第13話 追憶

 気が付くと、どことも知れぬ無明の山中を走っていた。

 凍てつく夜気が鼻の奥にしみてヒリヒリと痛む。

 身体は血が煮えたぎったかのように熱く、耳も目も、まるで獣のように冴えていた。


 ────古い記憶だ。


 黄泉の淵より蘇り、その身をよろう母の御霊に突き動かされ、炎に巻かれた儀式場から無様にも逃げ出したあの夜。


 地面から突き出た太い木の根に足を取られ派手に転んでも、すぐさま起き上がり足が勝手に前へ進む。


「くそっ、身体が勝手に!? 今すぐアイツを殺さなきゃ! 今がチャンスなんだ! 逃げるな! 戻れ戻れ戻れぇぇぇぇぇッ!!!!」


 司の悲痛な叫びだけを山の中へ置き去りにして、漆黒の鎧はひた走る。



 一刻も早く、少しでも遠くへ逃げなくては。あの男の嗅覚が届かぬ場所まで。

 奇跡は二度と起こらないから奇跡なのだ。

 あの男の意識が他へ向いている内に、はやく────。



 愛する我が子を守ろうとする母の最期の意思は、生家のある比叡山へ司を誘う。

 司が生きていると知れれば、あの男はどんな手を使ってでも司を殺そうとするだろう。

 その前に何としても嵐堂家に辿り着き庇護を受けさせる。


 消えゆく意識を繋ぎ止め、鎧は夜の野山を休むことなく駆け抜けた。


 やがて東の空が白み始めたころ。比叡山の頂へと続く大鳥居をくぐり、家の者しか知らない秘密の抜け道を通って嵐堂本家の裏口までたどり着くといよいよ神気も尽きて、鎧は煙のように解けて消えた。

 無理やり身体を動かされ続け体力を使い果たした司がその場に倒れ伏す。


「どう、して……。母、さ……ん…………」


 最後の力を使い絞り出した問いに答える者は無く、司の意識はそこで途絶えた。



 ☆



 唐突に場面が切り替わる。随分と長い夢だ。


 山の中を流れる小川のほとりに二人の人影。大人と子供、義久と司だ。

 あの夜から数ヵ月が経ったある日の記憶。


 過去の自分を俯瞰ふかんして眺めるというのも奇妙な体験だが、夢の中なら何でもありだろうと司は一人で納得した。


 むっつりと不機嫌そうに川面を眺める過去の自分の前に立ち「べろべろばー」と変顔してもまるで反応はなし。

 どうやら相手からは見えていないようだ。

 今の自分は過去を眺める幽霊のようなものらしい。なんとも変わった夢である。



「修行に付き合ってくれるって言うからついてきたのに朝からずーっと釣りしてるだけじゃないか!」


 持たされた釣竿を地面に叩きつけ、幼い司が肩を怒らせ大声をあげる。


 久しぶりに纏まった休暇が取れたから修行に付き合ってやると義久に誘われついてきてみれば、組手の練習に付き合ってくれるでもなくただのんびり釣りをしただけ。

 これのどこが修行だというのか。


「まあまあ、そうカッカしなさんな。お魚さんが逃げちゃうぜ?」


 だが司の怒りもどこ吹く風とばかり、義久はヘラヘラと笑い返すだけだ。







 あの後、司は嵐堂家に保護され、初めて対面した叔父の義久に自分の知るすべてを話した。


 父の手で母が殺されたこと。

 禍ッ人のこと。

 そして、自らも一度は殺され、母の御霊に黄泉の淵より掬い上げられ蘇ったこと。


 義久は司のつたない説明にも一切口を挟まず黙って聞き、最後には抱きしめられて涙を流しながら何度も何度も謝られた。


 神代至上主義の嵐堂家の娘に生まれ、神代でないと分かるや冷遇されて政略結婚の道具として夜堂家に嫁がされた妹。

 義久が嵐堂家の当主になり、苛烈な内部改革を断行したのも、すべては愛する妹がいつでも帰ってこれる場所を作るため。


 最近になってようやく改革の成果が表れ始め、たまには子供を連れて帰って来いと何度も手紙を出していたところだった。


 だが妹を思う兄の願いは握り潰され、永遠に叶うことはなかった。

 すべてを知った時には何もかも終わっていたのだ。


 そんな義久の独白を聞き、司は一つの決意を抱いた。


『……おれが母さんの仇を討つ。母さんを死に追いやった奴らを殺し尽くしてやる』



『だからおれに戦いかたを教えてくれ』



 あまりにも深く昏い瞳。憎しみの炎に淀んだ復讐者の目だった。

 ……子供のくせになんて目だ。過去の自分を俯瞰して見つめ、司はまるで他人事のようにそう思った。


 義久はしばし考え込むように俯き、やがて瞳に強い光を宿して幼い司に言い聞かせるように告げた。

 

『お前の行動の責任は俺が持つ。仮にお前がこの先夜堂薊を殺したとしてもそれは俺の責任だ。それでいいなら俺のすべてを伝授してやる』


 義久にとって司は妹が残した唯一の希望だ。

 復讐の泥沼へ片足を突っ込もうとしている司を止めるでもなく、その責任のすべてを背負うと言ったのは、妹を殺した夜堂への憎しみと妹が残した希望を護らねばという想いの狭間で導き出した義久なりの答えだったのかもしれない。


 司が正式に嵐堂家に養子として迎えられたのは、それから数日後のことであった。


 それから司は毎日休むことなく、ひたすらに己を鍛え続けた。

 雨の日も、風の日も、暇さえあれば野山を駆けまわり祓闘術の型を磨いた。


 司は神代としては異質な存在だ。

 その身を外からの脅威から守り、内なるまがを封印するためだけの鎧は、他の神代たちの神器とは違い固有の特殊能力を持たない。

 風や炎を操る力も無ければ、誰かに癒しを与えることも、戦況を一変させるような支援能力も無い。


 だからこそ、基礎中の基礎を達人の域まで練り上げるしかなかった。

 義久も時間を見つけては司に技を伝え、義久が相手をしてやれない時は代わりに嵐堂家お抱えの神代や家令たちが交代で組手や勉強を教えてくれた。


 夢を通じて思い出す。

 この頃は父への憎しみだけが生きる意味だった。

 母の仇を討つことだけを人生の目標とし、ただひたすらに力を追い求め続ける一匹の修羅。


 週に二日の休みを与えられても、一人で野山を駆け修行に励んだ。


 夜堂家に嗅ぎつけられるリスクを避けるため、比叡山の外へ出ることだけは禁じられていたが、それでも構わなかった。

 自分には遊んでいる余裕など無いと、本気でそう考えていたのだ。






「だいたい、こうでもしないとお前休もうとしないだろ」


 再び場面は小川でのやり取りへと戻ってくる。

 場面の時系列が曖昧なのは、やはり夢だからだろうか。


 川面に釣り糸を垂らし義久がどこか呆れの混じった視線を投げかけてくる。


「休んでる暇なんてないんだよ! 最近ちっとも修行の相手してくれないし話が違うぞ!」


「だって技術的に教えられることはもう全部教えたし」


「嘘つけ! まだ叔父貴に一度だって勝ててないんだぞ!」


「そりゃ俺ってば最強だもん。たかだか一〇歳のお子様に負けてたまるかよ」


「バカにしやがって!」


 いきり立った司が鎧を纏い踏み込みと同時に義久の横っ面に拳を繰り出す。

 が、義久は横を振り向くことすらせず、咥えていた木の枝を器用に操り司の拳をいなして受け流し、魔法のように地面に転がしてしまう。


「そこだよ。お前の弱さは」


「……っ」


 木の枝の先端を鼻先に突き付けられ息を詰まらせた司が悔し紛れに睨み返すと、義久はやれやれと溜息を吐いた。


「心に余裕が無さ過ぎる。だからすぐに怒るし、怒りに身を任せるから呼吸も乱れる。教えたはずだぞ? 心技体と自然界の神気の調和を以てこそ阿部流は成ると」


 ぐうの音も出ない正論だった。


「いいか司。お前が父親を憎む気持ちは分かる。俺だって妹を殺した夜堂は許せない。けどな、それを人生の目的にしちゃあダメだ」


 再び木の枝を咥え、周囲をぐるりと見渡しぐっと背伸びして、義久はさらに続ける。


「んー、いい天気だ。ほら、世界はこんなにも輝いてるじゃないか」


 地面に転がされてようやく空の青さに気付いた。

 山の木々は燦燦と降り注ぐ陽の光に白く輝き、小川のせせらぎが心地いい。


「釣りってのはな、自分との対話でもあるんだ。心が波立ってれば魚はそれを察して寄ってこない。これも修業の一環さ」


 そう言われればなんとなくそんな気がしてくるが、やはり司にはただ時間を無駄に過ごしているようにしか思えなかった。


「もっと心にゆとりを持て。復讐するのは大いに結構。だけどな司、だからって自分の人生を楽しんじゃいけないことにはならないんだよ」


「……そんなの、変だ」


「すぐに切り替えろとは言わんさ。けどな、復讐はどんな形であれいつか必ず終わる。そして人生はその後も死ぬまでずっと続いていく。そのことだけはよく覚えておけ」


 川面をぼんやりと眺めながら頭をくしゃくしゃと撫でてくる叔父の横顔はどこか寂しげで。

 結局その日は叔父に付き合わされ日が暮れるまで釣りを続けたが、司だけ一匹も釣れずに終わった。



 ☆



 また場面が切り替わる。

 小川でのやり取りから三ヵ月ほど経ったある日の記憶。


「で、今度は何をやらせるつもりだよ」


「見て分からないか? 料理だよ料理、自炊男子はモテるぞ?」


 場所は嵐堂本家の厨房。

 目の前にズラリと並んだ食材と、その横に立つのはひよこエプロン姿の叔父だ。

 かわいいエプロンを違和感なく着こなしているのが妙に腹立たしい。


「どうでもいいよそんなの。なんで急に料理なんて」


「料理ってのは正確な時間配分と空間把握能力、他にも色々な能力が試される。これも修業の一環だ」


「そう言えばおれが納得すると思ってるだろ」


「ハッハッハ、マッサカー。ソンナコトナイヨー」


「棒読みじゃないかっ!」


「まあまあ、やってみたら案外楽しいかもしれないだろ?」


 チラリと厨房の隅へ視線を投げれば、この家の厨房を預かるハゲ頭の料理長が柱の影で腕を組みムッツリと頷いた。


「……やればいいんだろやれば」


「ほう、だいぶ素直になってきたじゃないの」


「言ってもどうせ無駄だし」


「可愛くねぇのー。まあいいや、今日はカレー作るからな」


 と、渡されたレシピに沿って調理が始まった。

 手慣れた様子で野菜の皮を剥いていく義久に意外感を覚えつつも、見よう見まねで野菜を切っていく。


 調合したスパイスを乾煎りして、野菜くずから出汁を取り、玉ねぎは飴色になるまでじっくり炒め、牛のブロック肉や野菜と一緒に煮込む。

 初めて作るにしては中々の本格派だ。


 この日作ったカレーの味は今でも鮮明に思い出せる。

 スパイスの刺激をまろやかに包むほのかな甘みと、深いコク。


「うまいか?」


 義久が微笑んで司に訊ねる。

 うまいに決まっている。母のカレーと同じ味なのだから。


「……母さんの味だ」


 ぽろぽろと、押し込めていた感情が目尻から零れ落ちていく。

 母が死んでから約一年。涙などとうに枯れ果てたと思っていた。


 五歳の誕生日を迎え、神代としての素質が無いと分かるや夜堂本家の離れに軟禁されて育った。

 父親からは何も与えられず、求められず、家の者たちも皆、冷たい目で遠巻きに眺めてくるだけ。


 母だけが自分の味方で、時々ふと思い立ったように作ってくれるカレーが何よりの楽しみだった。


「もっと自分の気持ちに素直になれ。素直な気持ちで心を開かなきゃ自然界の神気は捉えられん」


 ここ最近感じていた焦りを義久に見透かされ、司が悔しげに俯く。


 型も呼吸も完璧なはずなのに、思うように術が発動しない。

 焦れば焦るほど結果は悪くなるばかりで、その不安を打ち消すようにひたすら身体を追い込み、疲れのせいでさらに心の余裕も消えていく。

 この頃の司は悪循環の袋小路に迷い込んでいた。


「……毎晩夢に見るんだ。あの日の光景を」


 司が痛みを堪えるように項垂れる。


「炎の中で母さんの身体がどんどん冷たくなっていく。拭っても拭っても血が取れなくて、憎い、悔しい、どうしてお前だけのうのうと生きているんだって、ずっと責めてくるんだよ……っ」


 過去を俯瞰して見ている司にはそれが禍ッ神が見せる幻だと分かっている。

 だが、この頃の司にはそれがまるで真実だったと思い込んでいた。

 それほどまでに追い詰められていたのだ。


「母さんがそんなこと言うはずないのに。なんでおれ、忘れてたんだろう」


 母の味と同じカレーが母の優しさを、愛情を思い出させてくれた。


「心の余裕が無くなって、そこを禍ッ神につけ込まれたんだろう」


 義久が司の肩に手を置き、不安に揺れる瞳を真っすぐに見つめる。


「いいか司、花奈の、お前の母さんの愛を忘れるな。お前の母さんはお前に幸せになってほしいから、お前を黄泉の淵から掬い上げたんだ」


 反論を許さぬ揺るぎない確信を秘めた強い瞳だった。


「禍ッ神の幻なんかに負けるな。思い切りテメェの人生を楽しんで、お前に死ぬことしか望まなかったクソ野郎の親父にざまあみろって言ってやれ! お前はもっと「生きること」を楽しんでいいんだ!」


 義久の言葉は、司の人生観を一八〇度変えた。

 まさに目から鱗だった。

 楽しむことが、幸せになることが復讐になるなんて考えたこともなかったからだ。


 それから司は叔父の腕の中で泣いた。


 一生分の涙を出し尽くすほど泣いて、泣いて、泣き疲れて、いつの間にか眠りにつき、気が付けば朝になっていた。

 その日だけは悪夢を見ることなく目が覚め、まるで生まれ変わったような気分だったことを今でも覚えている。


 そしてその日を境に、司は少しずつ変わっていったのだ。



 ☆



 再び場面は切り替わり、気付けば司は無人の映画館の座席に座っていた。

 人生で一度だけ、母と一緒に行った映画館。

 隣であの頃のままの姿をした母が彼の半生を映した大画面を眺めていた。


「今までよく頑張ったわね」


 映画が終わり、母がこちらへ振り向いて薄く微笑む。

 不意に訪れた母との再会に、思わず涙が出そうになった。


「母さん、俺……」


「大丈夫。あなたはまだ死んでない。それにあなたにはまだやるべきことがある。そうでしょう?」


 司が頷く。

 捕まった風花を助けに行かねば。それに、復讐だってまだ終わってない。


「風花さんは今、大きな闇に飲み込まれつつある」


 風花との間に開いた共感覚が、彼女の危機を伝えていた。

 あまりのんびりしている時間はなさそうだ。


「……そろそろ行かなくちゃ」


「気を付けてね」


「ありがとう、母さん」


 母の微笑みを最後に世界が揺らぎ、意識がぼんやりと解け、覚醒に向けて浮上を始める。




「私はいつでもあなたの側にいる。忘れないで、あなたは一人じゃないわ」




 夢の終わり。司は最後にそんな母の声を確かに聞いた。

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