第17話 白面金毛九尾

 引き裂かれた睡蓮の身体が煙と共に弾けて、次の瞬間、九尾の背後に回り込んだ睡蓮が刀を鞘ごと振り抜いた。


「瞬閃」


 百万分の一秒の速さで振り抜かれた神速の一撃。

 九尾はそれを獣の直感だけを頼りに低く地に伏せて回避すると、九本の尾を蠢かせて周囲を薙ぎ払う。


 轟ッ!! と、たった一薙ぎで洞窟の天井が吹き飛び、その衝撃で地中から高温のガスが地上へと一気に噴き出した。

 双子たちの歌で全員に毒と高温を無効化する加護が付与されていなければ今の一撃ですべてが終わっていただろう。


「十束剣、風魔衝天ふうましょうてん!」


 義久が剣の神器を天高く掲げると、周囲一帯の大気が『ぐわんっ!』と持ち上がり、地中から噴き出したガスを空高くへと巻き上げ連れ去っていく。


「三輪山を、しかも隠すか雲だにも、こころあらなむ隠さふべしや!」


 大盾の神器を地面に押し当て茂利雄が神言をうたい上げれば、火山全体の地形が大きく変化していく。

 すると幾つかの地点に開いたガス抜き穴から地中に溜まっていた溶岩が噴き出して、煮えたぎる溶岩の湖が生まれた。


「十束剣、轟天鬼雨ごうてんきう!」


 天高く掲げた剣を義久が振り下ろすと、空高く舞い上がった風が雨雲を呼び、バケツをひっくり返したような大雨が『ドッ!』と降り注ぎ、煮え立つ溶岩の湖を冷やし固めていく。


 だが九尾は周囲で巻き起こる大自然のスペクタクルには一切目を向けず、ただひたすらに睡蓮を殺そうと獣の俊敏で跳びまわり、鋭い殺意を秘めた爪牙を振り回す。


「磯の上に生ふる馬酔木あしび手折たおらめど、見すべき君がありと言わなくに。奥義、蜈蚣千刃むかでせんじん!」


 来人が胸の前で腕をクロスさせると、無数の毒ナイフがムカデのように組み合わさり、ズルズルと素早く蛇行しながら九尾へと襲い掛かる。

 九尾が九つの尾をデタラメに振り回してナイフの大ムカデを蹴散らすと、がくんっ! と目に見えて九尾の動きが鈍くなった。


「ケケケケッ、馬を酔ったみてぇにフラフラにしちまうから馬酔木あしびっつうんだよ! 狐ごときに耐えられるかっての」


「ガァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 九尾が怒りを叩きつけるように叫ぶと、全身からどす黒いオーラが沸き立ち火山のように大爆発した。

 瞬く間に広範囲に広がった濃密な邪気は岩の大地を腐食させ、邪気を直接浴びた者たちから力を奪い去っていく。


「ぐっ!? 邪気毒か! 全員伏せろ! 十束剣、風魔衝天!」


 とっさの判断で義久が邪気を上空へ払い散らすも、邪気毒をモロに浴びてしまった茂利雄と来人は意識を刈り取られその場に崩れ落ちた。


『茂利雄!? 来人!? 二人ともどうした!?』


「毒だ! 凄まじい濃度の邪気毒を浴びたんだ! 三日月くんは夜叉丸で二人を後方に運んでくれ! 双子たちは歌を止めないで! あると無いとじゃ大違いだ!」


 呪符越しに飛んできた三日月の不安そうな声を拾い、八咫鏡で睡蓮を庇いつつも難を逃れた猛が即座に的確な指示を出す。


『分かった! 頼んだぞ夜叉丸!』


 毒の効かない夜叉丸が茂利雄と来人を担ぎ戦線を離脱してゆき、返事代わりに双子の歌がクライマックスへと差し掛かる。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


「くっ!?」


 大きく飛び上がった九尾の大回転踵落としを司が腕で受け止める。

 司の身体を突き抜けた衝撃は大地に巨大な亀裂を走らせ、地の底から噴き上がったマグマが炎の雨となり地上に降り注ぐ。

 間髪入れず九尾が尾をデタラメに振り回し、鞭のようにしなる尾が司を弾き飛ばさんと迫る。


「八咫鏡、天蓋万華鏡てんがいまんげきょう!」


 猛が鏡の盾を掲げて神器の力を完全開放する。

 ジャストのタイミングでねじ込まれた奥義により司を護るように薄い光の膜が張り巡らされ、打撃の衝撃はすべて九尾へと跳ね返った。

 八咫鏡の守護範囲を己が認めたすべての者に付与する最終奥義、天蓋万華鏡。


アリアドネTo klouvítisAriádnis!」


 糸を編んで作った繭で邪気から身を護っていたアリーが白魚の指を躍らせると、目に見えないほど細い糸が九尾の身体に幾重にも絡みつきその動きを封じた。

 二人が繋げこじ開けてくれた大きな隙。

 そこへ司の会心の一撃が突き刺さる!


「破邪顕正拳ッ!!!!」


 神気の光を帯びた拳が風花の鼻先、薄皮一枚の位置でピタリと止まる。

 直後司の拳から神気の波動が吹き荒れ、風花の中から九尾だけを外へ弾き飛ばした。

 身体から九尾が抜け風花の顔を覆っていた狐の面がボロボロと崩れ落ちてゆき、その場に倒れかけた風花を司が肩で抱きとめる。


「つ、か……さ……?」


「そうだ俺だ! 助けに来たぞ!」


「わた、し……私は……っ!」


 風花の目の焦点が徐々に定まり意志の光を取り戻していく。

 その瞳に真っ先に映ったものは、姉の横顔。


 ────こんな時でさえ、お前の眼中に私はいないのか。


 怒りの炎が風花の意識を忘我の縁から呼び戻し、憎しみの熱量が空っぽの心をじりじりと満たしていく。




 一方、風花から追い出された九尾は空中でくるりとひるがえり音もなく着地すると、その場の全員に背を向け一目散に逃げ出した。

 

「させるか! 天叢雲剣、草薙」


 陽光の輝きを湛えた剣を猛が横薙ぎに振り抜けば、九尾の手足が切り飛ばされて勢い余った身体が無様に地面の上を転がり滑る。

 だが胴体だけになっても九尾は止まらず、すぐさま身体を蛇へと変化させて岩の隙間に逃げ込んでいく。


「逃がしませんわ!」


 アリーがピアノを奏でるように指を操ると、蜘蛛の巣のように編み上がった糸が九尾が化けた蛇を絡め取り動きを封じる。

 すかさず今まで隙を伺っていた睡蓮が九尾にトドメを刺そうと抜刀の姿勢を取った────その瞬間!


 ガキン! と横合いから振るわれた小太刀を睡蓮が刀の柄で受け止める。

 崩れかけた狐面の奥で目を血走らせた風花が睡蓮を睨む。


「貴様の相手は、私だァァァッ!」


「っ!?」


 息も絶え絶えに牙を剥き、獣の如く小太刀を閃かせ睡蓮に斬りかかる風花。

 以前戦った時とは比べ物にならない疾さの連撃に、睡蓮は刀を抜くこともできず、刃を柄や鞘で受け止めることしかできない。


「睡蓮!?」


「邪魔するなッ!」


 助太刀に入ろうとした猛の前に司が立ちはだかる。


「あれは風花自身の意思だ! 誰にも邪魔はさせないッ!」


 九尾を追い出して残った風花自身の混じり気のない憎しみ。

 互いの神気が混ざり合った際に開いた共感覚でそれを感じ取った司が語気を強めて猛を睨む。


「何も今でなくてもいいだろう!」


「関係ない! 邪魔をするなら先輩と言えど許さん! あれはあの姉妹の問題だ!」


「……くそっ」


 強い光を湛えた瞳に見据えられ、猛は悔しそうに顔を逸らした。

 長年解決を願ってきた婚約者が抱える問題。その決着を自分の手でつけてやりたいと思うのはただの傲慢でしかない。

 それが分かっているからこそ何も言い返せなかった。



「よもやここまでやるとはな。所詮は学生と侮っていたようだ」


「っ!?」



 睡蓮たちの方へ気を取られていた猛たちが振り返ると、蜘蛛の巣に捕らわれた九尾の傍らにいつの間にか良明が立っていた。

 九尾の首筋に杖の先を突きつけ老爺は不気味にせせら笑う。


「だが、九尾を切り離してくれたのはむしろ好都合だったぞ」


「何をするつもりだ!?」


「復讐だよ。儂の忠義を裏切ったこの国と、娘の命を弄んだ夜堂へのな」


 猛の問いに良明が酷薄に嗤い返す。


「我が怒り、我が憎しみ、我が悲しみ。思い知るがいい。せいぜいその日までつかの間の平和を噛み締めることだな」


 ドロリと泥のように良明と九尾の身体が溶けて、岩の隙間に染み込んで消えていく。


「……くそっ、逃がしたか」


 混乱する術士たちから次々と寄せられる報告に眉をひそめ、義久が苦々しい顔で歯噛みする。

 鳴り止まぬ剣戟の音に目を向ければ、睡蓮と風花の戦いはさらに激しさを増していた。


「本当に母様は死ななければならなかったのか!? あの時、お前なら助けられたんじゃないのか!?」


「……っ」


「なぜ何も言い返さない! 本当は誰かを殺したくて仕方なかったんじゃないのかっ! だから母さんを刺したあの時お前は笑っていたんだ!」


「違うッ!!!!」


 押し殺していた感情を爆発させた睡蓮が風花の刃を受け流し、返す刀で押し返す。


「何が違うと言うんだ! 実の母親を手にかけておきながら笑うなんて、お前は人間じゃない! 雨水睡蓮の、姉の皮を被った剣の化物だッ!」


 風花の顔を覆う狐面がさらに崩れ、剥き出しの感情があらわになる。


 ずっと信じられなかった。


 あんなにも感情豊かで母を慕っていた姉が母を殺したことが。

 母に止めを刺したあの瞬間、涙を流しながら悍ましい笑みを浮かべていた姉は、間違いなく風花の知る睡蓮ではなかった。

 仲のよかった姉がその身に宿す神剣の御霊のせいで心まで剣のように冷たくなってしまったのではと、その確信を得るのが怖かった。


 母は死に、仲の良かった姉さえも冷たい剣の御霊に成り代わられてしまったら、自分はいよいよひとりぼっちになってしまう。

 だから剣の御霊を殺して本当の姉を取り戻そうとした。

 風花の本来の憎しみは姉の中に宿る神剣へと向けられていたものだったのだ。


 だがいつしかその想いは風花の中に僅かに残った九尾の欠片の怨念と混ざり合い、姉そのものへと向くようになった。


「違う! 違う違う違う! ……分からないのよっ! 自分が何者なのか、私にはもう分からないの……っ」


 鞘ごと振り回していた刀で風花を薙ぎ払い、睡蓮が頭を抱えて後退る。

 自分でも分からなかった。

 自分を殺してしまいたいほど悲しかったのに、あの時、気づけば自然と笑みが零れていたのだから。


 鏡に映った自分の顔にゾッとした。

 そして自分が人ではなく剣の化身なのだと自覚したのだ。

 剣は所詮、どれだけ取り繕っても人殺しの道具でしかない。

 だから誰も傷つけないように、剥き出しのこころを鞘に収めた。


「……もう誰も傷つけたくない。誰かを傷つけてしまう恐怖に怯えるのはうんざりなのよ。だからもう終わらせて。それがあなたの望みでしょう?」


 ゾッとするほどはかない微笑みを向け、睡蓮が両手を広げ身を差し出す。

 ────思えば、ずっとこうなることを望んでいたのかもしれない。

 婚約者の猛はずっと悲しみに寄り添ってくれたが、それでもこの悲しみが癒えることだけは無かった。

 伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみの加護の届かないこの地なら、この悲しみを永遠に終わらせることができる。

 忌々しい加護のせいで生かされ続けたこの命。どうせ死ぬなら、最後は最愛の妹の手で────。


「────ッ、ふざけるなァァァァッ!!!!」


 風花が睡蓮の胸倉を掴み地面に押し倒す。

 溢れる涙の理由も分からず、風花は刃を睡蓮の喉元に突きつけ叫ぶ。


「戦え! お前は剣なんだろう!? だったら母様を殺した罪から逃げるな! そんなの、私が絶対に許さない!」


 返事は無い。睡蓮はただ静かに微笑み返すだけだ。

 鞘に覆われたこころと打ち合い感じた、姉の深い悲しみと恐怖。

 姉の心の殻をこじ開けるだけの力が今の自分に無い事を悟り、風花が己の無力に奥歯を噛みしめ、そして────。




「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」




 腹の底で渦巻く激情を小太刀の切先に乗せ、叩きつけるように刃を振り下ろした。







 振り下ろされた刃を前に睡蓮は静かに目を閉じすべてを受け入れる。

 死の痛みも、妹の憎しみも、すべて受け入れるつもりだった。

 


「どう……して……?」



 いつまで経ってもやってこない痛みに睡蓮が恐る恐る目を開ける。

 振り下ろされた刃は睡蓮の首筋を薄皮一枚掠め、地面に深々と突き立てられていた。

 涙に濡れた弱弱しい瞳が風花を見つめ返す。


「死んで楽になろうなんて、そんなの絶対に許さない」


 首筋に触れた刃から風花の言葉にできない感情が伝わってくる。


「私に……罪を背負って生きろと言うの?」


「……そうだ」


 顔を覆っていた狐の面は完全に崩れ去り、素顔を晒した風花が泣きそうな顔で姉を突き放す。


「……残酷なことを、言うのね」


「お前との決着は預けておく。どうしても死にたいと言うなら、私を打ち負かしてからにしろ」


 刃を納め立ち上がった風花が睡蓮に背を向けその場から立ち去ると、入れ替わるように猛が睡蓮の側へ駆け寄っていく。


「これが風花の出した答えか」


 駆け出していった猛の背を静かに見つめ、司が風花に問いかける。


「……私はアイツを、姉を生かし続けるために強くなる。ようやく思い出せたよ、私が憎んでいたのは姉の中にある剣の御霊だったんだ」


「そうか」


 己の憎しみに一つの答えを出した風花に司は短く頷いた。

 それが彼女の出した答えだというのなら、自分はそれに手を貸すだけ。

 司の意志はすでに決まっていた。


「風花っ!」


「わぷっ!? ア、アリー!?」


 突然アリーに抱きつかれ風花が目を白黒させる。


「無事で……っ、本当によかったっ」


 風花の身体をきつく抱きしめ、アリーが安堵の涙を流す。


「すまない。心配をかけた」


「謝るのは私のほうですわ! あの日、私が遊びになんて誘わなければ風花は傷つかなかったのに……」


「違う! 私が未熟なばかりに嫌な思いをさせてしまった。すまん」


「もう! どうして風花が謝るんですの! ……もうどこにも行かないで。もうこんな怖い思いはしたくありませんわ」


「アリー……。ありがとう。本当に、ありがとう……っ」


 震える親友の身体を抱き返すと、温かな気持ちが込み上げてくる。

 帰ってこれたのだ。元の場所へ。

 この温かくも優しい友人だけは決して裏切るまいと、風花は固く心に誓った。







 睡蓮の下へ駆け寄った猛が睡蓮の身体を優しく抱き起こす。


「……ごめんなさい」


 親に怒られるのを恐れる子供のように、睡蓮が細く声を絞り出す。


「君の悲しみと苦しみを少しでも代わってやれたら、どんなによかったか……っ」


 震える睡蓮の細い身体を猛が強く抱きしめる。

 こんなにも近いのに、あまりにも遠い。

 風花の想いを真正面から受け止め、睡蓮は封印していた感情を一瞬だけ顕わにした。

 彼女の心の殻を破るためにはあと一手、彼女の感情を揺さぶる何かが必要だ。

 そしてその鍵を握るのが自分では無いことも猛は理解していた。


 太陽は空から万物を照らし温めることしかできないから。

 だから今は睡蓮の心が刃の冷たさに冷え切ってしまわないように。一人で手の届かない場所へ行ってしまわないように、強く彼女を抱きしめてやることしかできなかった。

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