるのもそれにふりまわされるのも、私の方に違いない。

 遮られた言葉が、溜息になって吐き出された。あの白い靄を捕まえてしまいたい。それで、瓶に詰めておけたら私は満足。ガラスの中に入っていたら、きっと綺麗。

「十年、近くなるのか」

 それは、確認ではなかったし疑問でもなかった。独り言のようだったので、なんと言葉を返せばいいのか分からなくて、結局何もいわないのがいいと悟った。

 傘の外に出た腕が、雨でしっとりと濡れている。見下ろす川は、寒さで水が恐ろしいくらいに澄んでいる。

「身投げには、浅いな」

 橋が、いけないのですね。

 この橋が、あまりにたくさんの人の心を捉えたから、私も動けなくなってしまった。

「また来てくださります?」

 橋に待ち人、また一人。

 霧雨は町を煙らせて、橋は白く霞んでいる。

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