第8話

 僕とリリは港に向かった。港にも人はいない。眠そうな三人の兵士がいるだけだ。一人はビットに腰掛けながら呆然と水平線を眺めている。もう二人は仰向けになって雲一つない空を見ている。そこは僕の想像するような港とはかけ離れていた。


 海は陽光を受けてきらきらと輝いていた。その向こうにまっすぐ横に伸びる水平線が見える。その線上に小さな船がお風呂のあひるみたいにぷかぷかと浮かんでいた。


 

 やがて、大きな帆船がやってきた。帆は風にはためき、船は気持ちよさそうに左右に揺れている。受け取ったロープを兵士が機械的にビットに固定した。もう一人の兵士は軍刀を空にだらしなく傾けて掲げている。もう一人はあくびをしながら敬礼していた。


 船から降りてきた兵士は10人ほどだった。どうやら思っていた港の様子とは違ったらしく兵士たちは困惑していた。テルミッドの兵士たちとは違ってみんなやる気に満ち溢れていた。この10人の樹人討伐隊のうち、無事に帰ってこれる者は果たして何人いるのだろうか。なぜ無謀にも挑戦するのだろう、と僕は思った。彼らを止めようかとも考えたが、鼻息をふんふん鳴らし意気込んでいる兵士を見てそんな気は失せてしまった。


 

 全ての兵士が船から降りて行ってしまうと、僕はやる気のない兵士に船に乗せてくれと頼んだ。


「ああ、構わんぜ。勝手に乗りな」と兵士は言うので、僕らは勝手に乗った。


 

 早くも数人の乗組員が大声を出し合って錨を上げていた。こんな町からは早く出たいようだ。船長らしき人物が僕らを見て、こつこつと近づいてくる。船長の顔は上下から何かに挟まれたような横に伸びた顔をしている。そして、ぼさぼさの髪と眉毛と口ひげをたくわえていた。そんなだらしなさに反して、体はすらっと痩せていて姿勢も良い。顔を隠して杖を持たせればもう英国紳士だ。船長は左手を腰に携えたサーベルの柄頭に置いている。


「どうだったかね? テルミッドは」


「もう来たくないです」


「私もだ。もっともテルミッド行き唯一の船を任されてるもんで、そんな願いは叶わんのだがな」と言って船長は朗らかに笑う。


「この船はサファーマ行きで合っているか?」


と、深くフードを被ったリリが言う。


「ああ、そうさ。サファーマまで直行だよ。銀貨2枚でいいよ」


 リリは僕を見て、そこで気付いたようだ。どうやらリリも持っていないらしい。当然に僕が持っているものだと思っていたのだろう。


「あの、お金持ってなくて」と僕が言う。


「なんと、すられたか。旅人は常に用心してなくちゃ、旅の基本だろう? さて、どうしたものか。ただで乗らせるわけにもいかんな?」


 船長はぼさぼさの眉を片方つり上げて僕を見た。二つ返事でなんだってしますと言ってしまった僕は色々とこき使われ、もう腕が鉛のようにずっしり重い。特に運動もしてこなかった高校生に船上の仕事はあまりにもハードすぎた。リリは早々と船倉に退散してしまった。紳士の精神性を持ち合わせた船長がそれを咎めなかったように僕もそのことについて特に何とも思わなかった。おそらく一睡もしていないだろうし、リリは十分な休息を取るべきだった。


 

 リリは積み荷を背にうずくまるようにして寝ていた。リリの体が呼吸に合わせて動いている。僕はそっと近づいてその横におそるおそる座る。酷使した腕に力を入れるとぷるぷる震えた。


 船が大きく揺れて、リリの頭が僕に寄りかかってきた。フードがずれて緑色の髪が見えてしまったが、僕はすぐに戻さず少しの間リリの寝顔を眺めた。こうしているとニアと何も変わらない。寡黙で頼れる強い女性という印象はどこかになりを潜め、代わりに愛らしい純朴な少女という印象を僕に与えた。リリからヒノキのような優しい香りがした。僕はその香りに安らいで少しの間まどろんでしまう。


 

 僕は甲板に上がって心地よい潮風に当たった。そうして、しばらく遠くの方に見える見事な水平線を眺めていると、こつこつと軽快な音を立てて船長がやってきた。


「綺麗な海だろう」


 はい、と僕は言った。


「あんた、どこ出身なんだ」


 僕は深い事情があって答えたくないといったふうにそれを無視した。


「樹人の森かい?」


 船長はおもむろに腰のサーベルを抜いた。金属のぶつかる高い音が鳴る。僕は突然の出来事に驚いて後ずさった。


「テルミッドに行こうなどという旅人はほとんどいないんだよ。そんな数少ない旅人の顔を記憶するなんて訳ないさ。あんたらは私の記憶にない旅人だったのでね、初めからおかしいと思っていたんだ。おまけに樹人の一人がサファーマに向かっているという情報だ。フードを被った女を見た時、ぴんと来たよ。」


 どこに隠れていたのか分からないが、船倉の方からぞろぞろと30人ほどの兵士が出てくる。その中心にコートを脱いで緑色の髪を露わにしたリリが後ろ手に縛られていた。リリと目が合った。こんな絶望的な状況だというのにリリの目は助けを求めているわけでもなく、安心感を与えてくれるわけでもなく、僕に何も教えてくれない。船長が僕に反ったサーベルの剣先を向ける。


「樹人は潮風に弱いらしいな。とても簡単に捕まってくれたよ。樹人なんて森がなければ恐れるに足らないな。あんたいったい何者だ? どうして人間が樹人なんかと一緒にいるんだ」


 僕は意を決して剣の柄を掴んだ。体はすっかり恐怖していて、足は小刻みに震えていた。その姿勢のままで、僕は船長とリリを交互に見た。船が傾いて僕は姿勢を崩す。どうにもできない。できるわけがない。僕はただの高校生で異世界人なのだから。


「なんでだよ、なんで樹人をそんなに嫌うんだよ、お前らが手を出すから森は牙を剥くんだぞ。何もしなければ森は静かにそこにあるだけだ」


「そこにあるだけで罪なんだよ」


「そんなこと」


 その先の言葉は出なくて、僕は力なくその場にへたり込んでしまった。もう死んでもいいや、と僕は思った。どうせ、もとよりそのはずだったんだ。結局僕の生きる意味って何だったんだろう。


 帆がばたばたとはためき、船がぎいぎいと軋む中でリリの声が響いた。


「ナギ、目を伏せろ」


 瞬間、ガラスを割ったような音が聞こえたのと同時に甲板にいた僕とリリを除くすべての人間が内側から弾けた。30と10数個、血に濡れた緑の結晶体が双子葉類のように甲板の上に生えていた。肉片があたりにばらまかれる音がぼとぼとと生々しく響き、すらりと細い船長の返り血が僕の顔に飛び跳ねた。僕の前にサーベルがからんと軽い音を立てて落ちる。


 

 帆はばたばたとはためき、船はぎいぎいと軋んだ。大量の血を浴びたリリが僕を見る。リリの綺麗な緑色の髪と若草色のワンピースは血を吸って赤くなり、白い手や足に血が滴っている。リリが一歩近づいてくるたびに僕は後ずさった。リリは僕に近寄るのを諦めて数歩先から言う。


「縄をほどいてくれないか」


 僕がこくりと頷くとリリはまた近寄ってきた。僕は深く息を吸い込んで動転していた気を落ち着かせようと努めた。それで心臓の鼓動はいくらか落ち着いたが、手が震えていて縄をほどくのに時間がかかった。



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