第6話

 樹人の聖域には夜がない。一般的に夜とされる時間は確かにやってきているのだが、日が絶えず照っているおかげでその感覚がないのだ。それにもかかわらず、僕は用意されたベッドに倒れこむのと同時に泥のように深い眠りへと落ちていった。


 

 黒づくめの男が僕の心臓を正面から貫く。僕はあの時の痛みを思い出して激しく悶えた。


「我が名はゼロ」


 男は言った。わずかに開かれた口から蛇のように長い舌がちろりと這い出て、虫のうめき声のような笑い声が漏れでた。男の顔貌は深くフードを被っていたために明確にならない。胸に突き刺さる刀は僕の背中をすっかり貫通してしまっている。僕は痛みに耐えながら命が絶えるその寸前、男のフードに手を伸ばしていた。そして、僕の意識は次のカットに行くみたいに突然分断された。



 僕は世界を知らない無垢な赤子のようにゆっくりと目を開けた。神秘的に心地よい眠りだった。目覚めてすぐに夢の中の出来事は昔の記憶かのように急激に薄らいでいって、もうほとんど思い出せなくなってしまった。


 

 聖域から一歩外に出ると、また辺りは等間隔に林立する木々で埋め尽くされた。僕が最初に感じた恐怖感はとうに消え去っていた。森はただそこに佇み、静かな安らぎを僕に与えてくれた。リリが背後の空間からするりと現れる。


「森を出て道沿いに進んでいくと人間の住む町が見えてくる。そこがテルミッドだ。そこから船に乗り込みサファーマを目指す」


「どれくらいかかる?」


 少し悩んでからリリは投げやりに「遠いかもな」と言う。


 随分アバウトな答えだ。寿命の長い樹人は距離や時間の感覚が鈍いのかもしれない。リリは若草色のワンピースの上にフード付きのコートを着込んだ。人間に樹人だとばれると面倒なことになるからだ。僕はいまいち樹人と人間の関係性について明確なイメージを持つことができないが、良い関係でないことは明らかだった。そういった複雑な事情についてリリに質問してみたかったが、なかなか気軽にとはいかない。基本的にリリは寡黙でこちらから何か話しかけない限り喋らなかった。リリは特に会話をするのが嫌いというのではないのだろうけど、結局僕が気にしすぎているだけなのだ。


 僕らは道中ほとんど口を利かなかった。お互いの足音が静かな森の中に妙に響き渡った。綺麗な色をした小鳥が僕らの進む先に現れては飛び立ち、飛び立っては鳴いた。リリは長い緑の髪をコートの中に隠してしまっていてそれを眺めることができない。ニア(意識はヨタだった)と森の中を歩いた時に見たあの美しく揺れる長髪を眺めることができないのは少し残念だった。


 

 リリはヨタには何も伝えずに行こうと提案した。伝えればヨタは憤るだろうし、勝手に僕らが行動したということにしておけばヨタにとっても都合が良いだろうからということだった。それに伝えずともヨタは知っている。



 何時間か歩いてようやく森の外に出る。不思議と疲れは感じていない。リリが薄く雲のかかる空を仰ぎ見た。切り立った山から太陽が眩い光を放射状に散らしている。特に何か感想を言うでもなく、リリはフードを深く被って再び歩き始めた。


 ここらは峻嶮な山脈にぐるりと囲まれている盆地で、その中には樹人の森とテルミッドしか人の居住地はないらしい。つまりこの道を通る者はテルミッドの人間か、樹人の森の樹人に限られるということだ。馬車の轍以外には雑草が薄く茂っていたところから人の往来はあまり頻繁ではないようだ。


 道沿いに歩いていると、脇に見覚えのある木が一つ立っていた。ニアと出会った場所だ。樹人の森の太い木を見慣れてしまってからではその細さに心もとなさを覚える。しかし、きれいな扇形に開くように生え伸びている葉は生命力に満ちていて僕を不思議と懐かしい気持ちにさせてくれた。そこで、はたとその木がにれの木であると思い当たる。もといた世界にも生えている木を見て僕は懐かしい気持ちの正体に気づきいくらか寂しくなった。


「リリ」と僕は立ち止まってもらうつもりで呼んだのだが、リリは歩き続ける。


「リリ、あのさ。違う世界から来たんだ、僕」

 

 リリはそこで立ち止まり振り返った。リリと僕との距離は4メートル程空いている。「急になんだ」と言ったリリは僕の顔を見て、黙って木の方へ歩いていった。リリと僕は隣り合わせで根元に寄りかかるようにして座った。


「話せ」


 リリはしっかりと僕の目を見つめて言った。こんな突拍子もない話を真剣に聞いてくれるのが僕はたまらなく嬉しかった。何事にも動じないような超然とした態度のリリに僕は懺悔室の迷える子羊のようにぽつぽつと話しはじめた。


「僕は前の世界で千葉の佐倉というところで高校生として過ごしていたんだ。ある日の夜、アルバイトの帰り道で突然刺されてね。死んじゃったんだよ、僕。とても痛くて苦しかった。そこで終わりだと思っていたのに次に僕は白い空間にいたんだ。そこで誰だか名前も名乗らない偉そうな女にお前の生きる意味は復讐心だとかいい加減なことを言われて、最後に僕は深い森の中にいたんだ」


 僕が経緯を全て話すと、リリは僕から視線を外して自分のつま先あたりを眺めた。しばらくリリは何も言わずそうしていた。僕はリリに配慮しない説明をしたことを少し後悔した。


「前の世界は平和だったのか」


 リリは言った。


「うん、少なくとも僕の周りは平和だったよ。誰もいがみ合ったりはしてないし、両親は僕を愛してくれていたし、幸せだったよ。でも、当時の僕は気づけなかったよ、幸せの中にいることに。世界は優しい人たちばかりだった。もちろん、中には嫌な人もいるけどね」


「帰りたいか」


「可能なら、帰りたい。でも、僕は一度死んでるからね。違う世界とはいえ、こうして第二の人生を歩ませてもらってることに、あの女の人に感謝しなきゃいけないのかもしれない」


 リリはまた黙った。太陽は初めに見た時よりも傾いていてちょうど僕らの上あたりにきていた。木漏れ日がコートから覗くリリの白い足にまだら模様にかかっている。強い一陣の風がやってくると、そのまだら模様は揺れ、楡の木は一斉にざあざあと鳴った。


「行こうか」


 リリはまだ深く考え込んでいるようだったけど、立ち上がって歩き出した。僕は慌ててリリの後ろに付いて行った。


「やっぱり信じれないよね」


「ああ」


 話を聞いてもらっただけでもありがたい。いくぶん僕の心は軽くなっていた。粛々と前を歩きながらリリはぽつりと呟いた。


「ニアがナギを信じたように私もナギを信じたい、とは思っている」


 それはリリにとってニアへの憧憬であったし、僕への激励であったようにも思う。



 


 数時間歩いて、頑健な城壁と門が遠くに見えてきた。「あれがテルミッドだ」とリリは言った。


「もう疲れた。着いたらゆっくり休もう」


「私は入ることができないから別ルートから入る。ナギは先に入って休んでいろ」


「そんなに厳重なの?」


「当たり前だ、あの門を通る理由のある者は樹人討伐隊かあるいは樹人かしかいない。であれば当然、門番は厳重に通る者を審査する。少し調べられでもすれば、私の正体はすぐにばれよう。ナギもかなり怪しまれるだろうがどう調べられようと人間なのだから大丈夫だ。悪い魔女に樹人の森に転移させられて命からがらここまで逃げてきたとでも言っておけ」


 僕はテルミッドの城壁と門を眺めた。門から少し離れた位置に出っ張ったやぐらがあるのが見える。あのやぐらから樹人の森を監視しているらしい。樹人から人間に対する憎悪というものはあまり感じないが、なぜ人々は樹人をここまで恐れているのだろうか。森に入らなければいいだけのことではないのか。樹人討伐隊なんてものがあるのも花園を焼いたというのもこの世界の人が相当に野蛮だからなのか。僕は今更になって少し人間の町に入るのが怖くなった。


 僕は気軽にリリに質問してみた。


「人間と樹人はどういった関係なの?」


「半ば一方的な敵対関係。人間は樹人を恐れている。それは私たちに天変地異を起こせるほどの力があるからだ。もちろん、私たち樹人は仮に樹人という種が滅びようともそんな力を使わない。だが、人間にとって私たちの意志などどうでもいい。絶大な力を持ち、自分らを脅かすものの存在自体奴らにとっては許せないのだろう」


「この世界の人間は悪いやつなの?」


「それはナギの世界と同じなんじゃないか。嫌な人もいれば良い人もいる。割合はどうか知らんが。まあ、行ってみればわかる。しばしお別れだ」


 リリはそこで道から外れて、雑木林の向こう、横手に見える切り立った山々の方へと消えていった。





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