入れ歯

増田朋美

入れ歯

入れ歯

今日は一寸寒くて、曇っているぼんやりした日であった。何だか今日は寒いよなあと言いながら、杉ちゃんと蘭はいつも通りに食事をしていたのであるが、蘭が何だかぼんやりとした顔をしている。

「どうしたの?何か、ぼんやりした顔してるけど。」

と、杉ちゃんが言うと、

「歯が痛い。」

蘭はそう答えたのであった。

「虫歯にでもなったか。」

と、杉ちゃんが言うと、

「どうもそうらしいね。まあ虫歯は誰でもかかって当たり前だけど、歯医者さんへ行くのは、ちょっとねえ、、、。」

蘭はぼそりと言った。

「それじゃあまずいだろ。ちゃんと歯医者さんへ行って、直してもらいなよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「でもねえ。歯医者さんというのは、どうも苦手なんだよ。あの機械の音と言い、口の中へ手を突っ込まれるといいさ。」

蘭は一寸しり込みをした。

「まあそうかもしれないけどさ。ちゃんと直してもらわないと、ご飯が食べれなくなっちまうぞ。ちゃんと予約とって、見てもらってこいや。」

杉ちゃんにそういわれて、蘭は、やっぱり行かなければならないかと思った。

「じゃあ行ってくるか。ここらへんで評判のいい歯医者さんって何処だろう?」

と、急いでタブレットを取り出し、富士市歯医者という語句を、検索欄に入れてみたところ、沢山の歯医者さんがずらずらと出てきた。ほとんどが、インターネットで予約ができる。予約状況を見てみると、どこの歯医者も予約でいっぱいだった。待つとしたら、二時間以上待たなければならないのである。やれやれみんな二時間待ちか、と、蘭があきらめかけた時、一軒だけすいている歯医者を見つけた。蘭は、急いで午後の一時にインターネット予約した。歯医者の名前は植松茉奈歯科医院というところである。

「なんだ、女の先生か。一寸頼りなさそうだな。女のお医者さんって、どうしても感情的になるからさ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ほかの歯医者さんは混んでいて予約が取れないから仕方ない。ここに行くよ。」

と、蘭はとりあえず言った。まあ多分、虫歯の治療何て、何処の歯医者へ行っても変わらないだろうなと思っていた。

さて、予約した時間になったので、杉ちゃんと蘭は、グーグルマップにしめされた地図を頼りに、植松茉奈歯科医院へ行ってみることにする。そこへ到着すると、植松茉奈歯科医院と看板をしめしている建物は、歯医者というより、小さな雑貨屋のような、かわいらしい建物であった。

「へえ、これが歯医者かあ?」

と、杉ちゃんがいうくらい歯医者から離れていた。

「なんかパワーストーンとか、そういうものを売っているような店のようにみえる。」

「とりあえず入ってみよう。」

と、蘭は入り口のドアをがちゃんと開けた。

「あの、すみません、一時に予約しました、伊能蘭と申しますが。」

と蘭が言うと、ひとりの女性が蘭の前に出てきた。

「どうぞ、いらしてくださってありがとうございます。こちらにいらしてください。」

女性は蘭を連れて、薔薇の花の写真が張り付けてあるドアを開けて、一緒に部屋に入らせる。

「着物で来院されるなんて珍しいですね。」

そういう彼女に、蘭は、いやあ仕事着なんですとだけ言った。

「今日はどうされましたか?何か悩んでいて、鬱になったとかそういうことですか?」

「いやあ、単に虫歯になったということだけなんですけどね。」

彼女の質問に蘭は答えた。

「どうして、当院をお知りになりましたか?」

そう聞く彼女に、

「いや、単に、インターネットで歯科と検索して出てきただけの事なんですけどね。」

蘭は正直に答えた。

「そうなんですか。当院では、鬱などの病気を持った方の歯科治療を中心に行っていますの。そういう方は、なかなか、歯科治療に来られないことが多いから、それで歯科を併設しているというだけであって。でも、予約とってくださったんだったら、ちゃんと拝見いたしますわよ。車いすのままで結構ですから、まず口をすすいで頂いて、一寸、見させて貰えますか?」

と、女性がそういうことを言うので、蘭は近くに在った洗面器で口をすすいだ。言われた通りに口をすすいで、口を女性に見てもらう。

「はいそうね。まだ軽い虫歯なので、抜く必要はないわ。早く見つかってよかったわね。一寸削れば大丈夫よ。」

女性に言われて、蘭は、その通りにすることにした。確かに、あのウイーンという気持ち悪い音がする機械もあったが、女性は意外に上手で、あまり痛みはなかった。

「これで大丈夫よ。あとは、詰め物を削るから、二、三日したら、もう一回来てくれればそれでいいわ。」

「ああ、ありがとうございます。」

蘭は、もう一回口をすすいで、頭を下げた。

「ちなみに、こちらは、何か特別な人のための歯医者さんだったんですか?」

思わず、蘭はそう聞いてみる。

「ええ、こちらは、心療内科と歯科を併設しているんです。八割位が精神疾患の方で。たまに、蘭さん

のような単独の歯科治療をされる方もいらっしゃいますが、大体の鬱の方々などは、虫歯や歯周病などが、かなりひどくなってから、こちらに来られます。あたしは、心療歯科医の、植松茉奈です。」

と、彼女はそう答えた。心療歯科というと、聞いたことのない診療科目だが、今ではそういう物もあるのだろう。

「どんな心療をされているんですか?」

と、蘭が聞くと、

「いわゆる、歯科心身症という物を中心的に見ています。いわゆる、精神疾患に伴う、口の中が乾いたり、噛む力が弱くなったとか、そういうものです。時には、別の科へ紹介することもあります。」

と、茉奈さんは答えた。

「そうですか。分かりました。一般歯科とはまた違うんですね。僕は最初の質問でびっくりしてしまいましたよ。」

蘭が正直に言うと、

「大丈夫ですよ。一般的な歯科もちゃんとやりますから。」

と、茉奈さんはにこやかに答えた。そして、三日後に、詰め物の様子を見たいので、又来てくれないかといった。蘭は分かりましたと言って、一時に御願いした。茉奈さんは、もう帰ってもいいですよと言ったので、蘭は、ありがとうございましたと言って、バラの花がついたドアを開け、待合室へ戻った。

「どうだった?」

と、杉ちゃんに聞かれて、蘭は、

「いや、なかなかかわいい先生だったよ。なんでも、心が病んでいる人のために治療を施しているらしい。心療歯科と言うんだって。最近の歯医者さんは、心の問題も取り扱うんだね。」

と、答えた。

「へえ、そんなこと知らなかったね。そんな診療科があったとは知らなかった。でも、そういうのがあって、医療を受けやすくなるかもしれないよ。中には、変わり者と呼ばれる奴らは、いっぱいいるんだからな。」

杉ちゃんの方は、直ぐに納得してしまう性格で、そういうことが言えるのであるが、蘭は、本当に信用してもいいのかどうか、かなり迷った。もしかしたら、もぐりの精神科の医者とか、そういう人が、勝手に作った診療科なのではないかとか、疑ってしまったのである。

「そういうのってあるのかな。やたら新しい診療科があるけどさ。本当に医療として機能しているかどうか、というのは正直分からないよ。」

蘭は一寸疑わしいなという気持ちもあったので、そういってしまったのであるが、杉ちゃんの方は、平気な顔をしたままなのである。

とりあえず、その日は、特に薬などもなく、蘭たちは自宅へ帰された。いずれにしても特に痛みなどを感じたわけでもないので、その日は、特に変わったことはなかった。まあ、三日後に、また病院に行くようにと言われているので、その通りにすればいいかな、と蘭は感じていただけであるが。

同じころ。製鉄所では、とても深刻な問題が起こっていた。

「理事長さん、またですよ。中村さん、一緒に食事したくないそうです。たとえば、別の時間に食事をとってくれるのならまだいいですけど、全く食べないというのは、どういうことですかね。やっぱり、ダイエットのことを考えているのかな。それだけじゃないような気がするんですけどね。一体、どうしましょうかね。」

と、利用者がそういうように、中村さんという女性は、一週間近く何も食べていないのだ。食べるもの言えば、水だけである。そして中村さんの左手には、今風の言葉で言えば、吐きだこと思われる物が沢山ついている。実は、全く何も食べないというわけではなく、夜中に製鉄所の冷蔵庫に入っている食べ物を残らず食べてしまい、その直後トイレに飛び込んで嘔吐する、という行為を繰り返すことが週に一度位ある。中村さんがそれを、単に美しい体型にあこがれてしているのか、それとも別の原因があって、そういうことをしているのかは本人が口に出さないので全く不明だが、いずれにしても、彼女は太っているということはまずなかった。まあ身長こそあるが、もし肥満しているのであれば、医者から注意を受けるはずだ。そのようなことは全くないので。

「このままでは、又近いうちに、冷蔵庫の物食い荒らしちゃいますよ。それでは、あたしたちだって、肝心の食べ物がなくなって、いい迷惑になりますし。彼女をとめるにはどうしたらいいんですかね。」

「そうですねえ。僕は、食べ吐きをして大損をしたと思わせないとやめないと思いますね。一度、精神疾患に陥ると、どん底まで行かないと、改善しないと聞いたことがあります。」

利用者からの報告を聞いてジョチさんは、そう答えたが、中村さんに関しては、本当に困った人物がやってきたと思ったのだった。文字通り、冷蔵庫の中身をすべて食べつくしてしまうという言葉で言い表せてしまうほど、彼女の過食はすさまじいものがあった。そのかわり、普段の食事は一切しない。冷蔵庫は、中村さんの為だけにあるわけではないのであるが、そこを理解してもらうには、まだまだ先なのかなとジョチさんは思っている。いずれにしても、他人が居たり尽くせりの手を出しても、本人には全く伝わらず、ただ本人が暴れているのを黙ってみているしかないという時期は、精神疾患には少なからずある。体の疾患と違い、薬で直ぐ叩けるかという物とは違うような気がする。

「それにしても、あたしたちの分まで食べられてしまうというのは、どうしたらいいんですかね?かくしておいても、彼女は絶対見つけ出しますよ。そういう人ですから。まあ、あたしもね、経験あるから分かるんですけど、居場所が無いと、人間変なことに走ってしまう物です。」

と、女性の利用者はいった。

「まあ、あなたの気持ちも分からないわけではないですが、彼女が変わろうという意識を持たない限り、変革するというのは難しいと思います。仕方ありませんね。彼女に食べつくされてしまったとしても、近くにスーパーマーケットもありますし、食料の調達はできないわけじゃないので、そうするしか無いと思いますよ。」

と、ジョチさんは、仕方ないという顔をして、女性の利用者に言った。

「そうですね。確かに、彼女に食べてもらおうと呼びかけても聞かないことは知っていますし。」

「ただ、やってはいけないことははっきりしています。彼女が、冷蔵庫にある物すべてを食べつくしてしまったとしても、それをとがめたり、何をしているんだと頭ごなしにいうことはやめた方がいい。食料の調達は黙って行う事。これが大事だと僕は思いますよ。」

「分かりました。ありがとうございます。あたしも、一寸鬱になって、どうしようもなかった時がありました。多分中村さんもそうなっているんでしょう。其れなら、私も、彼女がひどいことをしても、何も言わないで見守ります。」

とりあえず、利用者はそういって納得してくれたようであるが、中村さんの問題は、非常に困ることでもあった。まあ、いずれにしても、中村さんが食べ吐きを繰り返して大損をしない限り、そこから変わることは、非常に難しかった。でも、そうならなければならないという課題もあった。わざとそういう状況をつくってしまうということも、精神科の病院などであればやってしまえるかもしれないが、そういうことは、ほかの利用者のことを考えるとできないのであった。

その翌日の明け方。利用者のひとりが、食堂から女性の泣き声が聞こえてきたので、何が在ったんだと寝ぼけ眼で食堂へ行ってみたところ、冷蔵庫の前で中村さんが泣いていた。何が在ったのかとおもったら、中村さんの顔の前には、二十本以上の小さな白い物が落ちていて、その周りに赤い液体が落ちている。何だとおもったら、中村さんの歯が全部抜け落ちてしまった状態であった。よくお年寄りで歯が抜けてしまうのはよくあるが、中村さんはまだ、20代。そんな年齢で歯が抜け落ちるというのは、異例の事である。

ほかの利用者も中村さんが泣いているのに気が付き、次第に集まってくるが、彼女に対してどうしたらいいのか分からないという表情をしている状態であった。

この様子は、四畳半で寝ている水穂さんにも伝わってしまったようで、水穂さんは、布団から起きてきて、食堂にやってきた。中村さんと違って、げっそり痩せている水穂さんは、何処か中村さんと対をなしていた。

「中村さん。」

水穂さんは優しく、彼女に言った。

「病院、行きましょうか。」

之こそ、最も適切な言い方なのかもしれなかった。中村さんは歯のない口で、

「はい。」

と一言だけ言った。そのあと利用者たちは、中村さんに声をかけないようにという水穂さんの指示で、各自の部屋に戻ってしまったため、なにが起きたか知らないが、いずれにしても、ジョチさんや水穂さんが、中村さんを影浦先生に引き渡していったことははっきりしている。もう、ここで何とかなる状態ではないんだなとみんなが思ったのであった。

「そうかそうか。そんなことがあったのか。」

イシュメイルラーメンでラーメンを食べながら、杉ちゃんはそんなことを言った。

「ええ、まあこれで彼女が自分のしてくれたことに、何とかしようと思ってくれればいいんですけどね。影浦先生から、病院での彼女の話しは聞きますが、厄介な患者のひとりの思われているようです。」

ジョチさんもラーメンを食べながらそういった。

「そうかあ。病院でそういう風に扱われちゃ、本当に行き場がなくなるな。でも、ああいうところの看護師とか、そういうひとは、阿羅漢ばっかりだからな。」

杉ちゃんの言う通り、精神科の看護師さんは、態度が大きな人ばかりだった。患者さんを力づくでとめなければならないというだけではなく、患者さんのくだらないようで実は重大な話を笑顔で聞くという職務があるからである。

「そうですね。影浦先生も注意をしているようですが、このままだと彼女を消してしまうしか、誰も救われる方法がなくなりますよ。」

「まあまあ、そんな極端な例をいってはいけないよ。必ず誰かが何とかしなくちゃいけない問題なんだから。で、その彼女なんだが、歯がなくなった分、どうやってご飯を食べているんだろうね。」

杉ちゃんが、ジョチさんにそう聞くと、

「ええ、とりあえず、栄養剤を投入という形で間に合わせているようですが、彼女には、まず、人間の良さというものを感じさせることから始めなければならないと影浦先生はおっしゃっています。」

と、ジョチさんは答えた。

「そうかそうか。食べるということが、楽しいなという人が、少なくなっているんだね。なんか、僕たちの立場から言わせてもらうと、すごい皮肉なんだけど。僕らは、食べ物を手に入れるために、毎日毎日いろんな物をつくって、闇市のようなところに出品して、、、。」

ラーメン屋の店主である、ウイグル族のぱくちゃんは、一寸笑えるという顔をして言った。

「まあ、お前さんのところから見たら、そうなのかもしれないけどさ。其れにしても、彼女は入れ歯にしないといけないよな?」

と、杉ちゃんがジョチさんに聞く。

「ええ、そうなるでしょうね。でも、彼女が入れ歯をすることに応じてくれるかが問題だと思います。たとえば、入れ歯をつくるのに、そんな年なのに何で入れ歯をしなければならないのかとか、歯科医が安易に聞いてきたら、彼女は余計に傷つきます。それだけは避けたいですよね。逆に中村さんのことを、しっかり受け入れてくれる人物だったらいいんですけれど。そんな人物が果たしているでしょうか?」

ジョチさんは、疑問を投げかけるように言った。同時に、そんな事あり得ないだろうなという感じの表情をした。確かにそうかもしれなかった。一般的な歯科医は、過食症に対して偏見を持っている人も多いだろう。

「僕、ちょうどいい奴を知っている!」

と杉ちゃんはジョチさんの顔をみて、直ぐに思いついたように言った。

「あの、植松茉奈とかいう女の歯医者なら、彼女に喜んで入れ歯をつくってくれるんじゃないかな?」

「植松茉奈ですか?彼女、歯科医として開業したのでしょうか?」

杉ちゃんが言うとジョチさんは、急いで返した。

「どうしてその名前を知っているの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ知ってますよ。彼女は確か、10年前位ですかね。うちの店で働いていたことがあるんです。その時は、今の中村さんとは正反対で、拒食の道を無理やり歩いているような女性でした。お客さんからも、あんな気持ち悪い女性に接客してもらいたくないと苦情が出たので、仕方なく解雇したのですが、その時に、僕と敬一は、今度は誰かの役に立つようになってくれと進言したんですね。それを彼女はもしかしたら、いい方に取ってくれたのかもしれませんね。」

ジョチさんは、思いだしながらそう答えたのであった。

「はあなるほど!すごい奴がいるもんだな。そういう風にプラスにとらえられるやつもいるんだねえ。」

杉ちゃんが驚いてそういうと、

「しかし、茉奈さんが、歯科医となったのは意外でしたよ。あれだけ、店の客から、気持ち悪いと言って苦情が出てばかりだった人物がね。」

とジョチさんは苦笑した。

「よし、話しは決まった。茉奈さんに頼んで、入れ歯を彼女に作ってもらおう。そして、食べることは楽しいんだってことを、教えてもらおう。」

杉ちゃんは、にこやかに笑って勢いよくラーメンを口にした。うまくいきますかね、とジョチさんは苦笑しながらも、ラーメンを口にした。




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入れ歯 増田朋美 @masubuchi4996

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