第7話
「樹人の森の奥地に転移だって? そんな大魔術師いたらすげえぞ。いまごろ樹人なんて木っ端みじんだぜ」
左側に立っていた若い門番は僕の剣を刃先から柄まで入念に調べながら言う。リリの言った通り、門番は僕をかなり怪しんでいた。隅々調べられて人間だと認められたので、警戒はいくらか和らいだ。
「いやほんとにいたんだって。僕だって驚いたよ。ほんとに怖くて命からがらここまで逃げてきたんだ。お願いだから、入れてよ。外で野垂れ死にたくはない」
僕はとても憔悴しているふうに言った。
「いや、お前そんな装備で樹人の森に入っちまった時点で」
左の若い門番がそこまで言うと、右の髭を生やした門番が制止する。髭の門番は深刻そうな顔で首を横に振った。若い門番は僕を思いやるように「入っていいぜ」と言う。人の良心を利用するようで気分が悪かったが、致し方ない。門番は僕の剣を鞘に収めて返してくれた。
「ありがとう。ところで宿はどこにある?」
「宿? そんなものないぜ。ここに旅人なんて来ないからな。詰所に泊まりな。どうせスカスカなんだ」
テルミッドの町は周囲を高い壁に囲まれているが、僕の正面に位置する港の方には壁がない。その先に海が広がっているから壁を作る必要はないのだ。門以外でここに入る道はそこぐらいのものだが、まさかリリは泳いでここに入るつもりなのだろうか。心配ではあるけど、リリにそんな心配は無用だろう。
活気のない町だった。門から港まで一直線に続く大きな広い道には人の往来はほとんどない。脇に並ぶ石造りの詰所の扉は開け放されていて、薄暗い中に生気のない兵士たちがベッドに腰掛けていた。外の木箱に座っていた一人の兵士が僕を見るや否や、面白いものでも見つけたように近づいてくる。
「珍しいなあ。あんたもあれか、樹人の森を一目見てみたいとかそんな理由でここに来たのか?」
そうだ、と僕は言った。僕はもうそういう理由でここを訪れた物好きという設定でいくことにした。
「そうかそうか。ただ、分かってるとは思うが、絶対入っちゃいけねえぞ。あの森に入っちまった奴は呪われるんだ。前にも20人ほどの討伐隊が森の中に入っていったんだけどな。帰ってきたのはわずか3人、そしてその3人はいずれも死んじまった。でな、その死に方ってのがひでぇもんでよ」
兵士は僕に近づいて、小さい声で続きを言う。
「なんでも中から種が発芽したみたいに奇妙な赤い植物が肉体を引き裂いてたらしいぜ」
僕は植物が肉体を引き裂く想像をした。体内で種が血を養分とし、発芽の時期を今か今かと待っている。それは死のカウントダウンで、ゼロになるのと同時に芽は肉体を内側から貪り貫いて、肉片を辺りに散らす。
僕は自分の胃のあたりを見た。僕の呪いはニアのおかげで解けているはずだった。そう分かっていても、僕の胃の中の異物感は消えなかった。急いで路地へと駆け込み、ひとしきり吐いてから僕はあの兵士を恨んだ。あの兵士は嫌な人だ。
胃の中を空っぽにしてしまった僕は食べるところを探した。探している途中で一銭も持っていないことに気づいて諦めた。これに関して、僕はリリを責めた。
ふと、僕は大きな石の壁に囲まれたこの寂しい町で猛烈な孤独感に襲われた。一文無しとなってしまった僕はできるだけ人の居ない詰所に入った。そこで質の悪いベッドに腰をかけて一息ついた。突然、部屋の隅で淀む暗闇から誰かの声が届く。それはわずかな隙間からなんとか出てきたという具合のかすれた声だった。
「誰だ」
僕は驚いてその隅を見つめた。だんだん暗闇に目が慣れてきて、そこにひどくやつれた男がいるのが確認できた。男の眼窩はくぼんでおり、頬は骸骨のようにこけている。僕はまた驚いた。
「旅の者です。樹人の森を見てみたくて」
言うと、男はそのくぼんだ目を大きく見開いてかたかたと震え出した。やめてくれ、と男は言った。
「もうその言葉は聞きたくない。やめてくれ」
男はひどく怯えていた。きっと彼は死のカウントダウンに怯えているのだ。物好きだろうか、それとも兵士だろうか。本来彼が持っていたであろう人格や外見はすっかり失われてしまっていて、どちらであるかはもう全く識別することができない。
僕は詰所を出て、路地に打ち捨てられた汚い木箱をちゃんと置いて、そこに腰を落ち着けた。辺りはもう暗くなっていた。暗く静かな町の路地で僕はやつれた男の残酷な運命を悲しんだ。人があんなに瘦せることができることを僕は知らなかった。あんなにもやつれるまであの男は絶望しているのだ。
気付けば僕は泣いていた。僕の前に暗澹たる幕がゆっくりと降りてきて、歪む視界を覆い隠した。
僕の体は深い海の底へと沈んでいった。光の届かない深海の底では僕の声はどこへも届かず、誰にも見つけてもらえない。ずっしりと重い何かが僕の心を押しつぶそうとして、僕はそれに抗うことができない。
不意に誰かが僕の頭を撫でた。優しく微笑む母は泣きじゃくる僕の頭を撫でている。
「また怪我したのね、一道。痛かったね。大丈夫だよ、よしよし」
僕の膝からは転んでできたらしい擦り傷がある。血もそんなに出てなかったから、大した怪我でもないのに僕は号泣している。母は少し困りながらも僕をおんぶして尚も嗚咽する僕の背中をさすりながら「帰ろうか、一道」と言って歩きだした。しかし、背中をさすっていた暖かな母の手はいつの間にか消え、胸にまたあの時の痛みがやってきた。安らぎは突如として痛みに変わり、母は黒づくめの男に変貌していた。僕の胸には刃物が深く突き刺さっている。深く被ったフードから覗く口がゆっくりと開かれる。
「我が名はゼロ」
わずかに開かれた口から蛇のように長い舌がちろりと這い出て、虫のうめき声のような笑い声が漏れでた。僕は男のフードに手を伸ばしていた。届かなかった、小さな子供の手は男に届かない。
僕はゆっくり顔を上げる。誰かが僕を深海から引きあげてくれたようだ。リリが僕の頭を撫でていた。リリの手は優しくて太陽のように暖かい。リリの表情は相変わらず虚ろだったけど、確かな慈しみがそこにはあった。
「すまない、遅くなった」
リリに泣いているところを見られたと思って、僕はたまらなく恥ずかしくなった。そんな僕に構わずリリは頭を撫ででくるので、僕は気を遣いながらリリの手をどかした。そして、僕はなんとなく膝を見つめた。膝をすりむいていたはずだった。思い違いだろうか、そこにあったはずの傷は跡形もない。
辺りはほのかに明るくて、見上げると壁の向こうの空は淡い茜色に染まっていた。壁が日の光を遮っていて、町は大きな影にすっぽりと覆われている。
「船がいつやってくるのか情報が欲しい。ナギ、頼んでいいか」
「聞いてくるよ」
僕は痛む首をほぐしながら、大通りに出た。どうやらうずくまった体勢で寝ていたから、痛めたらしい。少し頭も痛い。
僕がこんな異郷で暮らすことになったその元凶、ゼロという男の存在を僕は意識せざるを得なかった。ゼロのあの禍々しい迫力は脳裏にすっかりこびりついている。神々しい女が言った「復讐心が貴様の存在する意味」という言葉を僕は反芻した。つまり、ゼロはこの世界の住人? それとも僕と同じ転生者? この世界の住人なのだとしたらゼロは僕のいた世界に転生してきたことになる。ただ神々しい女を信じれば、ゼロはこの世界にいる。しかし、仮にそうだったとしても僕はあんな恐ろしい男に復讐なんてしない。他人に生きる意味を決められてたまるか。僕の生きる意味は僕が決める。
なにやら詰所の前に数人の人が集まっていた。彼らはみな中の様子を見て戦慄している。あの若い門番が路地で吐いていた。そこはやつれた男の詰所だった。僕は必死に別のことを考えて、頭をいっぱいにした。優しいリリのことや母のこと、熱いコーヒーに、ユーカリが丘、暑い日差しと海、それからガラス細工、円周率にスクランブルエッグ、フロイト心理学、くじらに桶狭間の戦い。
僕は息も絶え絶えになりながら、なんとかやり過ごした。頭がより痛くなった。それからもふとした弾みで思い出さないように自分の生きる意味について考えながら歩いた。
あくびをする兵士と目が合う。できれば会いたくなかった。
「や、おはよう旅人さん。いやー気持ちいい朝だね」
はい、と返す。仕方なく嫌な兵士に聞くことにした。
「今日の船いつごろ来るか知りませんか?」
兵士は下卑た笑みを浮かべた。
「森に行くのはやめにしたのかい? もしかして昨日の俺の話か? そうかそうか、悪気はなかったんだけどな、いやすまないな」
本当に嫌な人だ、と僕は思った。きっとこの人は旅人らしい人を見つけては森の呪いの話をしているのだろう。そして、意気消沈して帰っていく旅人を見ては笑うのだ。それがこの人の生きる意味なのだろう。実に低俗だ。
「船、知りませんか?」
「船な。確か今日だったな、名誉ある樹人討伐隊の進軍式は。もうすぐ来ると思うぜ。港に行くといいさ。屈強な兵士たちのパレードが見られるぞ」
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