第22話 エピローグ 黄泉路にて

 朱塗りの灯篭とうろうが奥に向かって等間隔に並び、薄闇を照らしている。


 はて、と風花が首を巡らせても、周囲には灯篭に照らされた一本道しかなく、光の届かない場所には濃度の高い闇がわだかまっていてその先がどうなっているのかよく見えなかった。


 どちらに進むべきかしばし迷い、なんとなくの勘に従い行く道を決め風花が歩き出す。


 しばらく歩くと、道の先に女が一人が立っていた。


「っ!? 母様!」


「大きくなったわね、風花、睡蓮」


 母が娘たちに優しく微笑みかけてくる。


 風花が振り返ると、いつからそこにいたのか睡蓮の姿がそこにあった。


「母様……。ずっと、ずっと会いたかった……っ」


 睡蓮が母に手を伸ばすと、見えない壁が二人の間を阻む。

 これより先は黄泉の国。生者が生きたままこの壁を越えることは決してない。


「見守ることしかできないのがもどかしかった」


 壁越しに母が娘と手を重ねる。

 すでに死んだ我が身では娘たちを抱きしめてやることも、その温もりを感じることさえ許されない。

 それを思うとたまらなく悲しく切ないが、それでも愛する娘たちの方から会いに来てくれた。

 母としてこんなに嬉しいことがあるだろうか。


「本当に困った子たちね。こんなところまで会いに来てしまうなんて」


 少し寂しそうな微笑みを向けられ、胸に込み上げてきた感情が二人の頬を珠の雫となって伝い落ちる。


「風花。お姉ちゃんのことは許せた?」


 少し困ったように微笑み、母が風花に問う。


「……母様こそ、自分を殺した娘が憎くはないのですか」


 母の問いかけに風花はバツが悪そうに視線を逸す。

 正直もう自分が姉をどうしたいのかよく分からなかった。

 罪から逃げようとした姉が許せなかったから、死の道へ進もうとする姉の前に立ちはだかり続けると決めたのに、殺された当人がこの様子では猶更なおさらだ。


「憎いなんてそんなことあるはずないわ。睡蓮は私を苦しみから解放してくれた。人のまま終わらせてくれた」


 母からの思いがけない許しの言葉に、睡蓮がゆるゆると首を横に振る。


「あなたには辛い役目を背負わせてしまったわね。本当にごめんなさい」


 母が胸の内に秘めていた後悔を吐き出すと、睡蓮は「違う」と小さく首を横に振る。


「謝らなきゃいけないのは私のほう。あの時私がもっと強ければ、母様と九尾を切り離すこともできたかもしれなかったのに……!」


 睡蓮がその場に膝から崩れ落ち、後悔の念に唇を震わせる。

 何度も考えたことだった。

 もし、あの時もっと強ければ。

 もし、もっと早く母の異変に気付けていれば。もしかしたら救えた命だったのではないかと。

 そしてそれを思う度もう取り返しがつかないことを思い知り、深い絶望が心を昏く染めていくのだ。


 謝ったところで、許して貰えるとは思っていなかった。

 それでも母に謝りに行きたかった。いっそお前のせいでと詰ってくれればどれだけ気が楽だったか。


「……もしそうだったとしても、きっと私は助からなかった。九尾の封印は私の心臓と直結していたもの」


「っ! 母様、まさかすべて知って」


 息を飲んだ風花に母は静かに頷いた。


「毎晩ね、九尾が夢の中で囁くの。お前は無価値な存在だ。父親のかせとして生まれた出来損ない。早く死ね。死んで我を解き放てって」


 思えば、地獄のような人生だった。

 歳を経るごとに大きくなる内なる声に存在そのものを否定され続け、政略結婚の道具として好きでもない男の妻になった。

 けど、そんな人生にも幸せな瞬間は確かにあったのだ。


「父の人質として生かされ続けた人生だったけど、それでもあなたたちという宝物を授かることができた。私の人生は決して無駄なんかじゃなかった」


 生と死を分かつ境界に触れ、最も愛した二人に向けて母は笑顔で別れの言葉を告げる。


「あなたたち二人が生きていてくれることが私の人生の証明です。どうか姉妹仲良く手を取り合って、最後の瞬間まで精一杯生きてください。それが私の望みです」


 姉妹たちの身体が後ろへ『ぐんっ!』と引っ張られていく。

 どうやら現世の身体が目を覚ましつつあるらしい。


「風花、どうかお姉ちゃんを許してあげて! 睡蓮は、お母さんちっとも気にしてないから、しっかり生きなさい! 二人とも元気で────!」


 必死に手を伸ばしながらも遠ざかっていく二人の娘たちに向け大きく手を振り、母は最後まで笑顔で姉妹たちを見送った。



 ☆



 ふと、花のような香りが漂い風花の意識がゆっくりと覚醒していく。


「あらぁん、目が覚めたのねん」


「うわぁぁっ!?」


「んまっ、失礼しちゃうワ。そんなオバケでも見たみたいに」


 目を覚ましたら鼻先数センチの位置にオネェゴリラの顔があれば誰だって叫ぶ。

 フローラルな香りの正体はゴリラの鼻息だった。生暖かいラベンダーの香り。

 頭ではいい香りだと分かっていても、もっと根源的な部分が受け付けるのを拒んでいた。


 風花が周囲に視線を巡らせると、どうやらどこかの洞窟の中のようだ。

 気絶している間に運び込まれたらしい。


 ちょうど二階建ての建物がすっぽり収まる程度の広さの空洞内は篝火かがりびで照らされ明るく、中央にはやぐらが組まれていて、二人は櫓の下に敷かれた茣蓙ござの上にいた。

 一定のリズムで打ち鳴らされる和太鼓の音が洞窟の壁に反響して耳に心地よい。


「……ここ、は?」


 太鼓の音に反応したのか、隣で寝かされていた睡蓮が目を覚ます。


「火結嶽の麓の洞窟よん」

 

 ゲボ美がチラリと流し目で櫓の外を見る。

 その視線の先には篝火に照らされた舞台の上で神楽を舞う狩衣姿の司が。


 ここでようやく風花は以前聞いた死者に会う秘術の話を思い出した。


「二人にとって命よりも大事な儀式だから手伝ってほしいなんて言われたら、学園の保険医としては付き添うしかないじゃない?」


 ゲボ美がおちゃめにウインクを返すと太鼓の音が止まり、司が壁に向かって一礼して儀式が終わる。


「大丈夫かい?」


「猛……」


 ぼんやりしたままの睡蓮に、櫓の上から降りてきた猛が穏やかに問いかける。


「……ずっと、母様には恨まれてると思ってた。けど、違ったの」


 睡蓮が猛の胸に寄りかかり込み上げてきた感情を少しずつ吐き出していく。


「母様は私たちに生きろと言ったわ。ちっとも気にしてないからって……っ」

 

「だから言ったじゃないか。君の母上はそんな人じゃないって」


「……私、馬鹿だった。大馬鹿よ……」


 自責の念で母の優しさすら忘れかけ自ら命を絶とうとしていたなんて、とんでもない親不孝者だ。


「今まで心配ばかりかけて、ごめん」


「睡蓮が前を向けるようになったならそれでいいさ」


 愛する婚約者に額を寄せ、目尻に涙を浮かべて猛は静かに笑みを深めた。

 姉妹たちがようやく前を向くことができたことが何よりも嬉しかった。


「ごめん……ごめんね……っ、ありがとう」


 今まで目を背けてきた猛の想いを受け止め、睡蓮が彼の背に回した腕に力を込める。

 止めどなく溢れ続ける睡蓮の想いを猛は静かに受け止め続けた。





「お母さんにはちゃんと会えたか?」


 静かに抱き合う猛と睡蓮を横目に、額に浮かんだ汗を拭い呼吸を整えていた司が風花に声をかける。


「……ああ。おかげで一つ迷いが晴れた」


 母は姉を恨んでなどいなかった。

 すぐに気持ちの整理をつけることはできないかもしれない。

 だがそれが母の願いだというのなら、歩み寄る努力くらいはしてみようと、素直にそう思えるようになっていた。


「そうか。そりゃよかっ……た…………」


 司がニッと笑い返すと、まるで糸が切れたようにその場に倒れ込んでしまう。


「お、おい! どうした!?」


 風花が慌てて司の身体を受け止めると、すでに司は気持ちよさそうな寝息を立てていた。


「無理もないわよ。丸三日も飲まず食わずで神楽を舞い続けたんですもの。愛されてるわねんアンタ。羨ましいわ」


 ゲボ美に頭を撫でられ、風花の胸裏に切ない思いが込み上げてくる。

 自分と姉の間にわだかまっていた闇を祓ってくれたこの少年もまた、大きな闇を抱えていることを風花は知っている。


 支えたいと思った。


 自分にできることは多くないかもしれない。

 それでも何もかも抱えて進もうとするこの少年が、背負った過去の重さに潰されてしまわぬよう、側で支えてやることくらいはできるはずだ。


「まったく、無茶しすぎだ」


 風花が司の頭を膝の上に乗せて寝かしつけ、そっと髪を撫でる。


「……ありがとう、司」


 この恩はいつか必ず。

 そう心に誓い、今は司が過去の悪夢にうなされぬよういつか母がそうしてくれたように、穏やかな寝息を立てる司の頬に風花は軽くキスしてやるのだった。



 ☆



 某日。夜堂家本邸。


 蝋燭の灯された和室で一人の男が胡坐をかいて座っている。

 背は高く体格もがっちりしているが蛇の化生を彷彿とさせる生白い顔をしており、闇より深い黒を湛えた瞳からは僅かな感情さえ読み取れない。


 夜堂薊。

 叢雲と月の家紋を背負うこの男こそ司の実の父であり、この国の暗部を支配する影の支配者でもある。


「やはり生きていたか」


 無表情のまま手元の資料に目を落としていた薊の手があるページで止まる。

 そこには司が天原学園に入学し、今度の一月に行われる奉納大会への出場権を手に入れたことが記されていた。


「俺を日向に引きずり出すつもりか」


 六年に及ぶ沈黙を破り司が今動き出した意味を考え、息子の真意を悟ってもなお、闇に巣食う怪物の仮面は微動だにしない。

 感情などとうの昔に斬り捨てている。

 かつて自分が殺し損ねた息子が生きていたと知らされようと、どうとも思わなかった。


「どうなさいますか」


 部屋の隅にわだかまっていた闇が微かにうごめく。


「消せ」


「御意」


 影が音もなく部屋を去っていく気配を感じつつ、薊は次の資料へ目を移す。

 司の死は確定事項で、それが覆ることは後にも先にも無い。

 すでに薊は息子への興味を完全に失っていた。



 ☆



 包丁がまな板を叩く子気味良い音に司は目を覚ます。

 ふわりと香る出汁の匂いに空きっ腹がぐぅと鳴った。

 ふと外を見ればすでに日が昇って朝になっていた。


「起きたか。もうすぐできるから待っていてくれ」


 台所に立つ風花の横顔は晴れやかで、どこか輝いてさえ見えるその光景を司はしばしにんまりしながら見つめ続けた。


「なんだ。さっきからジッと見て」


「美人の横顔を堪能してただけだよ」


「か、からかうな馬鹿者」


 などと照れくさそうにする仕草も、出会ったばかりの頃に比べて随分と柔らかいものに感じるのはきっと気のせいではない。

 頬を微かに染めた風花がせっせとちゃぶ台の上に料理を並べ、朝食の準備が整った。


 メインは厚焼き玉子に焼き魚。脇を飾る大根の味噌汁とほうれん草のお新香も美味そうだ。

 ほっかりと茶碗によそわれたご飯は三日三晩何も食べていない司に合わせて随分と柔らかめに炊いてある。その細やかな気遣いが嬉しかった。


「「いただきます」」


 空きっ腹に味噌汁を流し込むと全身に熱がじんわりと伝わり活力が漲っていく。

 続けてお新香、ご飯、味噌汁、焼き魚、厚焼き玉子と順番に黙々と食べ進めれば司はすっかり元気になっていた。

 神代は内臓機能も強いのだ。


「だいぶ顔色も良くなってきたな」


「飯が美味いからな。結婚してくれ」


「……あまりからかうと本気にするぞ」


 ボソッと呟かれた一言に司が「おっ?」と箸を止める。

 見ればその顔は鬼灯のように朱く染まっていた。今までにない反応だ。


「俺は一度もからかった覚えなんてないけどな」


「まだ言うか」


「何度でも言うさ。俺は本気だぞ、初めて会ったあの時からな」


 司の奇行を思い出しそれはそれでどうなんだと思わなくもない風花だったが、ともあれだ。

 これほど真っ直ぐな好意を向けられて、しかも同じ屋根の下で暮らしていて、さらに窮地に駆けつけ命を助けられ長年抱えてきた問題まで解決されたとあっては────。



 ちゅっ。



 と、ちゃぶ台を乗り越えてご飯粒のついた唇に不意打ち。

 一瞬で頭が真っ白になった司に風花が妖艶な笑みを浮かべ、


「浮気したら許さないからな」


 今度は覆いかぶさるように、また司の唇を奪う風花であった。

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